第9話  逃亡若しくは脱出ですか?

「はい?」

「おまけに常勤……」


 一体何が言いたいのだろうか。

 


 入職してひと月が経つ頃に田中さんは静かにN病院を退職した。

 私は退職するほんの少し前まで田中さんは常勤だとばかり思っていた。

 彼女は真面目で何時も淡々と仕事をこなす女性。


 私語なんて滅多になく、手が空いていれば詰め所へ戻りリーダーの仕事を進んで行ってもいた。

 物静かで卒なく仕事を行う――――ほぼほぼこのひと月の間仕事以外に接点はなく親しく話す機会もなかったのだが、彼女が退職してから少しずつだがポロポロと聞こえてきたのは半年契約の派遣Nsで、然も今回は契約満了ではなく残り三ヶ月を残し契約を打ち切ったらしい。

 

 当然契約の打ち切りを申し出たのは田中さん。

 理由は両親が倒れた――――と言うのが表向きなのだが、漏れ聞くところによればNと言うものだった。


 大人しい感じの女性だったと思ったのに随分と思い切った行動をするものだと、この時の私は呑気にもそう思っていた。

 だが彼女が辞める少し前に問われた言葉が……。


「どうしてここに? おまけに常勤で?」


 ほぼほぼ感情を表に出さない……これが世に言われる能面なのかと思っていたのだが、この時ばかりは私が常勤で入職した事に驚愕していたのが印象に残っている。


 一体何故そんなに驚く必要があるのだろうと思った。

 私は今まで通り本業は何時も常勤が当然だった。

 だからN病院の際も常勤でと面接を受けたのである。


 しかし私には当然の事でもこのN病院にしてみればそれは珍しい事なのだと、この時の私はまだ何も気づいてはいない。


 ファンタジーでたとえれば田中さんは獰猛な魔獣が棲む魔窟へ深入りし、抜け出せなくなる前に上手く脱出しただけだと本当の意味で理解したのは、愚かにも私がその魔窟へ深入りし過ぎた事により鬱を発症して数年後の事だったのである。

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