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 ***


「会ってくれて本当に嬉しい。まずはね」

 微笑を浮かべた藤代氏に、翡翠は小さく頭を下げた。挨拶、謝罪、今後の展望――あれこれと考えておいたつもりだったのだが、いざ目の前にするとどう言葉を発していいのかまるで分からなかった。唇が動いてくれない。

「いきなり押しかけたようなもんだから、動揺するのは無理ないな。ともかく行こう。話はゆっくりでいい。時間はあるから」

 マンションの駐車場へと下りていく氏に追従しながら、横顔をそれとなく観察した。彫りの深い精悍な顔立ちこそそのままだが、髪にはところどころ、白いものが混じっていた。刻まれた皺も増えたようである。

 老いたように見えた。この一年の彼の心労はきっと、自分とは比べ物にならない。

 黒いクーペに近づいた。無意識のうちに後部座席に回ろうとして、二ドアであることを思い出した。助手席へ、と促された。

 そっと乗り込むと、滑らかな黒い革のシートに体を受け止められた。車が発進する。車道に出た途端にスピードが上がった。目覚ましい加速だった。

「藤代さん。その、これまで――」

「いいよ。少し距離を置くべきだという君の判断を受け入れたのは俺だ。お互いにつらいことの多い一年だったが、無駄じゃなかった。そうだろう」

 翡翠は俯いた。氏の目に、いまの自分はどう映っているのだろうかと考えた。ろくに食べていないから体重が落ちた。不養生が祟り、相当に蒼白い顔をしているはずだ。

「まずは飯にしよう。和食でいいと言われたんで、勝手に店を取っておいた。気に入ってくれるといいんだが」

「私は別に、どこでも構いません。気を使っていただいてすみません」

「なんだか会ったばかりの頃に戻ったみたいだな。沙由の作ったゲームを覚えてるか」

「ええ。カードの指示に従って進むやつですよね」

 懐かしいな、と氏は言い、フロントグラス越しに遠くを見つめながら、

「あの子は昔からかくれんぼが好きだった。でも鬼の役はやりたがらなくて、いつも俺が鬼をやった。あまりにも役割が固定的なんで、そんなに隠れるのが楽しいのか、と訊いたことがある。するとこういう答えだった――怖いときと嬉しいときがある」

「どういう意味でしょう」

「毎回設定を考えるらしいんだ。たとえば自分を襲う怪物から隠れている。声をあげられない状態で救援を待っている。シチュエーションに応じた役割を演じて遊んでいる、ということだな。三歳やそこらの子が、だよ。親馬鹿と言われるだろうが感心した。この子にはもう、世界がそんな風に見えているのかと」

 三歳の頃の自分には、そうした世界認識があっただろうかと考えた。たとえば絵本。たとえば昔話。自分を襲う怪物の存在を、物語を通してでも知っていたろうか。

「少し大きくなってから、俺は改めて沙由にその話をした。あの子はすべて覚えていた。怪物というのはなにに出てくるのかと、俺は訊いた。アニメか。本か。すると」

 氏は短く咳払いを挟んだ。ハンドルを握りなおしてから、声を低めて、

「なんでもない、ただそういうものがいると思う、とあの子は答えた。本人の弁によれば、どこで見たでも、聞いたでもないらしい。俺はひとまず、沙由の想像する、根源的な恐怖の象徴みたいな存在だと理解した。沙由はそれに名前を付けてたよ」

 翡翠は音を立てずに咽を鳴らした。慎重に、「なんて?」

「『影』だ」

「カゲ?」

「ああ。光と影、の影のことらしい。沙由は四歳から漢字を学びはじめたんだが、そのときに訊かれた。影とはどういう字を書くのかと」

「四歳児が勉強するにしては――難しい字ですよね」

「そうだな。だがあの子にとって、難易度はあまり問題じゃなかったんだ。自分が知りたいかどうか、なんだな。大切なことは知らなきゃいけない、と沙由はよく言ってた」

「沙由にとって、『影』は――」

「当時はよほど怖かったのかもしれない。自分の想像した怖いことで頭がいっぱいになってしまう経験は、餓鬼の頃の俺にもあった。知ることで怖さが少しでも軽減されるなら、と思って時間をかけて教えたよ。実際、それからはあまり『影』のことを話題にしなくなった。ちょっと変わったエピソードだろう? ふと思い出したんだ」

 そう締めくくると、氏はこちらに視線を寄越し、

「それからもずっと、大切なことは知らなきゃいけない、という信条だけは、沙由のなかに残った。君に初めて会ったときも、真っ先に君の名前の漢字を訊いただろ? それは沙由にとって、君が重要な存在だからに他ならないんだよ、翡翠」

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