16
***
あの子はもういないのだ、という失意と共に目覚めた。時計を確かめたが、まだ床に就いて二時間も経過していなかった。蹴りつけた毛布を引き寄せなおし、再び目を閉じた。
浮かぶ顔はいつも同じだ。しかし日によって感じるのは失意であったり、安堵であったりする。そこに淋しさや祈りも混じる。別れてからはただひたすらに胸苦しい――七歳の夏の終わり以来、この七年間、ずっと。
御神楽紫音はベッドを抜け出し、服を着こんだ。そっと自室のドアを開けた。
家族は熟睡している時間帯だ。見咎められることは考えなかった。躊躇いなく家を出て、深夜の空気を吸い上げながらふらふらと歩いた。
あの街を、彼女のもとを去る直前にした、中途半端な肝試しのことを思い出した。つまんないよ紫音、と唇を尖らせた親友――樋元翡翠の顔。彼女はいまも元気でいるだろうか。
最寄りのコンビニで適当に時間を潰した。雑誌の頁を繰るあいだも、脳裡に翡翠の声や表情がちらついて離れることがなかった。
家に戻り、玄関扉の正面に至って、唐突な怖気に見舞われた。背筋を凍える手で撫で上げられたようで、一瞬、身動きができなかった。
覚えのある感覚だった。これはそうだ、あのときの、あの夏のトンネルの――。
ドアを引き開けた途端、奇妙なにおいが鼻を突いた。薄暗がりのなかに充満していた。ふらふらと吸い寄せられるように家に足を踏み入れた。靴を脱いだ。
すぐ自室に帰ろうという気になれなかった。壁をまさぐって明かりを灯し、一階のリビングへと繋がる廊下を辿った。そうせねばならないという切迫感ばかりが胸にあった。
においが、気配が、次第に濃さを増した。纏わりついてくるようだった。
足裏がぬめった感触を捉えた。ドアの隙間から流れ出しているのだと分かった。紫音は息を止め、勢いよくノブを回した。
覚悟したつもりでいた。しかし現実は、圧倒的に凄惨だった。
最初に目に飛び込んできたのは母だった。驚いたのか、あるいは苦悶したのか、かっと目を見開いて紫音を見返していた。顔が無傷だったからそうと認識できたものの、首から下は血でどす黒く染まっているばかりで、ほとんど原型を留めてはいなかった。
ソファのうえに母の屍はあった。座っているというより置かれているというほうが適当に思えた。存在するはずの位置に手足を見出せず、切断されたのか引きちぎられたのか内部から破裂したのかさえ紫音には分からなかった。断片がどこかに転がっているのかもしれないが、むろん探しようもない。探したところでどうにもならないのは明白だった。
体を折り曲げて嘔吐の衝動を堪えた。よろよろとソファの裏側を覗き込むと、今度は父らしき骸に出くわした。こちらには手も足もくっ付いていたが代わりに首がなかった。かろうじて寝間着の水色が視認でき、ああこれは父なのだと思った瞬間に胃が捩じ切れるような激痛に襲われた。視界が滲み、揺れる。
顔を背け、床の絨毯に向けて口を開いたが、なにも出て来はしなかった。咳き込みながらリビングを転げ出た瞬間、血のぬめりに足を取られて転倒した。廊下の壁に背中を強打した。
暗がりに視線を感じた。殺人者がまだこの家に潜んでいるのだと直感した。ぼんやり居残っていれば自分も殺される。おそらくは信じがたい拷問の末に。
するすると近づいてきた相手の正体を見定める余裕はなかった。ただ視界の隅にちらりと映り込んだそれは――真っ黒な影のように見えた。女の影だった。
床を蹴り、無理やりに体を引きずり、這った。いつどうやって立ち上がったのかも分からない。ただ無我夢中で走り、玄関のドアノブを掴んだ。外へ飛び出した。
足を止められなかった。ただ息を切らせて、夜の闇のなかを一心に駆けつづけた。家族を永遠に失った十四歳の少女がただ独り、なんの当てもなく。
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