6

 扉を開けた途端、夜の空気が肌を包み込むのを感じた。本当に久方ぶりの満足な食事に、体がまだ驚いているようだった。食べるという行為を、自分はずっと忘れていたのだ。

 頭蓋の内側に靄が立ち込めたような感覚も、視界の閉塞感も、耳奥の重みも、いまは薄れている。自分を取り巻く世界の輪郭が、急にはっきりしたようだった。

 あらゆる感覚が鮮明だった。街の明かり。ざわめき。行き交う人々の気配。

「――よくないな」

 と翡翠はつぶやいた。足取りを速める。

 人間として、一個の生命体としては喜ぶべきことなのだろう。しかし同時に、脳裡の片隅が警告を発してもいた。

 閉じなければならない。塞がなければならない。それが叶わないなら、すぐさま曖昧な領域に沈むべきだ。

 目を凝らすな。耳を澄ませるな。過ちを繰り返したくなければ。

 俯きがちに歩いた。もっとも近いコンビニを目指す。自分にはアルコールによる酩酊が必要なのだ――樋元翡翠として生き永らえている限り。

 目的地に辿り着いてみて舌打ちした。空き店舗になっている。少し来ないあいだに閉店してしまったらしい。

「なんなの」

 テナント募集の旨を記したプレートを恨みがましく睨みながら吐き捨てた。次に近いコンビニは、ここからだともう十分ほど歩かねばならない。溜息が出た。

 立地も品揃えもいまひとつの店だ。しかし選択の余地はなかった。方向を変えてまた歩き出した。

 柑奈さんに心配されるのも無理はない。ここ一年の酒量は常軌を逸している。しかしほかに、この感覚を眠らせておくすべを思い至らない。

 見るべきでないものを見ない。聞くべきでない声を聞かない。意識せずとも平穏な世界に留まりうる人間もいる。おそらくは大半が、そうだ。自分が信じている枠の内側から決してはみ出さないままに、一生を終えることができる。

 沙由はそうなるはずだった。自分という人間と、関わりさえしなければ。

 いつの間にか喧騒が遠ざかっていた。誰ともすれ違わない。車の往来もない。奇怪な沈黙のさなかに置き去りにされたような気になって、翡翠は顔をあげた。

 意識のどこかが小さな、しかし確かな違和感を察した。痛みさえ伴うような、切実な感覚だった。

 やめろ、と理性の叫び声が響いた。しかしその警告は一瞬、遅かった。

 歩道橋のうえに人影があった。おそらくは少女だ。立ち止まっている。

 視線が釘付けになった。引き離そうにも、もう引き離せない。

 不可解な立ち止まり方だった。柵から身を乗り出すようにして、遠くを眺めている。なにもないはずの中空を。

 ひとりでに瞳孔が開いた。スイッチが切り替わる。新たなチャンネルが映し出される。

 隠された本当のもの。私にとっての世界の真実。

 黒々とした煙めいた影が、視界の内側で徐々に輪郭を纏った。女の姿を形作る。宙に浮かんだ、歪な、人間ではありえない――。

 女が手招きをしているのが分かった。歩道橋の少女はただじっと、そのさまを見つめているのだった。

 少女自身がどう認識しているかは判然としない。影の女の姿は、彼女の目には映っていない。

 少し離れたところにある交差点に車が一台、停止していた。信号が変われば迷いなく直進してきて、あの歩道橋の真下を通過するだろう。いっさい速度を緩めることなく。

「くそ」

 なにも気付かなかったことにして、行き過ぎるべきなのは理解していた。アルコールさえ摂取すれば、じきに「正しい」世界に帰れる。酔いつぶれて眠り、恐れから遠ざかることができる。仮に翌朝、「事故」あるいは「自殺」のニュースが目に入ったとしても、自分とはなんの関係もない――。

 視界の隅で青い光が瞬いた。振り向く。車がゆっくりと動きだしている。

 瞬間、翡翠のなかでなにかが弾けた。取り返しがつかないのだと悟った。

 息を深く吸い上げ、畜生、と口のなかだけで発した。そして走りはじめた。


 ***


「ああ楽しかった」助手席に乗り込んだ沙由が、ハンドルを握った翡翠に向けて言った。「今まででいちばん楽しい誕生日だったよ、ひいちゃん」

「そう、よかった」

 頷き、エンジンをかけた。軽自動車の細かな振動が身に伝わる。翡翠は後方を確かめながら、「忘れ物してない?」

「大丈夫。ちゃんと持ってきた」

「シートベルトは?」

「した。ちょっとお腹窮屈だけど」

 翡翠は思わず笑みを洩らした。普段はそう健啖なイメージのない彼女だが、今日ばかりはよく食べた。つい驚かされたほどだった。

 夕食は沙由の意見を採用してハンバーグにした。立ち寄ったのはファミリーレストランよりは少し洒落ている、といった程度の店である。藤代氏なら決して連れてはこなかっただろう。誕生日ならなおさらのことだ。

 店を選んだのはやはり沙由だった。ここがいい、と彼女が言い出したので、あえて抗わなかったのである。

「美味しかった? いつもよりいっぱい食べたんじゃない?」

「なんだろ――お父さんと行くようなお店だと、お座敷で緊張するからかな。お店の人もすごく特別扱いするし。お父さんがお金持ちなのは分かってるけど、私は別に」

 んん、と咽を鳴らしてから、沙由は続けて、

「大きくなっていくうちに、お父さんの子供でいることに慣れてくのかな。今はまだ、変なの、としか思えなくて。お嬢さま、とか言われると不思議な気分になっちゃう。私はそんなんじゃないのにって」

「まあ――お父さんはだいぶ凄い人だから。いろんな意味で、普通の人じゃないのは間違いない」

「お父さんのことは好きだけど、ときどき緊張する。ちゃんとしなきゃって思って」

「気持ちは分かるよ。お父さんだったらこんな車、絶対乗せないだろうし」

「これ、言っていいのかなあ。お父さん、ひいちゃんには新しい車をプレゼントする気でいるみたい」

 薄く笑いながらハンドルを握りなおした。薄々、察していたことではある。このちっぽけな軽自動車は、藤代家のガレージにはやはり相応しくない。

「じゃあこの車でドライヴできるのも最後かもね。ポンコツといえばポンコツだから、いずれ、とは思ってたけど」

「本当は今日までにこっそり買っておいて、ひいちゃんを驚かせるつもりだったんだよ。でも私が止めたの。ひいちゃんに選んでもらったほうがいいよって」

 翡翠は沙由に視線をやり、「ありがとう。そのほうがいい」

「ほんと?」

「本当だよ。私とお父さんとじゃ、やっぱり趣味が違うし」

 沙由は短く沈黙してから、意を決したように、

「実は私もね――ひいちゃんにプレゼントがあるんだ」

 え? と発すると同時に、眼前の信号が黄色に変わった。静かにブレーキを踏む。

「沙由から?」

「うん」彼女は顔を上下させた。語りの速度を落として、「私はお父さんみたいなプレゼントはできないけど、でもお父さんより先にひいちゃんに渡したい。私なりに考えたの。ひいちゃんに持っててほしいものをあげるのが、いちばんいいのかなって」

「沙由が、私に持っててほしいもの?」

「そう。大事なことを忘れそうになっても、また思い出せるようにって、私、おまじないしたの」

 沙由が手を伸べてきたが、その瞬間に信号が青に変わった。翡翠は正面に視線を戻して、

「ごめん。いま運転してるから、帰ったら受け取るね。お父さんのより早く貰うから。沙由のプレゼントをいちばん最初に貰うから、ね」

 沙由が掌を引っ込め、自らの膝の上に置いた。「約束」

「約束する。楽しみに待ってるから、早く帰ろう。そうだ沙由、お父さんに電話してくれる? いま帰り道ですって」

「分かった」

 彼女がバッグを弄る気配があった。ややあってスマートフォンを取り出したが、あれ、と声を洩らして、

「ひいちゃん、アンテナ立ってない」

「圏外? こんなところで?」

 フロントグラスの向こう側に意識を集中させて、翡翠は息を詰めた。眼前に広がっている光景に、どことなく違和感を覚えた。ぽっかりと口を開けた、小さく薄暗い穴。

 なんの変哲もないトンネルの入口のはずだった。しかしどこかが奇妙だ。正体の分からない、しかし決定的ななにかが、意識の片隅に引っ掛かって仕方がなかった。

「トンネルって電波来ないのかな。抜けたらまた架けてみるね」

 ブレーキの上に移しかけた右足を戻した。馬鹿らしい。ただのトンネルだ。わざわざ引き返す必要などありはしない――どこにも。

 オレンジ色の明滅に包まれた。黒々たる影が、沙由の横顔を撫でる。

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