第9話

 ゼラスの街からモライドの街まではネレウスとティアの足で一週間を要した。やはりここも他の街と同じように高い壁が周囲を囲んでいる。また、一連の事件を受けて街区管理官の数も増えていたことも同じだった。ただ一つ異なっていたのは、黒い翼を持つ黒翼人が周囲に増えていたことだった。

 「ふうん、錬金術師の見習いと白翼人か」

 「ええ、ちょっと雇ってもらえそうなところを探しておりまして」

 街区管理官の背中にも黒い翼があった。その街区管理官にネレウスは腰を低くして言う。

 「資格はあるの?ないと無理だろうな。最近はよその街と同じように景気がいいとはいえないからな」

 頭をかきながら答えた街区管理官は後ろのティアにも目を向ける。

 「それとあの白翼人は護衛で雇っているのか?ならいいんだけど。この街は知ってのとおり、黒翼人の多い街だ。白翼人が仕事を探すのは難しいぞ」

 途中から声を潜めながら街区管理官は言った。

 「ご助言ありがとうございます。とりあえず探すだけは探してみますので」

 無言でうなずいた街区管理官の脇を通ってネレウスとティアは街の中に入る。街区管理官の言っていたとおり、行き交う人には黒翼人が多い。彼らは一様にティアに無遠慮な目を向けてきた。

 「悪いな、こんな街に連れてきてしまったりして」

 「いえ……」

 歩きながらそう答えたティアは体を硬くして顔をうつむかせる。ネレウスは黒翼人の視線から守るようにティアの前に回り込んで歩いた。

 「特に最近は黒翼人が多いようだ。景気が悪くなって周囲の小さい街からこのモライドに流れ込む黒翼人が増えているらしいな。ただでさえ……」

 数の少ない白翼人は好奇の目に晒されて居心地が悪いだろうが、とネレウスは続ける。ティアは黙ってうなずいた。

 しかし、好奇の目というもので終わらないことは、ティアはもちろんネレウスも知っていた。加えて時にそれは暴力的な形を取って現れることもあったことも知っていた。

 そして、そのことはモライドの街だけの話だけではなかった。首都キールにおいても黒翼人はその数の多さを頼みに白翼人に対し、あらゆる面で優越的な態度をとり続けていた。そして、ティアがその一連の流れの犠牲者となっていたことまでもネレウスは知っていた。

 そのティアはネレウスを押しのけるように前に出た。突き刺さる周囲の視線を跳ね返すように胸を張る。だが一方で、すがるように、胸に剣を抱きながら歩く。

 宿屋も黒翼人の経営だった。錬金術師の見習いだとネレウスが言うと、俺の甥も錬金術師になると言ってキールに行ったんだと、白髪の主人は相好を崩した。天窓のある部屋に泊まりたいという希望を聞いてくれたのはそのおかげだったかもしれない。

 「これならティアも窓から飛び立ちやすいだろう」

 ネレウスは天窓を開けて外を見回す。天窓からは並ぶ建物の屋根が一面に見える。ネレウスは軽くうなずいて天窓を閉じた。

 「薬品の調合にまた数日かかる予定だ。それまではゆっくりしていてくれ。と言っても、この街ではゆっくりできないだろうけどな」

 苦笑を浮かべながらネレウスは振り向いてティアの顔を見た。ティアは同意とも否定ともつかない表情を浮かべたままネレウスの背後に立っている。

 「まあ、街ではゆっくりできないかもしれないが、幸いなことに部屋は二つある。向こう側の広い部屋を使ってくれ。あの部屋ならその翼を広げても余裕があるからゆっくりできるだろう」

 ネレウスはそう言ってさっそく錬金術の器具を取り出す。太さも大きさも違う管や瓶からなる複雑な構造であるが、組み立てるネレウスの手つきは慣れたものだった。

 「ありがとうございます」

 しかしティアは礼を言いつつも、ネレウスの手をその場でじっと見つめている。

 「疲れただろう。部屋で休んでいた方がいいぞ」

 それでもティアは動こうとしない。

 「……あの、見ていていいですか?」

 少しの間ののち、ティアはためらいがちに口を開いた。

 「ああ、構わないけど。錬金術なんて、見ていてもそんなに面白いものではないけどな」

 ネレウスは戸惑った表情を見せる。だが、脇の椅子を引き寄せて腰掛けたティアは、剣士らしからぬ柔らかい微笑を顔に浮かべてネレウスの手元に視線を向けた。

 しばらくは数少ないものの二人の間にあった会話だったが、ネレウスが作業に集中するにつれ、その会話もいつしか消えた。それでもティアは同じ姿勢のままネレウスを見ていた。

 「ふう……」

 次にネレウスが口を開いたのは窓の外がすっかり暗くなってからだった。瓶の中の薬品を慎重に混ぜ合わせていたネレウスは、反応した薬品が赤く変わったことを確認すると肩の荷を下ろすように息を吐いて顔を上げた。

 「あれ……?」

 外の暗さに比べて明るい室内にネレウスは思わず声を出す。視線を向けた先には火の灯るランプがある。暖炉にもすでに薪が炎を上げていた。

 「ありがとう、暖炉の火まで入れていてくれて」

 ネレウスはちょうど暖炉の中に薪を追加しようとしていたティアの背中に声をかけた。

 「いえ、日が暮れて寒くなってきたので……」

 ティアは振り向きながら答える。揺れる炎が白い翼に艶かしく反射した。

 「もう夕食は済ませてきた……」

 のかい?と言おうとしてネレウスは口をつぐむ。このモライドの街で白翼人が気軽に出歩けるわけがない。それを裏付けるようにティアの表情が硬くなる。

 「それならばどこか食堂にでも……」

 だが、何かを思い出したようにネレウスは開きかけた口を途中で止めた。

 「そうだ、今日はもう遅いから簡単に済ませることにしよう」

 ネレウスは側の鞄の中から干し肉の包みを取り出す。

 「え?それは……」

 ティアは戸惑いの色を顔に浮かべた。重い器具を背負っての長旅の後である。空腹はティアよりもはるかに感じているはずだった。

 「大丈夫さ。翼のある君ほど体力は使わなかったからね」

 ティアの心を読んだかのようにネレウスは笑う。ティアもつられて笑みを顔に浮かべた。

 ティアは部屋の隅にあった小さな机を中央に出して食卓代わりとする。ランプも一つあれば十分なほどの机の大きさである。ネレウスの夕食の準備が整うにも長い時間は必要としなかった。もっともそれだけに、金属の皿の上にあったのは先ほどの干し肉と乾いたパン、そして他にはスープが並んでいるだけだった。

 「これぐらいしかなくて悪いけど」

 すまなそうな顔をするネレウスにティアは首を横に振る。

 「これぐらいなんて、そのようなことはありません。かつての私からすればどのような食事でもおいしく頂けます」

 そう言ってティアはパンを手に取る。

 「特にネレウスさんが焼いたこのパンは、私が今まで口にしたパンの中でもっともおいしいものです」

 「本当かい?そう言ってもらえるとうれしいな」

 「もしかしたら、ネレウスさんは錬金術師になるよりパン職人になっていた方がよかったかもしれないですね」

 ティアの冗談にネレウスは苦笑を浮かべる。

 「うーん、そう言ってもらえるとうれいしいのか、うれしくないのか……」

 「ふふふ」

 表情の変化に乏しいいつものティアらしくない笑顔である。ネレウスはその笑顔に大げさに肩をすくめながらパンを口の中に押し込んだ。

 「ところで、このモライドの街についてだけど」

 ネレウスが急に話を変える。声もこれまでとは別人のように低く変わっていた。

 「本当にこの街に来てよかったのかい?」

 ネレウスの問いにティアは手を止める。

 「どうしてそんなことを聞くのですか?」

 「いや、言ったとおり黒翼人が多い街だし、本当は来たいとは思っていなかったんじゃないかと」

 ランプの向こう側のティアの顔にくっきりとした陰影が浮かび上がる。

 「たとえそうであったとしても、あの時にあのような契約を結んだのであれば、私はそれに従うまでです」

 ティアはじっとネレウスの目を見つめながら言う。その力の強さに思わずネレウスは視線をそらしてしまうほどだった。

 風もないのにランプの光が大きく揺れる。その光がネレウスとティアとの影を壁に大きく映し出した。

 「さ、食事を続けようか。スープが冷めてしまうよ」

 声も元の穏やかなものに戻っている。その声に顔から緊張を消したティアは、小さくうなずくと二つ目のパンに手を伸ばした。ネレウスも干し肉の載った食器を手元に引き寄せた。

 そこから先はまたいつものように取り留めのない話に戻った。これまでに通り過ぎた街の光景、会話を交わした街の人々、二人の話は尽きなかった。

 「そう言えば、安い部屋に泊めてくれたあの宿屋ですけど」

 ティアがパンを手にしたままネレウスに目を向けた。

 「ああ、あの宿屋か。やけに安い部屋だから何か変だと思ったら……」

 ネレウスも干し肉に伸ばしかけていた手を止める。

 「酒場の前の部屋で一晩中うるさかったんだよなあ」

 「だけど、そのおかげでさまざまな情報を得ることができましたよね」

 「そうだったな、おかげで逆に楽しい時間を過ごせたな」

 いつもは慎重に言葉を選ぶティアだが、今日のように会話に興が乗ってくると遠慮のない言葉となってくる。もっとも、ネレウスはその遠慮のない言葉を交わすのも楽しかった。

 ただ二人の会話の中で、ネレウスがどのような薬品を作っているかの話題については慎重に避けられていた。それでも二人の会話は尽きることなく、夜も更けるまで時折笑い声を交えた二人の会話は続いた。

 「すまない。少し時間がかかってしまって」

 暗い部屋の中では小さなランプの炎だけが揺らめいている。ネレウスは振り向きながら背後に立つティアに声をかけた。二人がモライドの街に着いてから、一週間が過ぎていた。

 逆光に黒く沈むネレウスの手には小さな薬瓶がある。ネレウスはティアの手にそっと薬瓶を滑り込ませた。

 「この街は他の街とは水の成分が違うようだな。思うように薬品が反応してくれなかった」

 ネレウスはそう言って首を横に振る。

 「そのおかげでいつもの薬品が出来上がるまで時間がかかってしまった。待たせてしまって申し訳ない」

 「いえ、大丈夫です」

 ティアは小さく微笑む。

 「それではいつものようによろしく頼むよ」

 「はい」

 「それと君の剣だけど」

 ネレウスは側に置いてあった剣を持ち上げる。その剣を見たティアの表情がさっと変わった。

 「錬金術の薬品にはこの街の水は合わなかったようだが、鉄を反応させる薬品にはよく合った。ティアが不在のときにちょっと使ってみたんだ」

 ネレウスは剣をティアに渡す。上気したティアの顔が剣に浮かび上がるように反射した。

 「こんなに輝いて……自分の剣がこれほど美しいとは……」

 剣を眺めるティアの瞳も同じように輝いている。いつも寡黙なティアであるが、独り言とは思えないほど饒舌だった。

 「どうもありがとうございました」

 その自分の姿にようやく気がついたらしい。あわててネレウスに礼を言う。

 「ああ、気にしないでくれ。勝手にやったことだから」

 ネレウスは手を大きく振った。

 「まあ、その剣を使うことがない方がありがたいんだけどね」

 そう言ってネレウスは苦笑を浮かべる。

 「だけど、君の命が危険に晒されるようなことがあったら、その剣を使うことにためらいは必要ない。これは何度も言っていることだけど」

 真剣な表情に変わったネレウスは言う。ティアも笑みを消して、わかりました、とうなずいた。

 「それでは行ってまいります」

 ティアは剣を鞘に収め、一礼すると天窓から外に飛び出した。

 ちょうど新月の日に当たる空は漆黒の闇に覆われている。ティアの白い翼はその闇にたちまちのうちに溶け込んでいった。ネレウスはその翼が見えなくなってもなお開け放たれた天窓からティアの去った方角を見つめ続けていた。

 ティアが戻るまでにはそれほど長い時間は要しなかった。

 「おかえり、ティア」

 ネレウスはいつもの言葉でティアを招き入れる。

 「ただいま戻りました」

 ティアもいつもの言葉と共に頭を下げる。

 「どうだったかい?やはり警備は厳しかったかな」

 「ええ、政府倉庫の周囲は近衛兵が固めていました。しかし、さらに今回は屋根の上に近衛兵が待機していました」

 「そうすると、薬瓶は……」

 「残念ながら、置いてくるできませんでした」

 ティアは薬瓶をバルドに返した。

 「そうか……だけどそれでいい。時は必ず来るんだから、無理をすることはない」

 薬瓶を受け取ったネレウスは少し考え込んだ。

 「そう言えば黒翼人はいなかったかい?」

 不意に思いついたようにネレウスはティアに問いかける。

 「いえ、途中で何人かに会いましたが」

 何気ない言葉の裏に隠された意味に気がついたティアは、はっとして腕を押さえる。

 「もしかしたら……」

 ティアの返事はない。ただ悔しそうに顔を横に向ける。

 「ちょっと腕を見せてみるんだ」

 ネレウスは体から引き剥がすようにティアの腕を取る。その腕には、明らかに剣によってつけられたと思われる長く横に伸びる傷があった。

 「大丈夫です。見かけよりは浅いので」

 ティアはネレウスが差し出した包帯を受け取ると、背を向けて腕に巻く。確かにティアの言うとおり、傷は長さの割りに浅い。しかし、背中の翼は何枚もの翼が落ち、無事なところも大きく捻じ曲がるなど激しく乱れていた。

 ネレウスはその翼を手に取り、そっと指にくぐらせる。一瞬だけ体をびくりとさせたティアだったが、何も言わずされるがままになっていた。

 「大丈夫じゃないだろう。こんなに翼が傷ついて。これでは飛ぶのがやっとじゃなかったのか?」

 ネレウスが手にする風切翼にはあちこちに隙間が出来ており、とてもかぜを捉えられるような状態ではない。ネレウスはその翼を一枚一枚、丁寧に指で整えてやる。特にティアの手が届かない肩口の翼についてはとくに念入りに手をかけた。

 「何度も言っているじゃないか。自分の命が危うくなったのなら、その剣を使うんだと。君の実力をもってすればたいていの相手には勝てるんだろ」

 ついついネレウスの口がとがる。しかし、ティアは首を横に振るだけである。

 「この剣はあなたを守るためのもの。その契約に私は背くことは出来ません」

 ネレウスはティアに聞こえないよう、小さくため息をつく。このティアの性格はあの時命を助けた時からまったく変わっていない。その真っ直ぐな性格は心強くもあったが、ティアの身を案ずるネレウスにとってはまた不安でもあった。

 その不安を押し殺すようにネレウスは一心にティアの翼を整える。ティアはおとなしくされるがままになっていた。

 「とりあえずこれで少しは飛びやすくなっただろう」

 ようやくネレウスは翼から手を離す。ティアが肩甲骨に力を入れると、白い翼は狭い部屋を覆わんばかりに広がった。

 「美しい……」

 ネレウスは思わずつぶやいていた。

 何の汚れもない白い翼は高山に積もる雪のようにネレウスには見えた。もっとも、実際にはネレウスは雪など見たことはない。ただ、知識として知っているだけである。

 ネレウスの頭の中で積もる雪の情景は美化され、何か崇高なものとして存在していた。しかし今、その雪の情景はティアの翼とまったく違わず重なっていた。

 一方で、整然と並ぶ翼が一部だけ抜け落ちた翼は、外見が立派なだけに極めて不恰好に見えた。しかし、それでもティアは胸を張り、卑屈な様子など何一つ見せていなかった。

 不意に夜空を切り裂く鳥の鳴き声が窓から飛び込んでくる。おそらく新月の闇に紛れて空を渡る鳥の声なのだろう。やや遅れてそれに返事をするように同じ鳴き声が遠くから聞こえてきた。その鳴き声に二人は同時に顔を上げた。

 「さてと、今日はこれで寝ようか」

 ネレウスはあわてて立ち上がる。ティアも音を立てて翼を閉じた。

 錬金術の器具は管や瓶などが繋ぎ合わされ、複雑な構造になっている。その管を外しながら、ネレウスは無意識のうちにつぶやいていた。

 「屋根の上にも近衛兵がいた、か……」

 そして窓の外を眺める。もっとも、窓の外を眺めてもネレウスが思い描く政府倉庫は見えるわけがない。

 (もしかしたら気づかれた可能性があるな。翼人が今までの事件に関係していることに)

 ネレウスはじっと考え込む。

 そこまで考えたところで、ネレウスはまだ背後に立っているティアに気がついた。

 「すまないが、この街ではもう少し時間が必要だな」

 ネレウスは振り向きながら背後のティアに声をかける。

 「はい、それは一向に構いません」

 どこかほっとしたような表情を残し、ティアは隣の部屋に姿を消す。ネレウスは閉められた扉を見ながら、再び考え込んだ。

 (ただ、この計画の本当の狙いまでは、まだ気がついていないに違いない。共和国の人間が、いつ、それに気がつくかだ)

 暗い部屋の中、ネレウスの姿は微動だにしていなかった。

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