第10話 眼前の顔
市外で暮らす兄夫婦が我が家に来た時、兄が「お前の好きそうな話がある」と前置きをして始めた話。
今から2年程前、兄夫婦は応援しているバンドのライブを観に長崎を訪れた。
この時、若い兄夫婦は旅費を節約しようとライブ会場近くにある激安のホテルに泊まったそうだが、そこがなかなか癖の強いホテルだった。
まず水道が壊れかけているようでシャワーがちゃんと出ない。水流がかなり弱く、お湯の蛇口を捻れば熱湯が飛び出す。水の蛇口を開けて温度を緩和しようとすると、今度は冷水が飛び出してくる。
とてもシャワーはできないと兄夫婦は浴槽にお湯を溜めることで入浴を済ませ、晩酌をしながらバラエティ番組でも見ようとTVを点けた。
すると、画面一杯に赤色─生肉を思わせる青みを含んだピンク寄りの赤色が広がり、無数の目玉が現れギョロギョロと動き出した。
兄が悲鳴を上げて後退りする中、兄嫁が咄嗟にTVの電源を切り、何かのホラー映画だろうかと備えつけの番組表を確かめたが、そこには『テレビショッピング』とのみ書いてあった。
何だかよくわからないし、もう寝よう。兄夫婦は照明を落とすとダブルベッドに並んで寝転び、眠りにつこうとした、その時。
兄の眼前に顔が現れた。肌は白く、鼻や口があるハズの部分は丸く暗い空洞になっており、赤く充血した目を見開いて兄を見つめている。
顔はすぐさま消え、兄の眼前には薄っすらと黄ばんだ天井だけが広がった。しかし再び兄の眼前に同じ顔が現れ、また消えた。
兄は再び悲鳴を上げ、仰向けに横たわっている兄嫁のそばに這い寄った。そして「見た?」と尋ねると兄嫁は目を剥いて頷いた。
「天井から落ちてきてたね」
兄の目には急に現れたように見えたあの顔は、天井から落ちてきていたようだ。
日付が変わろうとしていた時ではあったが、兄夫婦は急いで荷物を纏めてフロントに鍵を返した。驚くことに、カウンターに立っていた若い男性職員は何か知っているようで「すみません、ご内密にお願いします」と兄に茶封筒を差し出した。中には2人分の宿泊代が入っていた。
「ご内密にとは言われたけど、ホラーとか好きな人なら良いかなって思ってお前に話した。興味があったら探してみ」
怖かったねーと顔を見合わせて笑う兄夫婦に、私は鳥肌の立った腕をさすりながら「迷惑じゃい!」と返した。
「でも出版社の人が面白がると思うから教えてみる。ホテルの名前なに?」
スマホでホテルの口コミサイトを開きながら問うと、兄夫婦が再び顔を見合わせ、それからこう言った。
「忘れたなぁ」
「予約じゃなくて飛び込みだったからねぇ」
呑気に笑う兄夫婦を前に「泊まったホテルの名前ぐらい覚えとけやぁ」と叫んだ私であった。
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