【短篇】蚕

橘香織

喪失

 ──忘レ物ハ在リマセンカ。


 真暗闇から、どこからともなく声がした。内容は上手く聞き取れなかった。が、不思議と親しみを覚え、無性に懐かしい心地がする。記憶の泉の底から引き上げられたかのような幼い声だ。私はその声の主に語りかける。どうしたんだい、と。

「心配なのです。いったい、どこに行くのですか」

 そう聞かれても、返事に困るばかりだ。もとより行く先は決まっていないのだ。それに、そもそも行く先なんてものが本当にあるのかどうかも疑わしい。さあ、私は一体、何処に行くのか。

「さあ、何処だろうね」

「なぜ行ってしまうのですか」

「さあ、何故だろうね」

 同じ様な答えをしてしまった。何せ、こんな事を聞かれるまで、行く先を、行く理由をも、考えてみる事さえしなかったのだ。

「ほんとうに行ってしまうのですか」

「あゝ。時計の針は一定の間隔で進んでいくんだよ。無慈悲な事だね」


「怖くはないのですか」

 私は、私の内から言葉を失った。咄嗟に後ろを振り向いて見たが、勿論、そこには誰も居ない。果てしない虚空が、ただ呆然と広がるばかりだ。そして、ある種の絶対的なが、私の身を貫いた。意味も目的も何もなく、一人で生まれ、生き、そして死ぬ。決して後戻りする事の出来ない不可逆の生を直観してしまったのだ。私の胸には、ぽっかりと大きな穴が空いていた。

「どうだろうね」

 と云う言葉が辛うじて口から零れ落ちたのは、どれ程の時間が経ってからか。

「大丈夫ですよ。私達はいつでもあなたの身方ですから」

 の言葉は、余りに軽やかで、余りに美しく、そして余りに残酷だった。私はただ只管ひたすら、虚無感に打ちひしがれる他には無かった。は私を知っている。私もを能く知っている。は、私がなくした「──」、その全てであった。

「あなたがここまで進んできたのを私達はずっと見ていましたよ」

 の言葉は続く。園庭に咲く蒲公英たんぽぽ、道路沿いの雛芥子ひなげし、駄作塗れのスケッチブック、乗り捨てられた鞦韆しゅうせん、丸めて捨てられた恋文。乗り越えた筈の過去、忘れ去っていた暗褐色あんかっしょくの「──」を私に突き付ける。空虚な意思を埋めたのは、旧懐だった。

「とうとう、行ってしまうのですね」

 最後まで、私の言葉が戻ることは無かった。は私にはなれないし、私もをやり直す事は出来ない。唯一、想い起こす事のみが許されている。

「でもどうか、私達のことを忘れないでください」

 きっと、再び忘れて仕舞う日が来る様な予感がした。そもそもも、私はの事を今の今まで忘れていたのだ。だから、いつか、また失う日は訪れる。でも、それでも好いのだ。今後、に出会わなければ、失って仕舞った事実すら、気付かぬままで居られるのだ。だから、それで好いのだ。

 「さようなら、どうかお元気で」の声は、もう聞こえない。


 ――忘レ物ハ在リマセンカ。

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