7

 すぐ近くに見えたはずの歩道橋が信じがたいほどに遠い。水を掻き分けながら進んでいるような気分だった。

 階段を駆け上がる。畜生。畜生。呼吸が荒くなり、全身が悲鳴をあげはじめたが、翡翠は構わなかった。間に合え。馬鹿。

 車はまっすぐに近づいてくる。影はまだ、失せない。

「逃げろ、早くそこから離れて」

 咽が張り裂けんほどに声を張った。少女がびくりとしたようにこちらを振り向いた。その双眸に意思の光が甦っているのを、翡翠は確かに見た。

「来て」

 少女の腕を無理やりに掴んで引っ張った。派手な抵抗こそされなかったが、相手が混乱しているのは明白だった。力を強める。歩道橋の柵から引き剥がした。

「振り返っちゃ駄目。こっち」

 反対方向の階段を目指して駆けた。下方を車が走り過ぎる音が響いた。

「ちょっと」

 と相手がようやく声を発した。あたりに夜の賑わいが戻っているのを確かめ、翡翠は足取りを緩めた。引っ張りつづけていた手を離した。

「酔ってて、知り合いと勘違いして」

 あらかじめ考えておいた言い訳を告げた。それで許されるとはむろん思っていない。狂人呼ばわりされることは覚悟のうえだった。

「勘違い?」と相手が繰り返した。「私が誰か分からないの、翡翠」

 唐突に名を呼ばれて面食らい、翡翠は少女に視線を向けた。一連の行動のあいだ、まともに相手の顔を見ている余裕はなかった。ただなんとなく、吸い寄せられるような感覚をおぼえていたのみだ。

 色味を抜き去ったような白い肌と、冷たい瞳。記憶が焦点を結んだ。

「――紫音?」

 彼女は小さく唇の端を湾曲させた。やっと気付いたのかと言いたげな表情だった。

「七歳のとき以来だから無理もないかな。でも忘れられてたのはちょっと淋しかったよ、翡翠」

「いや、それは――ごめん」

 思いがけない出来事に狼狽し、翡翠は額に手を当てた。俯きながらかぶりを振り、

「こんなふうに再会するって思わなくて。その、紫音もびっくりしたでしょう。いきなり絡んできた酔っ払いが私で」

「驚いたといえば驚いた。予想どおりといえば予想どおり」

 不思議な言い方だ。しかし懐かしくもあった。淡々とした、それでいて奥深い部分を見定めているような口ぶりは確かに、御神楽紫音のものだ。変わっていない。

「なにが? 私が質の悪い飲んだくれになったこと?」

「ううん。あなたが私を助けに来たこと。分かってるんだよ、翡翠が私を助けようとしたって」

 心臓が跳ね上がった。思わず立ち止まり、ただ短く、

「見えてたの?」

 ふふ、と紫音は吐息交じりに応じ、歩み寄ってきた。距離が詰まる。

「見えてたよ。あいつが私を殺そうとしてるのは分かってた。そういう存在だって」

 じゃあなんで、という問いかけを、翡翠はすんでのところで飲み込んだ。紫音の言葉を待った。

「物心ついたころから、ずっと見えてたんだ。ただ連中がなんなのか、言葉にするのが難しかっただけ。人間に害を成す存在だってはっきり分かったのは、小学一年の夏のこと。覚えてる? 翡翠と一緒に行った、あの肝試しのときだよ」

 光と影が錯綜しながら紫音の顔を行き過ぎた。翡翠は息を呑んだ。

「あのとき、なにがあったの」

「なかに入ったわけじゃないから、はっきりとは確かめられなかった。でも入口で感じたんだ。物凄い悪意だった。私と翡翠を狙って待ち構えてた。入ったら生きては戻れないって直感した。だから止めたの。翡翠はがっかりしてたけど」

 思い出した。自分は確かに彼女に告げたのだ。せっかく来たのにつまらない、と。

 けっきょく引き下がるに至ったのは、普段は決して強情を張らない紫音が譲らなかったからだ。彼女の言葉がなければ、まず間違いなく遊び半分で入り込んでいた。

「他にどうしようもなかった。奴らのこと、ちゃんと話せなかったし。頭のおかしな奴だって思われたくなかったんだ。親友のままで別れたかった」

 紫音は幽かに声を震わせた。それから悔しげに、

「薄々は感じてたんだよ。翡翠も私と同じなのかもしれない、奴らが見える――いずれそうなる人なのかもしれないって。でもあの頃は確信が持てなくて、言い出せなかった。本当のこと、伝えられなかった」

 翡翠は俯いた。絞り出すように、

「それは――仕方なかったって言うか、当たり前のことじゃない? 紫音なりに、私を巻き込まないように考えてくれた。違う?」

「話そうが話すまいが、目に映ろうが映るまいが、奴らは実在する。人を死に導く。だったら少しでも知識があったほうがいい。一生を怯えて暮らす羽目になるんだとしても、知るべきことは知ったほうがいい。いまの私ならそう判断して、あなたに伝える。あの頃の私は意気地がなかった」

「やめてよ」と翡翠は遮った。かぶりを振って見せながら、「実在するんだとしても、近づかなければ、見つからなければいいだけじゃない。あいつらは人間の手に負える存在じゃない。自分を閉ざして、曖昧にして、なにも見も聞きもしなければ、元どおりの世界に留まれる。結果的に自分の身を守れる」

 紫音は手を伸べてきて、翡翠の頬に触れた。そっと触れながら、

「それで騙し切れる力じゃない。自分でなんとなく察してるでしょう? 翡翠は特別な人間なんだよ」

「そんなの信じない」告げると、顔を動かして紫音の手から逃れた。「感覚を抑える方法はある。意識を研ぎ澄ませるほうが危ないんだ。見なければ素通りできる。大半の人間はそうやって平穏に生きてるの。今回だって、本当は気付きたくなかった。見さえしなければよかったんだ。見なければ――なにも見なければ」

 視界のなか、紫音の輪郭が滲んでいく。心の奥底に封じてきたはずの忌まわしい記憶が、遂に行き場を失くして噴出してくるのを感じた。

「ぜんぶ私が、あいつを見たせいだ。私のせいで――沙由は死んだ」

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