少年に捧ぐホームラン

吟野慶隆

少年に捧ぐホームラン

 バッターボックスに立った閥田(ばつた)山車也(だしや)は、バットを構えると、じいっ、とピッチャーを睨みつけ始めた。うちの息子と交わした約束のとおり、ちゃんと、ホームランを打ってくれればいいのだけれど。術工(すべく)寛伽(ひろか)は、そう心の中で呟いた。

 彼女は、閥田を見つめるため、眉間に皺が寄るほど、目を細めていた。このスタジアムは、とても規模が大きく、収容可能人数は六万人を超える。そのうえ、彼女と、息子である蹄汰(ていた)の二人は、ライト外野席にいた。そこからでは、打者の姿は、とても小さく、視認しづらかった。

 現在、観客席には、空席がほとんど存在しなかった。満員、と形容しても、まったく過言ではない。観客たちのうち、寛伽たちの周りにいる者は、ほとんどが、閥田の属する参辰(まいりたつ)ウィファーズのファンだった。

 彼らは、閥田に対して、声援を送り始めた。「かっ飛ばせーっ! ツーアウトツーストライクがなんだ、三点差がなんだ、ここから逆転してやれーっ!」「本塁打よ! 本塁打を打ってーっ! そうしたら、逆転満塁サヨナラホームランよ!」などと言っている。

 しかし、中には、厳しいことをぼやく者もいた。「大丈夫かねえ、閥田のやつ……あのピッチャーは、あいつが最も苦手としている、フォークを投げることができるからなあ」「代打、出さなくていいのかしら? 閥田は、今日の全打席で、空振り三振なのよ?」などと言っている。

 寛伽は、ふと、横目で、右隣にいる蹄汰の様子を確認した。閥田がバッターボックスに立ったことに対して、何か、心を動かされてはいないか、と思ったのだ。

 しかし、その期待は裏切られた。彼がグラウンドに向けている目には、相変わらず、生気がなかった。いちおう、視線は、ホームベースのあたりに遣られている。しかし、視認しているかどうかはわからない。電車の窓の外を流れる風景がごとく、ろくに認識していないかもしれない。

 蹄汰が「ビスコーン病」に罹ったのは、今から四年前、小学五年生の春頃だった。全身の骨が、ビスケットのごとく脆くなる、という病気だ。症状が深刻な患者の中には、手足の骨が折れるため、体を少しも動かせなくなっている者や、じっと横たわっているだけでも、内臓の重みで、肋骨が砕ける者もいるらしい。

 さいわいながら、現在、彼の症状は、そこまでひどくはない。しかし、確実に進行していってはいる。下顎骨が脆くなっているせいで、固い物を食べられないどころか、ろくに物も喋れない。また、頭蓋骨が脆くなっているため、頭に強い衝撃を与えないよう、医師から言われている。ヘルメットを被るようにすべきか、と相談したが、それでは、かえって、ヘルメットの重みや硬さのため、頭蓋骨が損傷してしまうかもしれない、とのことだった。

 特に、両脚の付け根から下に位置する骨のうち、ほとんどが、かなり脆くなっている。一年ほど前から、やむを得ず移動する時は、車椅子を使うようになっていた。

 それと、ほぼ同じタイミングで、蹄汰は鬱に陥った。といっても、以前から明るかったわけではない。それでも、表面的な明るさを装うだけの気概はあった。寛伽としても、それに、ずいぶんと助けられたものだ。

 しかし、今、彼は、気分の落ち込みを、隠そうとすらしなくなっている。数ヵ月前からは、他者とのコミュニケーションを、ろくにとらないようになっていた。他者から求められれば、答える時があるので、失語症の類いではないのだが。

 寛伽は、以前から、なんとか、息子の鬱を快復させることはできないか、いや、完治とまでは言わないまでも、一時的でもいいから、気分を向上させることはできないか、と考えを巡らせていた。そして、最終的に思いついたのが、閥田との面会だった。

 蹄汰は、鬱に陥る前は、野球観戦を趣味としていた。特に、参辰ウィファーズを贔屓にしており、そこに属している選手の中でも、閥田の大ファンだった。

 その後、寛伽は、稼いだ金を費やすなり、仕事で培った人脈を行使するなり、さまざまな手を尽くした。そして、今から一週間前、ついに、閥田に、息子と会ってもらえた。

 彼女としては、閥田には、蹄汰と会い、軽く喋ってくれるだけでよかった。何らかのサービスをしてもらおう、とまでは、思っていなかった。

 しかし、閥田は、かなり善良な心の持ち主だった。息子の境遇にいたく同情してくれ、彼の鬱を少しでも快復させようとして、熱心に話をしてくれた。

 そして、最終的に、閥田は、蹄汰に宣言した。「一週間後の試合において、必ず、ホームランを打ってみせる」という物だ。

 閥田は、かつては、球団一、いや、球界一のスラッガーとして名を馳せていた。とある試合において、全打席で本塁打を放つ、という離れ業をやってのけるほどだった。

 しかし、数年前から、徐々に、調子が下がってきていた。かろうじて、ヒットは、しばしば打てるため、まだ、スターティングメンバーから外されてはいない。しかし、ホームランに関しては、ここ数ヵ月、一本も放っていなかった。

 そんな、スランプに陥っている閥田が、本当に、宣言どおり、ホームランを打つことに成功したとすれば、間違いなく、蹄汰は感動するだろう。少なくとも、わずかくらいには、心を揺さぶられるはずだ。鬱が治る、という贅沢までは望まないが、多少は和らいでほしい。

 寛伽が、そんなことを考えているうちに、ピッチャーが、投球動作を始めた。彼女は、ごくり、と唾を飲み込んだ。

 数秒後、彼の手から、ボールが放たれた。それは、ストライクゾーンめがけて、まっすぐ、高速で飛んでいった。そして、ホームベースの手前で、がくん、と落下した。

 観客たちのうち、誰かが叫んだ。「フォークだ!」

 閥田が、バットを、ぶんっ、と振った。

 かきーん、という、耳にしただけでストレスが解消されるような、小気味いい音が、スタジアムじゅうに鳴り響いた。

 ボールが、天高く打ち上げられた。それは、大して野球に詳しくない寛伽の目からしても、ホームランになるに違いない、ということが、容易に予想される打球だった。

「やった!」

 そんな声が、右隣から上がった。ばっ、と、そちらに視線を遣る。

 蹄汰が、両手でガッツポーズをしていた。

「蹄汰!」

 寛伽は思わず、そう叫んだ。周囲にいる観客たちのうち、数人が、何事か、というように、二人のほうに視線を遣ってきたが、気にしていられなかった。

「げほ、げほっ」久しぶりに喋ったせいか、蹄汰は咳き込んだ。「やった。ホームランだ。ホームラン」彼女に顔を向けてきた。「すごい、すごい、すごいよ! まさか、本当に、宣言どおり、ホームランを打つなんて……」

 蹄汰は、顔に、満面の笑みを浮かべていた。その瞳には、鬱に陥る前と同じ、いや、それ以上の生気が宿っていた。

「蹄汰……」

 寛伽は、彼の顔を見つめ続けた。いつまでも見ていられるような気がした。両目の下部に、熱い物が生じたのを感じた。それは、ただちに溢れ出すと、頬の上を流れ始めた。

 次の瞬間、ホームランボールが、蹄汰の頭に命中した。


   〈了〉

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