3
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洗面台を抱え込むようにして、咽が裂けるほどに咳き込んだ。嘔吐感は絶えることなく続いているが、いくら苦悶してみてもただ唾液が糸を引くばかりである。吐き出せるものが胃袋になにも残っていないのだ。
蛇口を捻って水を出し、掌にためた。口をゆすぎ終わるまで、いっさい顔を上げないように意識した。排水溝に生じた渦だけを眺める。
鏡を見たくなかった。なにが映るかと思うと恐ろしくて堪らない。
酔いに任せて叩き割りかけた経験は無数だ。丸ごと覆い隠そうとしたこともあるが、張った布が安定したためしがない。どれだけ頑丈に固定してもいつの間にか外れて、床に落下している。
いかなる理屈でそうなるのか翡翠には分からない。しかし部屋を移っても同じことだろうという予感だけが強く胸に漲っていた。逃げて逃げられるものなら苦労はない。
最後に食事をしたのはいつだったかと考えた。大量の酒と僅かな水以外の記憶を探るのに、信じがたいほどの時間を要した。食べ物を想像するだけで胸が悪くなるような有様である。かろうじて咽を通ったのは――確かゼリーだ。三日は前になる。
空腹は度し難いほどになっていたが、人並みに空腹を感じる自分が厭で仕方がなかった。飲酒と昏倒の繰り返しが途切れると、あっという間にこうして新しい恐怖が入り込んでくる。畜生。またしても込み上げてきた涙を指先で拭う。
いつか受けたカウンセリングを思い出した。ただ食事をして眠りたい、そのための薬を出してほしい、と訴えたのだ。とにかく身体的な苦痛を軽減させ、少しでもまともな状態に戻りたい。ほかにはなにもいらない。実際、それが願いのすべてだった。
「仰ることは分かりました。お辛かったですね、樋元さん。では」
医師は眼鏡の奥から翡翠を見据えてそう言った。ではしかるべき薬を出しておきます、とだけ告げて終わりにしてほしかった。身を固くして次の言葉を待った。
「ではなにがあったのか、少しずつで構いませんから私に話してもらえませんか。ひとつひとつ原因を取り除いて、あなたの心を楽に――」
「あの」落胆を悟られぬよう注意しながら、できるだけ穏やかに医師の言葉を遮った。「心より先に体をどうにかしたいんです。眠れるように、食べられるようにするのを優先してください」
「しかし心因性ですからね。問題はおそらく複雑で、あなたの心の奥深くに根差している。時間をかけて解きほぐしていく必要があります。あなたに起きたこと、あなた自身のものの見方、考え方、受け止め方。そういったすべてを把握しないと、おいそれと手を付けられるものではないんです。お分かりいただけますよね」
翡翠は息を吐き出し、それから勢い込んで、
「崖にぶら下がって、いつ落下するか分からない状態の人間がいるとします。必死に声をあげて、この手を掴んで引き上げてくれと訴えている。それを目の前にしたら、崖が滑りやすくなっていたのはなぜでしょうとか、柵を作る場所はどこがいいと思いますかとか、訊ねている余裕はないと思いませんか」
医師は片眉を吊り上げた。
「それがあなただと?」
「ええ」
躊躇いなく頷き、相手を見返した。膝の上に置いた手が小刻みに痙攣しはじめたので、握り拳を作って抑えんとする。
「こう考えてみてはどうでしょう。あなたの心は確かに悲鳴をあげている。しかし現実のところ、あなたは崖にしがみついているわけではない。あなたの心があなたを追い込んで、そう錯覚させているにすぎない。本当は安全な地面に上にいるのだと気が付ければ、あなたはすっと楽になるはずです。その手助けを私はしたい」
医師が両腕を広げた。敵意はない、と示すかのようだった。
「ですから、どうか私に心を開いてください。本当のことを、私に話して」
本当のこと。それは私にとっての真実なのか。あるいはこの世界にとっての?
椅子を蹴りつけて立ち上がったのか――もう記憶にない。しかし現実の、すなわち洗面台の前で俯いていた翡翠の体はひとりでに反応した。視線が上がる。
鏡のなかの影が目に入る。しかし映り込んでいるのは自分ではなかった。少女だ――七歳のままの。
あの日、ちょうど一年前の今日と同じ格好だった。淡いブラウスとスカートの組み合わせは、彼女にとって特別な日のおめかしだった。翡翠と出会って最初の、そして人生最後の誕生日。
大きな目でじっとこちらを見つめている。鏡の影はずっとそうしていたようだった。永遠にあどけないままの顔。私が死なせた妹。
沙由。
「やめて」
と叫んで洗面所を飛び出した。平坦な明かりに満たされた部屋に駆け戻り、翡翠は床に放ってあった服を無造作に掴みあげた。
やっとのことで最低限の身支度を整え、鍵と財布だけをポケットに突っ込んだ。本当に久方ぶりに部屋を出る。夕闇。よろめきながら階段を下りた。
いますぐにアルコールが必要だった。震えが収まらなかった。
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