8
***
ずいぶんと長いトンネルだった。規則的に並んだオレンジ色の明かりと、その隙間に下りた影。微妙にカーヴしながら、同じ光景が延々と続いている。
奇妙な圧迫感があった。壁や天井が迫り出してくるようにも、あるいは粘度を有した薄闇が纏わりついてくるようにも思えた。翡翠は唾を呑み込んだ。
息苦しかったが窓を開ける気にはならなかった。なにか得体の知れないものが入り込んで来そうで、恐ろしかった。代わりに冷房を強くした。安っぽい風が前髪を揺らした。
隣の沙由はなにも言わない。満腹になって眠ってしまったのかもしれなかった。そう思いたかった。
「くそ」
厭な気配に怯えながら、同時にぼんやりとしている自分を意識した。絶え間ない明滅がもたらす催眠効果のせいだろうと考えた。景色は変わらない。対向車ともすれ違っていない。このトンネルに入ってから一度も。
不意に心の襞を引っ掻かれるような感覚に見舞われ、翡翠は目を瞬かせた。自分が沙由と同い年だった頃の親友の顔が、脳裡に浮かんでいた。
名を紫音といった。容易に他者が近づくのを拒むような、硬質な気配を宿した少女だった。じじつ教師にさえ遠巻きにされ、教室ではいつも独りだった。
なぜ彼女が自分に声をかけてきたのかは分からない。紫音と言葉を交わすようになると自然と、他の友人たちとの距離が開いた。相手によって都合よく顔を使い分けて行き来する器用さを、翡翠は持たなかった。
紫音とばかり過ごすようになった。自分でも驚くほど淋しさはなかった。特別な友を得られたことが嬉しかった。
いつも彼女の横顔を見ていた。そのたびに、すっと違う世界に連れ去られてしまいそうな気になった。七歳の翡翠にとってそれは、人生で最初の切実な感覚だった。
肝試しを思い立ったのも、彼女の前で格好を付けたかったからだ。手を繋いで暗がりへと歩み出したかったからだ。ふたりならばなにも怖くはないのだと、証明してみせたかったからだ。
幼稚な想いは叶わなかった。ここは駄目だよ、と彼女は言った。駄目なんだよ、翡翠。すぐに引き返したほうがいい。
たったそれだけの退屈な出来事が、紫音との最後の思い出になった。夏の終わりと同時に、彼女は街を去っていった。なんの痕跡も残しはしなかった。
秋が訪れる頃には、離れていた友人たちにまた囲まれていた。それはそれで愉快な日々だったが、紫音の隣にいたときのような特別な感覚は、決して甦らなかった。
ずっと彼女と共にいられたなら、自分は何者かになれたのかもしれない。まるで根拠のない思いが、ときおり翡翠の胸を締め付けた。郷愁めいているからこそ堅固で、長じても去ることはなかった。紫音。
傍らの沙由に目をやった。彼女もまた誰かを特別な存在と見做して、心を囚われるのだろうか。誰かの隣にいたいと願いつづけ、胸を焦がすのだろうか。
七歳の折に抱えた思いが結実するはずもないことは、充分に理解していた。紫音はもうとっくに自分を忘れて、紫音なりの暮らしを営んでいるはずだ。隣には誰かがいるだろう。自分ではない誰かが――。
「ひいちゃん?」と沙由の声がした。「泣いてるの?」
「泣いてなんかないよ」
翡翠は応じ、ハンドルから片手を放して指先で目許をなぞった。少し濡れているのが分かったが、素知らぬ顔を作って、
「別に、なんでもないから」
「誰かを思い出したの?」
「そういうのじゃないよ。沙由、眠っちゃったのかと思ってた」
「少し寝てた。ひいちゃんの夢を見たよ。友達と一緒にいた。私の知らない人だったけど、ひいちゃんにとって大事な人なんだって分かったの。ふたりで手を繋いで歩いてた」
はは、と翡翠は声を洩らし、ハンドルを握りなおして、
「もういないよ。いまは沙由だけ」
「また会えたら?」
「そのときは――沙由のことを話すよ。もしいつか、どこかで会えたらね」
そう、とだけ言って沙由はまた沈黙に戻った。再び眠りに落ちたのだろうと思った。
なぜいま過去への思いが甦ってきたのか、その理由が分かったような気がした。沙由の横顔の輪郭は、ほんの少しだけ紫音のものに似ている。本当に、ほんの少し。
その瞬間、右脚が反射的に急ブレーキを踏んだ。目の前に突然、黒い影が躍り出てきたのである。いきなり地面から沸き立った、というほうが適当かもしれない。ともかくもなんの前触れもなく、真正面になにかが現れたのである。
軋みと、がくんとつんのめるような衝撃。しかし衝突の感触は――なかった。
免れた。免れられたはずだ。
相手はライトの重なりのなかに立ち尽くしたままだった。獣ではありえない。人だ。
「大丈夫ですか、すみません、大丈夫ですか」
運転席のドアを開け、声をあげながら駆け寄った。どうやら女だ。夏だというのに、真っ黒なぞろりとした衣服に身を包んでいる。俯いたままだ。
「お怪我はありませんか」
女は答えない。奇妙だと思いつつもさらに距離を詰めて手を伸べた。肩に触れようとした。
途端に背筋を冷たいものが走った。理由は分からない。翡翠は硬直したまま、あの、とかろうじて呼びかけを続けた。
なんなの、この人。
「ね、ひいちゃん」助手席の窓から沙由の顔が突き出していた。怪訝そうな表情だった。「誰と話してるの?」
「誰とって――」
女に視線を戻し、息を呑んだ。筋張った手や、枝を束ねたような首筋に、オレンジ色の明かりが濃い陰影を作っている。かたかたと身震いしながら、女がゆっくりと顔をこちらに向けた。
悲鳴をあげた。懸命に自分が話しかけていた相手が人でなかったことを、翡翠はようやくと理解した。
骸骨か、あるいは仮面を思わせる白い顔だった。透き通るような白さとは対極の、上から無理やり塗り込めたような色味だ。目鼻があるべき場所は、ただ虚ろに落ち窪んでいるばかり。
両手を伸ばして近づいてくる。我を忘れて後退し、バランスを失って転倒した。腰と背中を強打する。呻き声が洩れた。
なんだこいつは。いったい、なんだってこんなものが――。
「ひいちゃん、大丈夫?」
助手席のドアが開いて、沙由が下りてきた。まっすぐに翡翠のもとに歩み寄ってきて、手を差し出す。彼女の目にはやはり、この女は映っていないのだ。
「沙由、駄目。すぐ車に――」
女が沙由へと奇怪なほどゆっくりと手を動かした。手招きするような仕種に見えた。
七歳になったばかりの妹の目から、意思の光が失せたのが分かった。呼び寄せられるままに、沙由は女の懐の内側へと歩いていく。
「やめろ、畜生。やめてよ」
女が痩せこけた両腕で沙由を抱き留めた。視界が暗転する。それきり、なにも分からなくなった。
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