15

 ***


 公園の小さな時計台が深夜零時を示している。その真下のベンチに、紫音は独りきりで腰掛けていた。こちらの気配に気付くと立ち上がり、手を振って寄越す。この時間でなければ、自分たちふたりの様子はごくありふれた待ち合わせに見えたかもしれない。

「明るいところにいてって言ったのに」

「うるさいと気が散るし、変なのに絡まれたら厭だし」

 あっさりとそう応じ、紫音は手にしていたペットボトルを屑籠に放った。

 並んで歩きはじめる。翡翠は俯きがちに、

「ねえ紫音。あの日、私と別れてから、あいつのところに戻ったの?」

「戻ったよ。でも幸か不幸か、もういなかった」

「そう」影の女の姿を脳裡に甦らせた。「今夜じゅうにやれるかな」

 この問い掛けに、紫音は小さく首を傾けて、

「探して見つかる相手じゃない。住処を特定できるわけでもない」

「じゃあ、向こうから現れるのを待つしかない?」

「私は基本的にそうしてた。準備を整えての迎撃」

「こっちから呼び出す方法はない?」

 紫音は息を吸い上げた。そう言われるのを予期していたように、

「方法がないじゃない。けど――」

「聞かせて。どうやるの」

「餌を撒く。無差別に襲ってるように見えて、奴らにも好みがあるから。肉体的な問題じゃなくて、中身、精神に関してね。想像つく?」

「強い恐怖心や深い傷」

 頷きが返ってきた。しかし彼女の表情は硬いままだ。

「分かりやすい好物だね。だけど難しいのは、そのあたりの感情が都合よく使えるものじゃないってこと。奴らを目の前にすれば、危険に晒されれば、際限なく増幅する。それを糧に、奴らは力を増していく」

「恐怖に呑まれたら終わりってことか。確かに、感情を制御できる強い人間にしか向かない手なのかもね」

「そう思うなら――」

「待つべき?」

 少し間が開いた。紫音は自身の顎に手を当てて、

「でもどっちにしろ、自分の恐怖と向き合えないような人間じゃ勝負にならないのも事実。せっかくふたりになったんだから、賭けてみる価値はある」

「よし」

 応じた途端、紫音が足を止めた。翡翠も立ち止まった。振り返り、旧友の双眸と対峙した。

「いったん始めたら引き返せないよ」

「いい。そう決めたから電話した。もう――躊躇うことはなんにもないよ」

 紫音の表情が緩んだ。笑みを湛えている。「ありがとう」

「お礼を言うのはこっち。一度は逃げ出したのに舞い戻ってきて、今度は都合よく助けてくれだなんて。呆れられても仕方ない」

「必要な時間だったんだよ。戻ってきてくれたんだから、絶対に無駄じゃなかった。私にとっては」

「でももう少し早く――」

「後悔はなし。自責もなし。負の感情に呑まれたら負けって言ったばっかりだよ」

 息を吐いた。「そうだね」

「分かってくれたらいい。そろそろやる?」

「やろうか」

 どちらともなく、しかし強い確信をもって手を握り合った。紫音に導かれるように、街灯の届かない小路へと折れた。

 暗い坂道を下っていく。やがて足許が平坦になった。自分たちの足音だけが、妙に鮮やかに耳に響いた。

「じゃあ翡翠。餌撒きを始めるよ。これからお互いに最悪の記憶を掘り返して、お互いの頭に流し込み合う。苦痛の純度が高ければ高いほど、奴らには甘美な餌になる。記憶に食われそうになっても逃げださないで――この手を掴んでて。できる?」

「やるよ。現れたら?」

「内側に閉じ込めて、そこで始末する」

「内側? 記憶のなかってこと?」

「上手く言えないけど――精神のどこか。舞台がどこになるかは、やってみないと分からない。もし最低最悪の地獄でも、最後まで一緒に戦ってくれる?」

「やる。約束する」

 ぽっかりと開けた空き地に出た。周囲を網のフェンス、そして背の高い木々に囲まれた空間だった。小ぢんまりとした駐車場のような場所と思えたが、あたりは暗がりに包まれているばかりで、詳細は視認できない。

「ここがちょうどいいかな。じゃあ準備ができたら目を瞑って。私の傷を、恐怖を、ぜんぶ翡翠に預ける。翡翠も私に寄越して。遠慮しないで、なにもかもぶちまけていいから」

 頷き、握る手に力を込めた。硬く目を瞑る。まっさきに訪れたのは――やはり明滅だった。

 規則的に並んだオレンジ色の明かり。助手席に座った少女の横顔。踏み込んだペダルの感触。急ブレーキの軋み。そして……。

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