17

 ***


「来る」という声が耳朶を打った。御神楽紫音としての自己認識が飛び去り、樋元翡翠の魂が再び心身に宿りなおすのを感じた。手は――まだ握り合っている。

 離さずに済んだ。掴んだままでいられた。

「あいつらのこと――私も『影』って呼ぼうかな」傍らの紫音が、小さく唇を湾曲させながら言う。「ごめん。お父さんとの会話が流れ込んできたなかに混じっててさ、覗いちゃった」

「いいよ、別に。隠し事もなにもないでしょう、いまさら」

「確かにね。ぶちまけてって言ったのは私だし」

 脳裡を濁流のように駆け抜けていった記憶を反芻し、翡翠は短く、

「苦しかったね、お互い」

「苦しかったし、これからも苦しい。でも少しでも可能性のあるほうに這っていて、ドアを開けるしかない。またすぐに次の暗闇に閉ざされるだけなんだとしても」

 目の前の空間が水面のように揺れはじめた。徐々にその度合いを増し、やがて空間それ自体が無理やり捻じ曲げられつつあるかのような有様になった。闇が渦を巻き――収縮していく。

 そして現れた。やたら長ったらしい腕をだらりと垂らし、背を老婆のように曲げた、影の女。

 自分たちの宿敵。

 近づいてきた。ゆらゆらと。純粋で甘美な苦痛を求めて、吸い寄せられるように。

「そう――来い。もっと。こっちへ来い」

 紫音が誘うような声で繰り返す。影の女との距離が少しずつ詰まっていく。びりびりと蟀谷が痺れ、体じゅうの皮膚が震えた。

 手に力が籠った。「取った」

 途端、眼前の光景に、もしかしたら視界それ自体に、巨大な亀裂が生じた。縦横に走り、音もなく砕け、破片となって落下していく。その向こう側に広がっていたのは、新たな闇だった。

「行くよ、翡翠」

 両手を繋ぎ合わせたまま、闇に向けて疾走した。やがて足許の感覚が失せ、走っているのか飛んでいるのか落下しているのかさえ判然としなくなった。虚ろな空間による抱擁。視界が暗転し――足がなにかを踏んだ。

 踏みしめていた。翡翠は目を開けた。

「翡翠のなかのどこかにジャンプしたみたい」

 傍らで紫音の声が言う。振り向き、彼女がまだそこにいたことに安堵した。翡翠は声を低めて、

「あいつは?」

「ちゃんと閉じ込めた。この領域のどこかにいる。予定どおり、見つけ出して片付けよう」

 頷き、正面の家へと向き直った。紫音に知らせるように、また自分で再確認するように、

「ここ、私が前に住んでた家だ」

「ずいぶん豪邸だね。なかに潜んでるんだとしたら、探すのに骨が折れそう」

 翡翠はほくそ笑み、

「大丈夫。この家のことは、隅々まで知り尽くしてるから」


 ***


 藤代邸の玄関の様子は、翡翠の記憶とほとんど変わりなかった。広々とした沓脱、右手に靴箱。真正面の硝子戸が中庭の光景を切り取っているのも同じだ。藤代氏とともに帰るはずだった、懐かしい我が家。

 紫音は呆けたようにシャンデリアを見上げている。「ここさあ、初めて来たとき、そうとう驚いたでしょう」

「当然。上がろうか。奴を――」言いかけて、翡翠はかしらを巡らせた。視界の隅に捉えた色。見紛うはずもない緑。「これは」

 靴箱に挟み込まれた紙を引き抜いた。紫音の目の前に翳した。

「それ――」

「沙由が作ったゲームだ。ここまで再現してあるのか」

 厚紙の質感も、色味も、記憶のなかのものと相違なかった。書かれているはずの文字、最初に指示は確かこうだ。玄関を上がったら、すぐに右に進め。

 裏返した。顔を近づけて読もうとした途端、どこからか液体が滴り落ちてきて、ぴた、と音を立てた。掌のうえの緑色のカードが黒く染まった。

 粘度の高い、異臭を伴った液体だった。手のなかで紙片がぐずぐずと溶け落ちるのを感じた。

「畜生」嘲笑われた気分だった。「ふざけやがって」

 息を吐き出し、紫音を振り返った。「行こう。まずは右手のリビング」

 扉を開けた。煌々と灯ったあかりが、リビングの惨状を照らし出していた。

 血塗れなのだった。どこもかしこも。

 翡翠が先に踏み込み、息を詰めて観察した。御神楽家の惨劇の舞台が藤代家のリビングであったなら、ちょうどこんな風になったであろうという気がした。壊された家具と、絨毯にじゅくじゅくと染み込んだ血。決して失せることのない臭気。

 自分たちふたりの記憶を捏ね合わせて作り上げた景色だ。歪さに胸が悪くなった。

 次のカードの位置も記憶していた。テレビ台の、いちばん下の仕切りのなかだ。

 屈みこみ、血に侵食されてべたついた空間に手を突っ込んだ。摘まんで抜き出そうとしたが途中で千切れ、ただ黒く湿っただけの断片が残ったのみだった。メッセージはむろん、読めるはずもない。

「畜生」

 と吐き捨てて立ち上がると、目の前に誰かの顔があった。濁った硝子玉のような虚ろな瞳で、翡翠を映し返していた。

 紫音にどこか似ているが紫音ではない。壮年の男性だ。そうか彼女の父親の生首はここにあったのかと考えてから、翡翠はかぶりを振ってその幻を追いやろうとした。

 どさり、と重々しい音を立てて首が落ち、床を転がった。絨毯のうえで顔を天井に向けた状態で停止した。目は見開かれたままだった。

「お父さん」と紫音が唇を震わせた。「お父さん、お父さん」

 しゃがんでその首を拾い上げ、血にまみれるのも構わずに胸元へと抱き寄せていた。ごめんね、ごめんね、と連呼しながら。

 僅かなあいだ、翡翠はその様子を茫然と眺めていた。不意に意識に違和感が割り込んできた。首が――不自然に蠢いていた。少しずつ構造を緩めるかのように崩れ、分離していく。別のなにかの輪郭を成そうとしている。

「紫音、駄目」

 叫んで、彼女の腕のなかから首を叩き落した。びしゃり、と厭な音を立てて黒い染みに変わった。原型はまるで残さなかった。

 紫音がゆっくりと視線をあげた。その瞳には――まだ光があった。

「よかった」

「ごめん、危ないところだった。呑まれるなって自分で言っておきながら」

 近づき、紫音の肩にそっと触れた。互いに血で黒く汚れている。しかし気には留めなかった。どうせ幻影の血なのだ。悪夢と変わりない。

「このゲームが妹さんの作ったものを模してるんだとしたら、翡翠はゴールを知ってるってことになるよね」

 冷静さを取り戻したらしい口調で紫音が問う。翡翠は頷き、

「たぶんね。でもショートカットする気はない。初めてやったときもそうだったし、今回も同じ。この調子で幻を見せられつづけるんだとしても、ぜんぶ跳ねのける」

「自分の恐怖と向き合えないようじゃ、奴には勝てない、か」

「そういうこと。紫音もいいよね」

「分かってる。また引き込まれそうになったら、今度は遠慮なく殴って。翡翠が呑まれそうになったときは、私もそうする」

 短く笑みを交わし、掌を重ね合わせた。血はいつの間にか失せ、もう見えなかった。

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