10

 ***


 部屋に帰ってシャワーを浴び、裸身で床に就いてからも、翡翠は寝付けなかった。あまりにも唐突に現れた旧友と、その言葉。自身の反応。

 間違いとは思わなかった。ベッドのなかで何度反芻してみても、結論は変わらない。奴らに近づくべきではない。酒で自分を抑え込みながら、いまの暮らしを続けるほうがいい。たとえどれだけ惨めであったとしても。

 グラス一杯ではとても足りなかったのだろう、酔いはまったく訪れなかった。夜が明けたらまた、アルコールを調達しに出なければならない。なにもかもを忘れ、感覚を溺れさせるために。

 あれから紫音はどうしたろう、と考えた。独りであの女のもとに戻ったのだろうか。戦ったのだろうか。

 勝ち目がないわけではない、と彼女は言った。捨て鉢になってはいない、自分なりに考えた結果なのだ、と。

 途中で怖気づいて、引き返していてくれることを願った。翡翠の言ったとおりだった、私はどうかしていた――そんなふうに発する彼女の姿を夢想しながら、毛布を握り込んだ。

 説得を続けるか、あるいは無理やり酒を飲ませるかして、ここに連れてくるべきだったのかもしれない。ふたりならきっと、より上手く現実から逃れられる。

 寝返りを繰り返すばかりの時間を過ごすうちに、窓の外が白みはじめた。うとうとと微睡んでいると、いきなり意識にノイズが割り込んできた。跳ね起きる。

 枕元で電話が鳴っていた。半覚醒のまま手を伸ばした。

「すまない。起こしたか」

 耳朶を打ったその声に、翡翠は身を固くした。意識が一瞬にして焦点を結んだ。

「もう架けてこないでくださいと、昨日」

「聞いたよ。悪いが了解できない。どうしても俺とは話したくないか、翡翠」

「これ以上、私のせいで苦しんでほしくないだけです。どうしても忘れられないものは仕方ないにしても、忘れられることは忘れてしまったほうがいい。そうは思いませんか」

「思うよ。実際にそうやって生きてる。だけど君のことを、忘れられるものの側には入れられない。単純な話だろう」

「どうして穏やかに過ごそうとしないんですか。私の声を聞くたび、沙由のことを思い出して苦しくなりませんか」

 はは、と藤代氏は小さく発し、

「娘を亡くした以上、俺の人生はどうやったって苦しい。乗り越えられるとも思わないよ。だが、だからといって希望を捨てる気はない。君がどう感じていようが、俺にとって君は希望なんだよ。そう簡単に諦めると思うな」

 スマートフォンを遠ざけて洟を啜り上げた。酩酊していない状態で藤代氏と言葉を交わすのは本当に久しぶりだった。架けてくるのは常に彼。酔いに任せて激昂し、一方的に通話を切ることばかりを繰り返してきた――この一年間、ずっと。

「私はどうするべきなんでしょうか」

「まずは俺に会う、というのは? 一緒に食事をして、しばらくぶりに家に帰る。すぐに全部を変えろとは言わない。ずっとこっちに居ろとも言わない。ときどき俺たちに顔を見せて、話をする。泣いてもいい。塞いでもいい。もし笑いたくなったら、そのときは笑えばいい。そうやって、生き延びていかないか」

 躊躇いがちに頷き、それだけでは意思が通じないのだと気付いて、やっとのことで告げた。「いつなら?」

 はは、と途端に藤代氏は笑い、

「君さえよければ今すぐだ。迎えに行くよ」

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