第3話

 「おはようございます。ガークさん」

 「おはよう、今日も忙しいからな。覚悟しておけよ」

 パン屋の朝は早い。店主のガークはネレウスが店に姿を現したときには、すでに忙しそうに動き回っていた。

 ガークの言葉づかいは荒いが、気はいい。覚悟しておけよ、とは言っても別にネレウスのことをこき使ってやろうと言うのではない。ガークなりの親愛表現だった。

 「それでは、出来上がったパンを並べておきますので」

 ネレウスも急いで着替え、店の裏手の釜からパンを取り出しているガークに声をかけた。

 「そうしておいてくれ。それと並べ終わったら、店に出てくれないか。君が店に出ていたほうが、女性客への売れ行きが違うんだ」

 意味ありげな笑いとともにガークが言った。

 「はあ、そんなものですかねえ」

 ガークの言いたいことはわかったが、ネレウスはとりあえず気がつかないふりをしておいた。

 「いらっしゃいませ。お求めはこちらですね」

 「はい…」

 落ち着いた濃紺の制服に身を包んだ真向かいのドゥーラ高等学校の女子生徒は、ネレウスに声をかけられるとうつむいたまま小さく返事をした。

 「どうもありがとうございました」

 女子生徒はネレウスの微笑をわずかに盗み見たが、すぐに目を伏せ、小走りで店を出る。外では待ち構えていた友人が女子生徒をからかっていたが、ネレウスはもうそのときには次の客の応対に移っていた。

 「ちょっと、お兄さん。これちょうだい」

 「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」

 「こっちが先よ。割り込まないで」

 客は次々と押し寄せる。焼きたてのパンの香りが漂う店の中だが、雰囲気は夕方の市場のようだった。あわただしい空気は昼過ぎになるまで続いた。

 「お疲れさま、今日も客が多くて大変だったろう」

 「いいえ、商売繁盛なのは結構なことですよ」

 ようやく客足も一段落し、二人は遅い昼食を取った。売れ残りのパンとはいえども、このあたりではガークより上質のパンを作る職人はいない。二人の食も会話も弾んだ。

 「それにしても疲れたんじゃないか。棚への上げ下げも力が必要だし」

 「まあ、少しは」

 本当のところは少しなどではなかった。働き始めて二年にもなるが、いつも筋肉の痛みには悩まされる。

 それも当然である。あの日を迎えるまでは、こんな重労働などしたことがなかった。そして、ずっと錬金術師として生きていくことを疑うこともなかった。

 そう、あの日。街角で物乞いの少年を見つけた日からネレウスの運命は大きく狂い始めた。

 「ねえ、兄ちゃん。金くれよ」

 臨時に開かれた錬金術総合委員会へ出席した帰り道のことだった。時間ばかりかかって内容のない会議に、座っていただけにもかかわらず体は疲れていた。

 だが、共和国錬金術師連盟評議員であるネレウスには、欠席などはできない。総合委員会での審議を止めるわけにはいかないし、まだ二十を過ぎたばかりで評議員に選ばれたということで、錬金術師のみならず市民からの注目も集めていたからだった。

 いつもだったら物乞いなど無視して歩いているが、今日は反射的に足を止めてしまった。物乞いの言葉の中にネレウスの出身地である、ストーラ地方の訛りがあったためだった。

 「君はストーラ出身なのかい?」

 ストーラ地方は西にゲルナニム王国と国境を接する山岳地である。山が多く、道も険しいことから細々と貿易が行われている程度で、豊かな地域ではない。せいぜいやせた土地で作物を作るぐらいだけである。

 「ああ、そうだけど、そんなことより腹が減っているんだ。なんかくれよ」

 「どうしたんだ、こんなところにいるなんて。畑は耕さなくていいのか」

 「旱魃が起きたんだよ。春になってから雨がぜんぜん降らなかったんだ。ゲード川も干上がるほどだ」

 少年は面倒くさそうな顔をしたが、ネレウスが真剣に何度も聞いたため、しぶしぶといった感じで答えた。

 「ゲード川が干上がったか…」

 ネレウスは慄然とした表情となった。

 ストーラ地方の中央を流れるゲード川は、少し晴天が続くと流れが細くなる不安定な川だった。まだ子供だったネレウスは、その水を汲んで何度も畑の間を往復したことを覚えている。

 だからネレウスがキール錬金術学院への進学を決めたときは家族の誰もが喜んでくれた。錬金術師が誰からも尊敬される職業であるからだけでない。錬金術師になれば、国から給与は支給され、毎日天候に頭を悩ませる必要はなくなるからである。

 さらに学院での卒業研究が評価され、錬金術連盟の評議員にネレウスが過去最年少で選ばれたときには、村では大騒ぎになったという。評議員に選ばれるということは、共和国の中でも十本の指に入る技術を持つ錬金術師ということを意味していたからだった。

 自分では好きな錬金術の研究をやっていただけであるが、そのようなことを聞かされて悪い気分にはならない。むしろ、今後は評議員として錬金術の発展に努力しようとの自覚も高まった。今日だって会議に出席するために、途中で好きな実験を打ち切って出てきたほどだった。

 さらに少年の話を聞くと、国境付近で大規模な山崩れが発生し、隣国との交易に支障が出たらしい。そのためわずかばかりあった国境貿易での利益も失われ、このようにしてキールに出てくるほかなかったとのことだった。

 自分のときは、首都にあるキール錬金術学院へ進学できただけ、まだ余裕があった。もしも自分がこの少年と同じ年齢だったら、同じような物乞いをしていたことだろう。

 ネレウスの心の中に急に憐れみの感情が涌き出てきた。あわてて鞄をまさぐり、昼に食べるはずだったパンを取り出す。そっと手渡すと少年は小さな声で礼を言った。

 「……ところで兄ちゃんは何の仕事をしているんだい?」

 かじりついていたパンから顔を上げた少年がネレウスにたずねる。

 「ああ、私か。私は錬金術師をやっているんだ」

 「錬金術師?」

 少年は露骨に疑うような目を向ける。

 「本当に?」

 そのように少年が疑うのも仕方がない。錬金術師は国からの高給が保証されている。服装に構わないネレウスのような身なりをしているはずがなかった。

 「本当だとも」

 それでも少年の目は変わらない。むきなったネレウスはポケットから銅貨と薬瓶を取り出した。

 だが、その手が不意に止まる。ネレウスはある規則を思い出していた。

 (……錬金術師が指定された場所以外で錬金術を使用することを禁止する……)

 それは大昔に定められた規則だった。定められた当時はそれなりに意味があったのかもしれなかったが、今では単に錬金術の神秘性を高め、権威を守るための規則でしかなかった。

 しかし、何かを期待するかような少年の目に、ネレウスの手は再び動く。薬瓶を傾け、銅貨の上に薬品を数滴垂らした。すると、銅貨はたちまちのうちに金貨へと変化した。

 「……すごい、これが錬金術なんだ……」

 その様子を見守っていた少年が止めていた息を吐きながら言う。

 「俺も兄ちゃんのような錬金術師になれば、こんな物乞いをしなくても生きていけるのに……」

 「なれるさ」

 間髪を入れずにネレウスが答える。

 「ただ、他人より少しばかり勉強することが必要だけどね」

 「だけど、俺は物乞いだから錬金術師になるための勉強すらできないんだ……」

 「ならば明日にでも錬金術師連盟の事務所に来るといい。無料で学校に入学できる制度を紹介しよう」

 「そこで勉強すれば、俺にもなれるの?」

 「さっきも言ったろう?なれるって。やる気さえあれば、ね」

 少年の目に輝きが宿る。その光が次第に増していくことを確認してからネレウスは立ち上がった。

 「それじゃあ、明日は待っているから。入口で私の名前を出せばすぐに取り次いでくれるよう、手配しておこう」

 「ありがとう、兄ちゃん!」

 ネレウスは少年の声に大きくうなずくと、満ち足りた気持ちで再び歩き出した。

 「あんた、錬金術師だな」

 不意に低い声とともにネレウスの腕がつかまれたのは、まだその気持ちが消える前だった。角を曲がりかけていたネレウスは反射的に振り向いた。

 「今、錬金術で銅貨を金貨に変えたな。取締局まで来てもらおうか」

 そして目の前に突き出される錬金術取締局の身分証明書。とっさに振りほどこうとした腕はしっかりとつかまれており、逃げることはできなかった。

 それからの時間は、ネレウスにとっては夢の中の時間のようだった。ただし、悪夢としての夢のことであったが。

 「それではネレウス君。錬金術を用いて金貨を作り出したことは認めるんだね」

 錬金術連盟本部での聴聞は、窓が少ない講堂で開かれたこともあってさらに暗い雰囲気となっていた。講堂の中央に突っ立つネレウス、その真向かいには机の上の資料を難しい顔をして眺めている査問委員が並んで座っていた。

 「はい、そのことについては認めます。ただ…」

 「やれやれ、それにしても錬金術連盟の評議員がこんなことに手を染めるとは」

 ネレウスの言葉をさえぎって、右端に座る中年の委員があきれたように言う。

 「いやしくも錬金術師としての資格を持つものなら、錬金術を用いて通貨を作り出すことは重い罪になることを知らないはずがない。そうでしょう」

 皮肉たっぷりの言葉にネレウスは黙ってうつむいた。

 「最年少の評議員が生まれたとして話題になったと思ったら、こんな形でも話題になるとは。錬金術連盟としての信用問題でもあるな」

 中央の査問委員長が重々しく言った。それはこれから言い渡される処分の内容を暗示しているかのようだった。

 「まあ、金貨一枚だけですし、ネレウス君はまだまだ将来性のある方ですから…」

 なんとかとりなそうとしてくれているのは、キール錬金術学院に在学していたとき世話になったクオト主任教官だった。冷たい空気の中、無理に作る明るい声がネレウスの胸に響く。ネレウスはますます深くうつむいた。

 「しかし、規則は規則だ。ましてや評議員の規則違反となれば厳罰はやむをえないだろうな、クオト君」

 委員長の有無を言わさぬ言葉にクオトは黙り込んだ。もはやネレウスの運命は決まったのも同然だった。

 処分の内容は予想されたとおりだった。錬金術師としての資格を剥奪し、今後五十年の間は資格再取得を制限する。さらに制裁金も課されることとなった。首都キールからの追放をなんとか免れたのはクオト主任教官の嘆願のおかげだったが、五十年の制限は実質的にネレウスが再び錬金術師になることはできないことを意味していた。

 確かに規則違反ではあったが、この処分は明らかに重すぎた。いつもであればせいぜい文書戒告、もしくは譴責で終わるところである。

 それが今回こんな重い処分になった理由をネレウスは知っていた。それは錬金術連盟内部における権力闘争があった。錬金術の技術を囲い込み権威を守ろうとする長老派に対し、むしろ社会に開かれた存在になることを目指す若手集団が台頭、その若手の代表と目されていたのがネレウスだった。

 長老派としてみれば、今回の事件でネレウスを追放できれば若手集団は自然に瓦解する、そう考えたのであろう。しかし今さらその背景に気づいたところで、今のネレウスには何もできなかった。

 資格の剥奪に伴い国からの給料も打ち切られ、制裁金のおかげで資産も底をついたネレウスはパン屋での慣れぬ肉体労働を始めることになった。体の疲労もつらいが、何より部屋にある役目を終えた錬金術の器具を見るのがつらかった。さっさと捨ててもよかったのだが、いつも寝る間を惜しんで研究していたことを思い出すと、とても捨てる気にはなれなかった。

 不意に耳に入ったガークの妻の声でネレウスは我に返った。どうやら明日に大量の注文が入ったらしく、材料が足りなくなりそうだということを伝えにきたらしい。ネレウスは額をつき合わせるようにして相談する二人をぼんやりと眺めていた。

 それから半年の間は何も考えずに、というべきか、何も考えられずに時間を過ごした。そしてこのまま残りの人生を送るのだろうとも思っていた。

 その日もそんな予感を胸に帰宅する途中だった。すでに誰もが寝静まっている頃、舗道を歩いているのはネレウス以外に見当たらない夜のことである。

 歩くネレウスの頭上から、金属のようなものがぶつかり合う音が降ってきた。ネレウスが頭上を見上げる間もなく、鈍い音と共に何かが目の前に落下した。

 駈け寄った先に落ちていたのは人だった。正確には、翼人。白い翼を背中に持つ、若い女性の翼人である。

 「どうしたんだ、大丈夫かい?」

 うずくまったままの少女に向かって、ネレウスは恐る恐る声をかけた。黒や白の翼が周囲に散乱し、服はあちこちが破れて血がにじんでいる。さらに、近くには少女のものと思しき剣が転がっている。どう見ても穏やかな様子ではない。

 ネレウスの声にも返事はない。呼吸はあるようだが、このまま放っておいていいような状態ではなかった。ネレウスはしばし逡巡した後、少女の腕に自分の肩を貸し、引きずるように部屋まで連れて帰った。

 少女の傷は思いのほか多かった。手当てがすべて終わったときには、まもなく夜が明けようかという時間になっていた。だが、荒かった呼吸も落ち着き、寝台の上で穏やかに眠っている少女を見ていると、ひとつの命を救えた満足感がネレウスの心の奥底から湧き上がってきた。

 「…あの、ここは…」

 少女が眠りから覚めたのは、ほぼ一日経った夕方のことだった。ネレウスの準備する夕食の香りに誘われたかのように、うっすらと目を開け、体を右手で支えながら起き上がった。

 「気がついたかい。傷だらけの君が空から落ちてきたので、とりあえず手当てだけはしておいたけど」

 言われて始めて気がついたように、少女は自分の体に巻かれた包帯を見回した。そして口の中でつぶやくように礼を述べる。しかし、それ以上は何も話そうとしなかった。

 「それから私の名前はネレウス。錬金術師…」

 沈黙に耐えかねて、ネレウスから口を開いた。だが、そこまで言ったところではっと気がつき、あわてて言い直した。少女が実験器具を不思議そうに見ていたため、つられて口はそう言ってしまっていた。

 「…だったけど、今はパン屋の職人の見習いをしている」

 「私はティア」

 ティアはそれだけ言って黙り込んだ。ネレウスが名乗ったので自分も名前を言ったが、それ以上のことは語るつもりがないかのようだった。

 「ところでどうしたんだい?そんな傷だらけになって」

 ネレウスの問いにティアは何も答えず、何かを探すようにあちこちに目をやっている。

 「ああ、これかい。やっぱり君のものだったか」

 ティアが何を探しているか気がついたネレウスは、拾っておいた剣を渡してやった。途端にティアの表情が明るく変わる。そしてしばらくの間、無事だった剣をいとおしむように両手で抱きかかえていた。

 「そうか、君は剣士なのか。昨日は何があったのか知りたいところだけど…」

 しかし、ネレウスがそう言うと再びティアは表情を硬くした。

 「そのことについては聞かないことにしておこう。いろいろ事情もあるようだし」

 ティアはじっとうつむいている。あの時に散乱していた黒と白の翼、数多いティアの傷。ネレウスがそこから導き出した答えが、おそらく誤りでないことをティアの沈黙が告げていた。

 しばらく寝台の上で体を起こしたままの姿勢でいたティアは、剣を杖にして床に降りようとした。だが、両足を床につけて立ち上がった瞬間、その細い体はもろくも崩れ落ちた。

 「ほら、まだ治っていないんだから」

 ネレウスは手を貸してティアの体を引き起こした。翼ばたく力を失い、だらりと垂れた翼が痛々しい。ティアが怒ったように顔を背けていたのは、剣士としての矜持があるのだろう。それでも素直に寝台に横になった。

 「傷が治るまで、しばらくここで生活したらどうだ。ここは自分ひとりしか住んでいないから何も遠慮はいらない。その代わり何もできないけどな」

 ネレウスは自嘲気味に言った。無意識のうちに、何もできない、の部分に力が入っていたことにネレウスは思わず苦笑していた。

 ティアの返事はやはりない。けれどもティアには選択肢はないことはネレウスにも、そしてティア自身もよくわかっていたはずだった。

 「たいした物はないけど、何か食べるかい?」

 いったん台所に戻ったネレウスが食事を持ってきたときには、ティアは再び静かな寝息を立てていた。その手には先ほどの剣がしっかりと握られていた。

 ネレウスは寝台の横の椅子に腰掛けた。淡いランプの光がティアの寝顔に複雑な陰影を作り出している。その寝顔を見ているうちに、ネレウスには心の中にひとつの考えが浮かんできた。

 光が揺れるにしたがって、ネレウスの考えは形を変え、さらに大きくなる。これまでの自分では決して思いつくことなかった考えだった。そんなことを思いついてしまった自分に驚くとともに、ネレウスは湧き上がる含み笑いを止めることができなかった。

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