13

 ***


 隙間に指を差し込んでそっと戸を引き開けた。なかを覗き込んだ。

 もとの席に藤代氏の姿があった。俯きがちに座っている。

「戻りました」

 と声をかけたが氏は応答しなかった。顔さえあげない。同じ姿勢で硬直したままだ。

「藤代さん?」

 少し声量をあげて呼びかけた。考えに没頭しているのだと思った。

 途端に彼の首がぐるりと回転した。見えない手が頭部を掴んで無理やり動かしたかのような、不自然きわまりない動作だった。

 こちらを見据える氏の双眸。翡翠は総毛だった。

 濁った硝子玉のような目だった。表情も意思も宿さず、ただ平坦に自分を映し返していた。そこにいるのは藤代玲仁であって藤代玲仁ではないのだと直感した。

 悲鳴をあげる直前に相手の腕が伸びてきて、翡翠の口を塞いだ。操り人形のようなぎくしゃくしたその攻撃を、翡翠は躱しえなかった。ただ茫然としていた。

 いったん掴まってしまうと跳ね除けられなかった。腕力の差は歴然としている。すぐさま呼吸ができなくなった。

 手足を力なくじたばたと動かした。自分では大騒ぎをしているつもりだったが、誰が駆けつけてくる気配もなかった。店のなかだ。酔ってふざけている、で済む音量ではないはずなのに。

 まさか他の人間もすでに殺されたのか。そう思い至ると視界が黒く染まった。体から力が失せていくのを感じた。

 部屋の隅に視線が吸い寄せられた。影の女がそこに立っていた。自分たち親子を見下ろしていた。

 妙に鮮明に視認できた。死を間近にして意識の解像度が飛躍的に上昇したようだった。

 人を象った黒い霧。ゆらゆらと嘲笑うように、微妙に形を変えている。

 面白いのか。面白いのだろう。自分の操っている男が、義理の娘を縊り殺す光景が。あるいは人間という存在の感じる、苦悶それ自体が。

 畜生。

 肺の空気が空っぽに近づいてきたのが分かった。胸の内側がぎりぎりと痛み、頭が熱せられたように白む。体は小刻みに震えている。

 死ぬのだと思った。恐怖と悲しみとが入り乱れて、胸中で激しく渦を巻いた。

 ひいちゃん、と耳奥で声が聞こえた。懐かしくて堪らない声。ただ名前を呼ばれた、それだけで嬉しくて仕方がなかった。なんでもできるような気がした。

 視界の靄が薄れた。自分を押さえつけている手の力が、微妙に緩んでいるのだった。

 氏の両目に光が戻っていた。彼が小さく唇を動かしたのが分かったが、読み取れはしなかった。そのとき翡翠はすでに身を捻り、彼の腕のなかから脱していたのだ。

 床に這いつくばって咳き込んだ。掠れ声で、

「藤代さ――」

 氏の体が傾ぎ、ゆっくりと後方へ倒れた。鈍い音を立てて床に転がる。

「藤代さん、しっかりしてください。藤代さん」

 呼びかけながら揺さぶったが、氏は身じろぎさえしなかった。胸元に縋りつきかけて思い留まり、弾けるように後方を振り返った。

 影の女の姿はもう、どこにもなかった。ただ穏やかな料亭の一室の光景が広がっているばかりだ。

「藤代さま、どうされました」

 激しい足音を響かせて店員が駆け込んできた。氏を取り囲む。集団のなかに女将さんを見つけ出すと、翡翠は声を張って、

「急に倒れたんです。どうか救急車を」

 きっぱりと頷いて部屋を出ていく彼女の背を見送ると、翡翠は壁に背を預けてずるずると崩れ落ちた。手足から力が抜けていく。今になってようやく涙が出てきた。

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