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 ***


 翡翠は目を開けた。眠った感覚はまるでなかったが、カーテンの隙間からはすでに光が射していた。朝か昼かは判然としないが、ともかくも明るい。

 スマートフォンの時計を確かめた。十六時三十分。夕方だ。

 脱ぎ捨てた服や散乱した本を踏まないよう意識しながら、ベッドから足を下ろした。頭がひどく重い。台所に向かうまでの僅かなあいだに、ふらついてへたり込みそうになった。

 水を飲んでから冷蔵庫を開けた。なかを覗いて思わず唇を開いた。

「なんで? もうないの?」

 安酒を大量に買い置いた。色とりどりの壜、缶。目に付いたものを片端から籠に入れた記憶がある。そう昔のことではないはずだ。

 昨晩の飲み残しに期待して、テーブルに取って返した。手に取って順番に振ってみて、深く落胆する。いずれも空だった。

 低い異音が意識に割り込んできた。スマートフォンが振動している。

 無視を決め込もうとしたが、ずいぶんと長いこと鳴りやまなかった。いったん切れ、間をおかずに再び架かってくる。画面に表示された名前を一瞥した瞬間、顔が強張るのを感じた。藤代玲仁。

「はい」

「翡翠。その――元気か」

「どうにかやっています。ご用件は」

「いや――ただ一言、誕生日おめでとうと」

 視界が暗くなった。翡翠は声の震えをできる限り抑え込まんとしながら、

「本当に申し訳ありませんでした。謝罪したところでどうにもならないのは分かってますが、私は――あの子を」

 それ以上は言葉が出てこなかった。端末を遠ざけて洟を啜り上げた。「すみません」

「そうじゃない。そんなこと言ってないよ、翡翠。分かるだろ」

「私のせいです。私は、守れなかった」

「いいか、翡翠。俺は君を責めてないと、何度も伝えたはずだ。気持ちは痛いほど分かるよ、どうしても思い出してしまうよな。俺もだ。沙由のことを考えなかった日は一日もない。それでも俺には俺の、君には君の人生があって、まだ続いていくんだ」

「お願いだからやめてください」と翡翠はやっとのことで発した。「私のことなんかどうだっていいんです。恨んで、罵って、それでもう架けてこないでください。私みたいな人間に関わったのが不幸だったって思って」

「馬鹿を言うなよ、翡翠。君だって俺の――」

 通話を切った。スマートフォンを放り出すと、翡翠はその場にしゃがみ込んで嗚咽を洩らした。


 ***


「ここが最後ですか」

 と傍らの藤代氏に訊ねたが、笑いながら首を傾げるばかりで回答は得られなかった。開けてごらん、と言うように掌でドアを示すばかりだ。

 キッチンから浴室、中庭のさらに向こう側にあった物置まで、家じゅうを巡ってきた。回収したメッセージの紙片は二十枚近くに及ぶ。

「そういうゲームなんだから当たり前ですけど、指示が意地悪でしたね。物凄い遠回りをさせておいて、実はすぐ下の引き出しに次のが隠してあるとか。よく調べればショートカットできた」

「ショートカットか」言いながら、氏は腕時計に視線を落とした。「まあ二十分くらいは短縮できたかもな」

「助言してくれればよかったのに。ここは明らかに怪しいなって場所、私より先に気付いたうえで黙っていませんでしたか」

「確かに」腕組みした翡翠に向け、氏はあっさりと頷いた。「俺はこの家の住人だからね。とうぜん君に見えないものが見える。沙由の父親だから、あの子の考えそうなことも分かる。ああこれは罠だなとか、君がミスったなとか、気付いた箇所は正直いくつもあったよ」

「じゃあなぜ? こういうのってクリアまでの時間を競うものじゃないですか? 沙由ちゃん、待ちくたびれちゃったかも」

 氏は小さく笑い、廊下の壁に背を預けながら、

「沙由にゲームを買ってくれと強請られることがよくある。どういうジャンルが好きだと思う?」

「パズルゲーム」

 翡翠が即答すると、彼はかぶりを振ってみせ、「外れ」

「レースゲーム」

「外れ。両方ともたぶん、一本くらいしか買った記憶がない。やってるところもほとんど見ないな」

「育成ゲーム」

「適当になってきてないか? 答えはRPGだ」

「ああ」と翡翠は頷き、「こういう謎解きのあるダンジョン、出てきますね。やったことあります?」

「もちろんある。よく一緒にやるよ。付き合っているうちに俺まで腕前が上がってきた」

「だったらやっぱり、効率よくクリアすべきだったんじゃないでしょうか。そういうゲームですよね、沙由ちゃんが意識してるの」

 集めたカードを指先で弄びながら言うと、氏はゆっくりと、

「そうだが、おそらく違う」

 手を止め、顔をあげた。「違うって?」

「あの手のゲームというのは、効率よくミッションを達成して、短時間でゴールを目指す遊び方が一般的なのかもしれない。いわゆるタイムアタックだな。だが沙由はそういうプレイングを絶対にしない。最初のダンジョンが始まるさらに前の、旅立ちの村みたいな場所で何日も留まっていたりする。なぜか分かる?」

「まったく」

「俺も初めは分からなかった。あるゲームを横で見ててつい、早く剣と盾を手に入れてダンジョンに向かうべきだと助言したことがある。すると沙由は言ったんだ。まだ全部の村人に話しかけてない」

 はあ、と翡翠は首を傾けた。「ストーリー上の目的はすでに明らかだったですよね? こう、魔王を倒すとか」

「呪いにかけられた村の長老を救うのが最初の目的だったかな。その長老からまさに魔王の話を聞くことになるんだが――とにかく沙由は何日も村を歩き回ってた。一つ目のダンジョンを突破するのに一か月くらいはかかったんじゃないかな。ストーリーを進めるだけなら数時間で済むのに」

「それって面白いんでしょうか」

 氏は破顔し、

「同じことを訊いたよ。そうしたら沙由は目を輝かせて、面白いと答えた。自分の知らない新しい世界が広がっているのが面白い。隅から隅まで、この素敵な世界を歩いてみたいんだ、と」

 翡翠はカードに視線を落とし、それから再び藤代氏の顔を見た。娘を思う父親の、穏やかな微笑があった。

「つまりこの家を――私にとっての新しい世界を、端から端まで探索させようと」

「たぶんそういうこと」氏は応じ、壁に凭せ掛けていた背を浮かせた。「クリエイターの意向を察したからこそ、黙っているほかなくなったわけだ。プレイヤーの君は苦労したろうが、そのぶん語れることがきっとたくさんあるはずだ」

 氏がドアの数歩横に立ち、再びノブを示す。翡翠は最後のカードに書かれたメッセージを、声を張って読み上げた。

「『扉の前で、君の探す者の名前を呼べ』。これでクリアかな――藤代沙由ちゃん」

 途端にドアが内側から開き、小柄な少女が飛び出してきた。屈みこみ、腕のなかにしっかりと抱き留める。「初めまして。今日からよろしくね」

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