5

 ***


 定食屋「みしろ」の入口はやたら奥まった場所にあって、知らない者はまず気付けない。申し訳程度に出された簡素な看板の前を通りすぎ、翡翠は階段を下った。

 赤茶けた扉を押した。うっすらとした暗がりに満ちた店内に入り込むたび、翡翠は不思議と穏やかな気分になる。幸いにして他に客はいなかった。

「いらっしゃい」

 とカウンターの向こうから柑奈さんが声をかけてきた。三十代前半くらいに見えるほっそりとした女性で、店は彼女がひとりで切り盛りしている。

 翡翠は椅子を引きながら、「ジントニックを」

 柑奈さんは翡翠を一瞥し、吐息を洩らした。「翡翠ちゃん。お節介だけど、今日は先にお夕食にしない? すぐに出せるから」

「ジントニックと。なければビールを」

「ないわけじゃない。ただね――いまの翡翠ちゃんには飲ませたくないの」

 顔を上げた。柑奈さんは強張った表情でこちらを見据えていた。翡翠は気圧されて視線を逸らし、壁に貼られた無数のポスターのうちのひとつを眺めた。大写しになったジム・モリソン。

「お金は払います。なんでもいいから飲ませてください」

「あのね翡翠ちゃん。自分で気付かない? なんで私がこんなこと言うのか」

「心配してもらえることには感謝してます。でも大丈夫ですよ」

「みんなそう言う。でもね、たいがい大丈夫じゃないの。私もいろんな人を見てきたから分かるつもり。そんな顔をしたお客には、たとえ店が潰れたって飲ませるべきじゃないって」

「暴れたり、トイレ以外の場所で吐いたりはしません。迷惑かけませんから」

 視界の隅の柑奈さんはかぶりを振り、小さく音を立ててグラスを置いた。すぐさま唇をつけたが、氷の浮いた水である。翡翠は声を低めて、

「少しでいいんです。すぐに出ていきますから――お願いです」

「出てってほしいなんて思ってない。翡翠ちゃんは大事なお客さん。でもだからこそ、店としては長くお付き合いしたいのね。飲み屋の常連さんで、長く続く人は少ない。ただ飽きて来なくなるならいいほうなの。言ってる意味、分かるでしょ?」

 視線を落とした。膝の上で掌を握り込みながら、

「確かに私は、まともな飲み方はしてません。暴飲って言われても仕方がないです。だけど信じてください、アル中じゃないんです」

 柑奈さんは腕組みし、「いちおう訊くね。じゃあなんなの?」

「ただ曖昧にできればいいんです。アルコールじゃなくてもいい。見るべきじゃないものを見ずに済みさえすれば」

 ふう、と柑奈さんは深く息を吐いた。「やっぱり今日は駄目。ご飯だけ食べて帰りなさい。どんなものなら食べやすいの?」

「ゼリーなら食べられました」

「いつ?」

「……三日くらい前かな」

 これだから、と彼女は呆れたように発して翡翠に背を向けた。カウンターの奥に取って返しながら、

「ぜんぜん冗談に聞こえない。医者に担ぎ込まれたくなかったら、ちゃんと食べて栄養を採りなさい。ゼリーはデザートとして付けてあげるから」

 抗弁しなかった。店内に小音量で流れていたビートルズにぼんやりと耳を傾けて待った。

「お待たせ。日替わり定食でいいでしょ?」

 手早く出された料理を、翡翠は無理やりに胃袋に収めた。初めのうちはほとんど味を感じられなかったが、美味しい、美味しいと自分に言い聞かせながら口に入れつづけた。平気だ、食べられるに決まっている。自分はまだ――壊れてはいない。

 やがて少しずつ甦ってきた味覚が記憶を刺激するようで、翡翠はつい涙を零した。フォークを置いて顔を伏せていると、柑奈さんが奥から、

「大丈夫?」

「ええ」

「どうかした? 苦手なものでもあった?」

「いいえ。ただ――ハンバーグ、妹が好きだったなって」


 ***


「本当にこれでいいのか? どれでも好きなのに乗ってっていいのに」

 見送りに出てきた藤代氏が、親指で肩越しに背後を示しながら言う。翡翠は笑いながら、

「これに慣れてますから。それに擦りでもしたら申し訳ないし」

 氏のコレクションは現状四台ある。ただ漠然とグレードの高い車なのだろうと察せるのみで、それ以上のことは翡翠には分からない。移動手段のひとつと割り切っており、ほとんど拘りはなかった。

「気にする必要ないんだけどな。でも沙由はどうしてもこれで行きたいみたいだ」

 彼女はすでに助手席に乗り込んで、きっちりとシートベルトを締めて座っている。お気に入りの小さなバッグも抱えており、準備万端の風情だ。

「じゃあ、行ってきますね」

「楽しんでおいで。ああ、そうだ。これを」

 氏はポケットから財布を出すと、万札を何枚か無造作に抜き出して、翡翠の掌に押し付けた。いえ、と首を横に振ったが、彼は応じず、

「誕生日くらいは遠慮しないでくれ。渡したカードだって、普段ほとんど使ってないだろ」

「常識の範囲内では使ってます」

「価値観の相違だな。とにかく俺は、家族に不自由をさせたくない。君にも沙由にも、思い切り楽しんでもらいたいだけだよ。浪費家になれとは言わない。ただ君たちのために最大限の選択肢を用意するつもりだ。選びたいものを選んでくれていい。俺には決して遠慮せずにな」

 沙由が掌を硝子窓に当て、ぺたぺたと叩いた。「早く行こうよ」

「ごめんな。お父さんの話が長くて」

 氏が後退して軽自動車から離れる。翡翠は運転席に向かった。内側から窓を開け、

「お小遣い、ありがとうございます。帰るときに連絡しますね」

「ああ、気を付けて。沙由をよろしくな。沙由、お姉ちゃんの言うことをちゃんと聞くんだぞ」

「うん。ひいちゃん、出発」

 ゆっくりと車を出した。なるべく揺れを生じさせないよう意識しながら、少しずつ加速する。

 自分でハンドルを握るのは久しぶりだった。このところは藤代氏の運転するクーペの後部座席にゆったりと身を預けるのに慣れきってしまっている。

 どこへ行きたいでもなにが欲しいでもなく、ひいちゃんとドライヴがしたい、と沙由は言った。ただお喋りをしたり景色を見たり、なんでもないことで時間を過ごしたいのだ、というのが彼女のリクエストだった。それだけでいいのかと繰り返し訊ねたが、答えが変わることはなかった。

「お父さんからお小遣い貰ったし、やっぱり新しいゲーム買う?」

「ゼルダ途中じゃん。お助け手帳もコンプしてないし」

 頬を緩めながら頷いた。やり込める要素の充実したゲームで、いつまでかかるのかは翡翠にも想像がつかない。思い入れのあるシリーズだから、最後まで楽しみ尽くすことだろう。

 公園に立ち寄った。駐車場の木陰に車を置く。街路樹に挟まれた遊歩道を、手を繋いで辿っていく。

「夏の匂いがするよ」と沙由が言い、こちらを見上げた。「ひいちゃんにも分かる?」

「分かるよ。久しぶりに嗅いだ気がする」

「久しぶり? どうして?」

「なんでかな――たぶん忘れてたんだと思う。夏の匂い、雨の匂い、秋の匂い……沙由くらいの頃は、風の気配を感じるのが好きだった。でも最近は意識しなくなってた」

「大きくなると、もっと大事なことがたくさんできるから?」

 翡翠はかぶりを振った。自分でも驚くほど確かな声が出た。

「もっと大事なことなんてないよ。なんにも」

 細い小路に折れ、緩やかな坂道を下っていく。自販機を見つけ、ジュースを買った。木製のベンチに向かい合って腰掛け、休憩をとる。

「ひいちゃんは去年の誕生日、どうしてた?」

「よく覚えてないな。ひとりでケーキとか食べたのかも」

「去年と今年、どっちが楽しい?」

「もちろん今年。来年は妹ができて一緒に過ごすよって、去年の自分に言ってやりたいな」

 沙由は笑い、「来年も再来年もその次も、こうやって一緒にいようね。お父さんやお母さんや友達とのお祝いとは別に、誕生日の同じふたりだけでお祝いしたい」

「いいよ」

「ひいちゃんは大人だから、いろいろお付き合いとかあるかもだけど、でもちょっとの時間でいいから、ずっと、私がひいちゃんみたいに大人になっても――」

 分かったよ、と翡翠は何度も顔を上下させた。咽の奥が熱くなっているのを意識した。

「約束」

「うん。約束」

 ゆっくりと右手の小指どうしを絡めた。頷き合った。

 沙由がするりと指を解いたかと思うと、今度は強く握りしめてきた。立ち上がり、翡翠の掌をぐいぐいと引いて、

「川、見に行こうよ」

 石段を下りる。浅い水面が陽光を跳ね返しながら輝いている。

 沙由がはしゃぎ声をあげながら川辺の石を踏んだ。水際まで近づいて覗き込んだり、河原を左右したりする彼女を、翡翠は斜面から見下ろした。

 近づいていくと、沙由はぱっと体を起こして振り返った。両手を隠すように背中に回したように見えた。翡翠は首を小さく傾けて、

「どうかした?」

「ううん。なんでもない」

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