How Can I Make It Through The Night?

下村アンダーソン

1

 閉じられるものなら閉じ、塞げるものなら塞ぐべきだと分かっていた。なにひとつ叶わないから、今夜も曖昧でいる。

「畜生」

 と唇だけ動かしてから、樋元翡翠は震える右手を伸ばした。並んだ壜は十本で、うち五本か六本はすでに空だ。七本か八本かもしれない。もう覚えていない。

 重い一本を掴んで傾けた。目測を誤ったのか勢いをつけすぎたのか酒は安っぽいグラスから溢れ、テーブルに金色の水溜りを作った。見る見るうちに広がっていく。

 反射的に腰を浮かせた。立ち上がると途端に眩暈がした。

 七日だ、と意識のどこかで叫び声がした。八月七日。私たちは――誕生日が同じだった。

「ああもう」と今度は声に出して呻いた。「なんだっていま思い出すの」

 翡翠は十九歳で、すでに日付が回っていれば二十歳になる。確かめる気力は起きなかった。タオルで乱雑にテーブルを拭うと、すぐにグラスを握り込んだ。

 忌まわしい一年だった。永遠のように感じたけれどまだ一年で、これが終生続くのかと想像すると底知れない恐怖に見舞われた。胸に黒々たるものが渦巻いた。

 うっすらと涙が込み上げるのを感じ、翡翠はかぶりを振った。一息にグラスを空にする。ただ一刻も早く意識を遠ざけて、束の間の空白に身を委ねたかった。

 ようやっと訪れた酩酊はうっすらとした霞のようだったが、逃せば次に眠れるのがいつになるか知れたものではない。ベッドに倒れ込んだ。視界が明滅する。

 明滅。

 規則的に並んだオレンジ色の明かり。助手席に座った少女の横顔。踏み込んだペダルの感触。急ブレーキの軋み……衝撃。

 叫び声をあげながら翡翠は覚醒した。額が、背中が、じっとりと寝汗に湿っている。

 唇の端に張りついた髪を指先で除けると、息を吐き出して体を起こした。どこか遠くからサイレンが聞こえていることに気付いた。

 沙由、と呟いて掌で顔を覆った。再び寝付ける気がしなくなった。

 枕元に置き放したままの財布に手を伸ばし、この一年開けたことのなかった隠しポケットに指を差し込んだ。薄く硬い感触を探り当てた。

 そっと引き出そうして、三分の一ほどが現れたところで止めた。手が震え、咽の奥に鉛球を押し込めたような感覚に見舞われた。

 沙由は干支の一回り違う、義理の妹だ。八歳になるはずだった、存命であれば。


  ***


「沙由、下りておいで。お姉ちゃんに挨拶は?」

 靴を履いたままの藤代氏が、視線を上に向けて声を張る。吹き抜けのある開放的な構造と、天井から下がった巨大なシャンデリアに翡翠が目を剥いていると、彼はこちらを振り返って、

「悪いね。人見知りする子じゃないんだが」

「構いませんよ。ちょっと緊張してるんでしょう」

「かもな。君も他人行儀にならなくていいよ。法的にはまだでも、実際はもう親子なんだから」

 そうですね、と応じかけて口を噤み、ただ曖昧に頷いた。広々とした玄関で立ち止り、周囲を観察する。

 真正面に設けられた硝子戸が、手入れの行き届いた中庭の光景を切り取っている。左右には細やかな装飾が施されたドア。二階のどこかに「妹」の部屋があると思しいが、むろん見当はつかない。

「沙由ちゃん、七歳でしたっけ」

「そうだよ。お姉ちゃんができるって、すごく楽しみにしてたんだ。だからすぐ駆けつけてくるもんだと思ったんだけど、どうしたんだろう」

 藤代氏が顎を摘まんで言う。本当に不思議がっている表情に見えた。迎えの車のなか、明るい子だよ、と繰り返し語られたのを思い出す。

「ともかく上がって。いらっしゃい、かな。ようこそ? それともお帰りか」藤代氏は脱いだ革靴を揃えてから、「沙由、お姉ちゃんが来たよ。お話することがたくさんあるんだろう?」

「いいですよ、追々で。時間はたくさんあるんですから」

 笑みを作りながら発したとき、視界の隅に緑色をしたものが映り込んだ。はたとしてかしらを巡らせ、靴箱に歩み寄る。

「どうした?」

「見てください、これ」

 扉に挟まっていたものを抜き取り、指先で挟んで藤代氏の眼前に差し出した。小さな紙切れである。

「なにかな、それ」

「さあ」

 応じながら何気なく裏返した。眺めるうちに頬が緩んだ。「なるほど」

「なにが?」

 翡翠は咳払いし、厳粛たる口調で、

「『玄関を上がったら、すぐに右に進め』」

 困惑気味の表情を浮かべた藤代氏に紙を手渡した。受け取った彼もまたすぐに笑顔になり、翡翠を見返してきて、

「沙由なりの歓迎ってわけだな。近ごろ部屋に籠ってると思ったら、そうか、これを作ってたのか」

「行ってみましょう。右はなんの部屋ですか?」

「リビングだよ。実際に見てもらったほうが早いな。隅から隅まで、しっかりとね」

 右上がりで少したどたどしい、しかしはっきりとした文字の書かれた紙をジーンズのポケットに仕舞うと、翡翠はドアノブに手をかけた。新しい「我が家」が早くも愛おしかった。

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