12
***
数寄屋門をくぐって扉を開けると、五十代くらいの和服のよく似合う女性店員に出迎えられた。深く頭を下げながら、お待ちしておりました、藤代さま、お嬢さま、と言う。
奥へと導かれた。坪庭の見える個室へと通される。氏と向かい合って席に着いた。
「飲み物を貰おうか。君はどうする? もう二十歳だからな、飲みたければ飲んでもいい。俺もここに車を預かってもらって付き合う」
少しだけ考えてかぶりを振った。常識をわきまえた飲み方など、この一年まったくしていない。氏の前で恥を晒したくはなかった。
「あまり得意じゃないです」と嘘を吐いた。「飲めなくはないですが、いい思い出があまり」
「そう。ならいいよ。ソフトドリンクにしておこう」
先ほどの店員が来た。氏とのやり取りからこの店の女将であることが分かった。すぐに飲み物、続いて前菜らしい笹巻寿司や羹が出てきた。夏らしく涼しげな膳の彩りだった。
「もし厭でなければ、君の話も聞きたい」
暴飲と酩酊を繰り返すばかりで部屋からほとんど出ていない――とは言いたくなかった。グラスを取り、唇を湿らせてから、
「最近、昔の友達に会いました。小学校一年生のときに転校したきりだった子に、たまたま再会して」
「それはよかったな」氏は表情を明るくし、「十年以上ぶりってことだろう? すぐにその子だって気付いた?」
「すぐには気付きませんでしたが、ちゃんと顔を見たら思い出しました」
「どうだった? 当時からけっこう変わってたか?」
「中身はあまり変わっていませんでした。まったく一緒ということは当然なかったと思うんですが、私が変わってしまったようには変わっていなかった。上手く言えないですけど」
なんとなくは分かるよ、と藤代氏は笑い、
「つまり君がこうあってほしいと思っていたとおりの姿で現れた。違うか?」
どきりとした。思わず箸を動かす手を止め、「そうかもしれません」
「他人を勝手に理想化して失望した経験というのが、俺には意外とない。逆のほうが多いんだ。こいつはと見込んだ奴がまったくそのとおりの人間で、どんどん先に進んでしまう。捻くれた自分だけが置き去りにされたように感じる。俺のほうが現実が見えている、なんて強がってみたところで、得られるものはない。相手は着実に前に向かっていて、自分は立ち止まっているという事実があるだけでね」
「藤代さんは――成功された方だと思います」
「世間一般の基準で言えばそうかもしれない。だが餓鬼の頃の俺には俺なりの夢があって、そのとおりの人間にはなれなかった。なにもかも思いどおりにはならないと分かってはいても、本当に正しかったのかと何度となく自問したよ。贅沢に聞こえるだろうが、俺にとっては切実な問題だった。だからせめて、子供たちには可能性を開いてやろうと決めていたんだ」
「――すみません」
「もう謝るな。繰り返しになるが、君の非じゃない。不幸な事故だったんだ。君が自分の可能性を閉ざしてしまうことが、いまの俺にはいちばん怖い」
氏は薄く笑い、悪い、と発して、
「また俺が喋ってしまった。君の友達の話だったな」
「いいえ。藤代さんが仰ったとおりかもしれません。私が知らなかったことを彼女は知っていて、私が目を背けたことを直視していました。昔からそうだったんです。彼女は私にとって特別な人間でした」
「それで」言いながら、氏がこちらを見た。「君はどうしたいと思った?」
「正直に言えば、まだ分かりません。彼女からこちら側に来ないかと誘われたとき、真っ先に感じたのは恐怖でした。それで彼女を突き放して、私は逃げてきてしまった。情けないといえば情けないです。でも同時に、それが自分にとって相応だという気もしています。自分の安寧を守ることが大事だと」
「難しいな」
藤代氏はそう短く所感を洩らし、小さく自身のグラスを傾けた。僅かに視線を彷徨わせてから、
「自分にできることしかできない、というのは道理だ。追いかけたくてもとうてい不可能な場合はあるし、それで勝ち負けを競っても仕方がない。息の詰まる競争を見切って、ただ家族のために生きることが正しいとも感じる――いまの俺ならね。しかしそれはあくまで俺の場合で、君にも当てはまるわけじゃない。君が我武者羅になりたいなら、俺はもちろん援助するよ。最終的には君の意思の問題だ。自分の願いのために俺を利用してほしい。君にはその権利がある」
頷いた。それから腰を浮かせ、「すみません、ちょっとお手洗いに」
個室に入り込んで鍵をかけ、息を吐いた。自分の曖昧な言葉遣いを申し訳なく思ったが、むろんのこといっさいを正直に話せるはずもない。
頭のおかしな奴だって思われたくなかったんだ、という紫音の声が甦った。自分とて同じだ、と思いかけて、また連鎖的に別の言葉が浮かんだ。
狂うなら、せめて自分が納得のいく狂い方をしたい。
頭を振って個室を出た。洗面台で手を丁寧に洗う。ふと顔をあげて鏡を覗き込んだ。
後方に、誰かがいた。意識を集中させる前に、するりと視界から失せた。
女だった。黒い、影のような。
馬鹿らしい、と自分に言い聞かせる。トイレで別の客と居合わせただけのことだ。この程度でいちいち怯えていたら、それこそ生きていけない。暗色の服を着た女性が映り込んだのだ。
心臓は早鐘を打ちつづけている。速足で廊下を辿った。元いた部屋の襖が目に入った途端、あっと声をあげそうになった。
少しだけ隙間が生じていた。確かにぴったりと閉めてきたはずなのに。
藤代氏も女将さんも、こう中途半端な状態にはしないだろう。単なる気の緩みだろうか。
あるいは、他の誰かが――。
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