前例のない女
増田朋美
前例のない女
前例のない女
今日は春がもうすぐだなという感じの陽気で、ところどころ、梅の木に花が咲いている風景が見える、そんな日だった。そうなると、何処かへ出かけたいという人が多いのであるが、今年はできない人のほうが多いだろう。でも、家の中に居場所がなくて、喫茶店や図書館などで勉強をしている人も少なからずいる。通信制の高校にいっていたり、自分で何か勉強したり。社会的には何も役に立たないと思われても、本人たちがやっていることは、すごいことだと思ってやっていかないと続かないのである。
そんな中、今日も製鉄所では、利用者が何人か、学校の勉強をしたり、仕事をしたりしているのだった。みんな体や心に事情のある人ばかりだったけど、それなりに、勉強をしたいという気持ちがあって、製鉄所にやってくるのである。
製鉄所の中で、水穂さんは、相変わらず寝たきりの状態であった。もうげっそりと痩せてしまって、ほとんど体も動かせなかったから、衣食住誰かにやってもらわないとダメな状態であった。そういうわけで、誰かがそばについていなければだめだったが、とりあえず、食事については、杉ちゃんが来訪して、朝昼晩とつくってくれているので、それは心配いらないものの、ほかの事については、誰かが付いてやらないとダメな状態であった。
その時も、杉ちゃんが、水穂さんに雑炊を食べさせようと一生懸命やっきになっている所だった。
「ほら、しっかり食べてくれや。二回食っただけでもういいなんてそんなことはダメだよ。ちゃんと完食して栄養を取らなくちゃな。」
改めて、杉ちゃんが水穂さんの口元におさじを持っていくが、水穂さんは反対のほうを向いてしまうのであった。
「おい、食べてくれや。本当に食欲湧かないの?腹が減ったら、変になるとか、そういうことがあると思うけど。」
杉ちゃんがそういっても、水穂さんは食べようとしないのだった。杉ちゃんがどうしたら食べてくれるんだろうなと考えていると、ふいにせき込む音が聞こえてきて、杉ちゃんはいやな顔をする。そうなると、杉ちゃんは超スピードで水穂さんの口元に、チリ紙かタオルを当てがってやらなければならない。そうやって、内容物をふき取るのであるが、それでも成功するのはまれである。杉ちゃんが、歩けないで車いす生活なのもあるのかもしれないが、いずれにしても畳を汚すわけにはいかないので、そうしなければならないのである。
今回は、杉ちゃんがタオルを取り出したタイミングが遅くて、畳はしっかり汚れてしまった。杉ちゃんには畳を拭くことはできなかったので、仕方なくそのままでいた。もう何回もこれを繰り返しているので、畳は汚しては張り替えるの連続。畳屋さんが来てくれる前に、何回も汚しているので、杉ちゃんたちもやりきれなくなっている。
「おいおい、又かよ。畳屋さん、来週にならないと、都合が悪くて来られないんだってよ。」
と、杉ちゃんはそういうが、水穂さんはせき込むのをやめない。
「おーい。ちょっと手伝ってくれ。」
杉ちゃんが間延びした声でそういうと、ジョチさんが四畳半にやってきて、黙って濡れ雑巾で畳を拭いた。一度液体汚れがついてしまうと畳というものは掃除できなくなってしまい、張り替えるしかない。
「すまんな。今日も又、おんなじことを繰り返すんだ。結局、ご飯は食べないままで、こうしてせき込んで、畳を汚す。」
杉ちゃんがそういうと、畳をとりあえず拭き追わったジョチさんは、黙って水穂さんに薬を飲ませて、
「仕方ありませんよ。そういう病気なんですから。ただ、水穂さんが楽になれるようにしてやれることが、僕たちにできることなんじゃないですか?」
といった。
ちょうどその時。インターフォンのない玄関が、ガラガラと音を立ててなった。
「はれ、今時誰だろう。」
と、杉ちゃんが言うと、
「影浦です。往診に参りました。」
と声がする。何だもう少しタイミングが早ければ、畳を汚さなくても済んだかもしれないのにとジョチさんは思いながら、
「どうぞ、おあがりください。」
とだけ言った。影浦は、わかりましたとだけ言って、四畳半にやってきた。
「すみません、診察してもらう前に、水穂さん、こんな事になってしまいまして。」
ジョチさんは申し訳なさそうに言った。
「ああ、またですか。何回も水穂さんを見てますが、だんだん出血が派手になってきているような気がします。」
影浦は、汚れた畳を見て、ため息をついた。
「医療関係者の方から見ると、そう見えますか。其れは確かに僕もわかります。本当は畳を汚すことはしてほしくないんですけどね。もう、畳の張替え代が高くついてしまって、どうしようもありません。こないだなんかは、張り替えた当日に、喀血を起して、畳を汚しました。」
ジョチさんも、影浦に同調した。
「そうですか。畳を張り替えるのも、大変高額でしょう。本当は、誰かがそばについていてくれて、何か起きた時に対処してくれるような人が居てくれればいいんですが。其れをしてくれるのは、杉ちゃんなのでしょうか。」
影浦はちょっと、確認するように言った。
「ああ、すまんね。影浦先生のいうことはわかるよ。歩けるやつだったら、もっと早く対処できるって言いたいんだろ?でもねえ、利用者さんたちに、水穂さんの世話をさせるのは、一寸かわいそうな気もするよね。だってさ、もうすぐ高校受験とかの利用者さんもいるんだよ。そんな奴らに、病人の世話をさせながら勉強っていうのはちょっと、かわいそうだなと思うよね。」
杉ちゃんが申し訳なさそうに言うと、
「そうですか。世話係の中心は杉ちゃんであるとしてもですよ、誰か、手伝ってくれる人は誰もいないのですか?」
と、影浦は悩んだ顔でいった。
「そうですね。確かに先生の言う通りだと思います。一人か二人、手伝い人を雇いたいと思っているんですけどね。近くの家政婦斡旋所にも時々電話をさせてもらっているんですが、水穂さんの病気の事を言うと、みんな嫌がって誰も来てくれないんですよ。まあ、今時の家政婦さんは、昔のように、家に付きっ切りということもないですからね。なんとなく副業のような感じでやっている人ばかりで。一日、水穂さんのそばにいて、手伝ってくれるという形態で働いてくれる人を、幾度か募集しましたが、結局ひとりも集まらないんですよ。」
ジョチさんがとりあえずの「現状」を説明した。
「ですから、歩けようが歩けまいが、杉ちゃんにお願いするしかないんです。杉ちゃん、着物も着せてくれますし、料理も作ってくれますし、憚りの世話もしてくれますので。」
「しかし、水穂さんに薬を飲ませたり、詰まった血液を吐き出させるときに、直ぐに対応ができないと、意味がないでしょう。」
影浦は医者らしく現実的な話をした。
「そうですね。僕もそれは感じているんですが、誰も今はそういうことをしてくれる人はおりませんよ。」
ジョチさんは汚れた畳を困った顔で見た。
「いずれにしても、誰か、家政婦というか、ホームヘルパーというかそういうひとを頼まなければいけないのは間違いありません。ですが、水穂さんの年齢の事や、病気の様子から考えると、そういうひとを呼ぶ手段がないというのが、一番の問題です。」
「そうですか。理事長さん、これは僕からの提案何ですけど、もしよろしければ、便利屋に頼んで見てはいかがですか?」
影浦が、ジョチさんにそういうことを言った。
「便利屋?それなんだ?」
杉ちゃんがすぐそういうと、
「ええ、僕の病院に来ている患者から聞いた話ですが、代理で何でもしてくれるというひとらしいです。その患者さんは、重度の対人恐怖と診断されていますが、その人に依頼をして、市役所にマイナンバーカードの申請を御願いに行くことができたそうですよ。」
影浦は、なんだか胡散臭い話を始めた。
「それは何かの事業所ですか?」
ジョチさんが聞くと、
「ええ。なんでもその人は、自分でホームページを立ち上げて、依頼人と一緒に公共料金の払い込みに行ったり、障害年金などの申請に行ったりしているそうなんです。それだけじゃありません。ただ、依頼人の話し相手をすることもあったり、食事をつくったり洗濯物を干したりすることもしてくれるらしいです。そのほか、欲しいものが在ったら、代理で探してくれることもしてくれますし、パソコンの操作でわからないところを教えてくれたりもするそうです。」
と、影浦は答えた。
「前例のない商売ですね。その人物は男性ですか?」
ジョチさんがそういうと、
「いいえ、女性です。僕のところに来ている患者の話によりますと、名前は望月恵さんというそうで、
インターネットで彼女の名を検索すると、直ぐに出てくるそうですよ。」
と、影浦先生は答えた。
「そうかそうか、すごい助っ人が現れてくれたみたいだな。その人に頼んで、手伝い人を探してもらおう。僕が世話をするには、やっぱり医療関係者の目から見たら、限界があるでしょ?」
杉ちゃんという人は、直ぐにそういう話に乗ってしまう癖がある。
「しかし、代理で何かするなんて、しかも女性がそのようなことをするとは、確かに前例のない商売です。そういうことを、何かきっかけがあって始めたんでしょうかね?」
ジョチさんがそういうと、
「まあ、僕もよくわかりませんが、なんでも、彼女が確実に成果のある所へ導いてくれるので、患者さんたちは助かっていると聞きました。そういう事だから、それなりに、やってくれるのではないでしょうか。」
と影浦が答えた。
「よしわかった。誰かの力を借りることは悪いことでもないよね。じゃあ、一寸、望月恵で検索してみてくれ。」
杉ちゃんにそういわれて、ジョチさんは、タブレットを取り出して、半信半疑で望月恵と入力してみた。すると、望月恵事業所という文字が飛び込んできたので、影浦が言ったことは本当だったんだということに気が付く。
「はあ、本当にありますね。実在するなんて信じられません。」
ジョチさんがウェブサイトを開いてみると、サイトには、彼女を利用した人の例が細かく書かれていた。彼女を利用した人は、ほとんど精神障害のある人ばかりだ。例えば、買い物に行くのに車を運転してほしいとか、症状があるので、病院を探してほしいとか、パソコンを操作すると、パニックになってしまってできないので代わりに操作してほしいとか。影浦の言ったとおりに、単に寂しくて話をする相手が欲しいとか、一緒に食事をしてほしいという例もあった。そのほか障害年金をもらいたいが、どこへ頼んだらいいのかを調べてもらって、申請をする方法を教ええてもらったという事例もある。
「はあなるほど。つまりこの望月恵さんは、ちょっとした手伝いが欲しい時に依頼をして、それを手伝ってやるということを商売にしているんだな。」
と、杉ちゃんが言う通り、なんでも手伝うことを売りにしているみたいだった。
「そうなんですよ。うちの患者さんでも彼女に手伝ってもらっている人は多いみたいですよ。理事長さんも、もし、ご自身で家政婦を探すのが難しいようでしたら、彼女に手伝ってもらったらどうでしょうかね?」
影浦がそう答えた。
「そうですか。何だか一種の人身売買にも近いですが、そういうことを、商売にしている女性もいるということですね。とりあえず、連絡だけしてみましょうか。」
ジョチさんは、タブレットで指定されたアドレスにメールを送った。すると、数分後に返事が来た。詳しくお話をお伺いしたいので、明日指定された場所に来てもらえないかという内容であった。指定場所は、製鉄所近くのカフェだった。ジョチさんは、明日の10時に伺います、と書いて送信ボタンを押した。
「えーと、確か、このカフェだったよな。」
杉ちゃんが一軒のカフェの前で車いすをとめた。
「ええ。そのようですね。」
とジョチさんはその入り口前で止まった。
「じゃあ、入ってみるか。」
二人は、カフェの中に入ってみた。
「すみません、予約したものですが、望月恵という女性が、いらっしゃいませんでしょうか?」
とジョチさんが聞くと、ウエイトレスはこちらですねと言って、近くのテーブル席に二人を案内した。
「あのすみません。僕たち昨日メールを送ったものですが、望月恵さんで間違いありませんでしょうか?」
ジョチさんが席に座っている髪の長い女性にそう声をかける。彼女は中背の女性で、特に派手な格好をしているわけでもないのだが、何か普通のひとと雰囲気が違っていた。
「初めまして。望月恵です。よろしくお願いします。」
と、いう彼女はその声も、何か訓練しているに違いない。全体的に、色っぽさを打ち出しているように見える。
「こちらこそ初めまして。昨日メールを送りました、曾我です。こちらにおりますのは、」
「おう、影山杉三で、杉ちゃんって言ってください!」
ジョチさんと杉ちゃんはそう自己紹介した。
「そうですか。じゃあどうぞ、お座りください。」
と、彼女に促されて、スギちゃんとジョチさんは席に着いた。
「あってみると、何だか女郎みたいな女だな。まあ、なんでも代理でやるっていうんだから、そういう色っぽさも必要になるときあるよな。」
と、杉ちゃんがそういうほどの雰囲気を彼女は持っている。
「それでは、どのような用件で私にメールをくださったのか、教えてくれませんか。私の事を、少し話すと、障害があって、生活に必要な手続きができなかったりする人たちに、援助してくれる人を探したり、実際に一緒にその人たちと行動したりしています。時に、トラブルが起きた時は、謝れない依頼人の代わりに、代理で謝りに行ったこともあったんです。」
「なるほどねえ。其れを、女を武器にやっているというわけか。」
彼女がそういうと、又杉ちゃんがやじった。
「まあ、そういうことになりますね。私の事は、どんな風に解釈されようと私は驚いたりしませんよ。何よりも大事なことは、ご依頼された方が、喜んでくださることですからね。それで、今日はどうして私のところに、連絡をくださったんですか?車いすの方なので、どこかへ連れて行ってほしいとかそういうことですか?」
「そういうことじゃないんだ。それよりもずっとかけ離れているよ。実はよ、水穂さんという、重い病気で寝たきりのやつがいて、そいつの手伝いをしてくれる奴を探して欲しいのよ。」
さすがは杉ちゃんだ。隔たりなく本当の事を言ってしまえるのだから。
「手伝いとは、介護人が一人欲しいということですか?」
「まあ、僕は何と言ったらいいのか知らないが、お前さんに頼めば何か変わるって、影浦先生が言っていたので。」
「さようでございますか。わかりました。では、介護人を一人紹介してほしいということでよろしいんですね。」
「そういうこっちゃ。御願いしてもいいか?ちょっと、特殊な事情もある人だから、なるべく細かいところは気にしないやつがいい。」
杉ちゃんと彼女がそう話しているのを聞きながら、ジョチさんは彼女がどういう経歴で、このような仕事をしているのか知りたくなった。こういう、困っている人の役に立つというか、なかなか思っていても手が出にくいことを、彼女は平気でやっている。其れに、ある種の妖艶さも使うこともできるというのは、一体どういうことなんだろう?
「さようでございますか。それでは、その水穂さんという方について詳しく教えてくれませんか?高齢の方ですか?それとも、何か、障害のようなものがおありですか?」
当たり前のように聞く彼女に、ジョチさんは彼女は古い時代にはない新しいものがあると感じた。
「障害っていうか、一寸特殊な、歴史的な事情のせいで、医療も満足に受けられないと言えばいいかな?」
杉ちゃんがジョチさんに確認を求めたので、ジョチさんもそうですねとだけいった。彼女は、忘れないようにするためかメモを取っている。杉ちゃんの発言に対しても、彼女は変にびっくりすることもなく、平気な顔でメモを取っているので、もしかしたら、彼女も何かわけがあるのではないか、とジョチさんは思った。
「それに、ご飯をいつまでたっても食べようとしないから、それに怒らないで、辛抱強くやってくれる人でないとだめだよ。」
杉ちゃんがまた注文をつけると、彼女ははい、わかりました、責任をもってお探しいたしますから、二三日待ってくれますかといった。
「ちょっと待ってください。あなた、責任をもって探すと言いましたが、もし見つからない場合はどうするんです?」
とジョチさんが言うと、
「その時は、私がお伺いいたします。追加料金はいただかなくて結構です。」
と彼女はきっぱり言うのだった。
「ああ。わかりました。わかりましたよ。じゃあ、そういう事で、誰か有能な看護人をお前さんに探してもらうことにしよう。もし、見つからなかったら、お前さんが手伝ってくれるわけだ。それ、水穂さんに言っておくよ。新しい手伝い人が来るってな。」
杉ちゃんがそういうと、望月恵さんは、はいそれでよろしくお願いしますと言った。
「しっかし、お前さんも変わった人だよな。なんでこんな、前例のない商売を始めたの?誰かの代わりに代理で探したりとかなんて、そんなに需要もなさそうな商売に見えるけど?」
杉ちゃんが、ジョチさんの思っていることを代弁するようにそういうと、
「ええ。私は、今まで生きてきて、介護してくれたり、障害年金の手続きをしてくれたりする人は、星の数ほどいるってことは知ったんですけど、そこへ連れていくシステムがこの日本にはないってわかったので、始めたんです。」
と、彼女は答えた。
「それって、どこで気付いたの?」
杉ちゃんがそう聞くと、彼女は口をつぐんだ。それを見てジョチさんはピンときた。今まではきはきと自信たっぷりに答えていた彼女が、なぜかその質問には答えに迷っているような雰囲気を見せたからだ。
「あなたも、もしかして、何かあったのでは?」
と、ジョチさんはそっという。
「僕たちはあなたの事を責めたりはしませんよ。ただ、そういう商売は前例のない商売です。そして、そういう事を始める人っていうのはね、必ず自分でも、そういう事を体験しているものですよ。逆を言えば、まさしく、体験して初めてみにつくんだなあで、百聞は一見に如かずですよ。」
ジョチさんにいわれて、彼女の自信たっぷりの顔は、一寸崩れてしまった。
「ああ、大丈夫だよ。僕たちは、お前さんの事を変な風に言うとか、そういうことはしないから。お前さんは、水穂さんの手伝いをしてくれる奴をしっかりしてくれな。」
杉ちゃんは、にこやかに笑った。前例のない女はちょっと涙をこぼしてはいと言った。
前例のない女 増田朋美 @masubuchi4996
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