第9話


 最前線に送られると聞いた時、六輔は、

「やっぱりか」

 と呟いた。

「すまん、そうなってしまった」

 八郎は謝り、肩を叩く。六輔は後ろ髪を掻いて笑った。

「かまわん。弁慶だなんだとほざいていたからな。それぐらいの働きはせねばなるまい」

「お前の家の者は十八人だったな。もっと人をつけようか」

「そうだなぁ……いや、俺は他の家の者を入れられても話が合うかわからんからな」

「為五郎の家の者ならどうだ。何人か見知った者もいるだろう」

「そうだな……それなら知ってる奴はいるだろうな」

 こうして、阿多古為五郎の隊から五人が六輔の配下に加わり、二十三人を引き連れて岡部左京進親綱の陣を訪れた。集合した万沢口から富士川を上った最前線で、翌日には巨摩郡の身延の中心地に入る。

 六輔のくつわ取りは小者の三太がしていた。先日召抱えた銀兵衛は家に残してある。毎日寺に行き、おしのがまた気がふれたりしないように見守る役を与えた。

 既に六輔に忠誠を誓っている銀兵衛は不満を見せたが、逆に三太を家に残すと三太が自死する可能性もあるので、それを説明して残ってもらった。

 他の二十二人は皆、六輔の知った顔である。十七人は代官をしている村の男たちだし、五人は為五郎の代官地に遊びに行った時によく会う連中だ。

 出陣前に天竜川に集まって、川の竜神に無事を祈ると同時に、全員の投石の腕前を見てみた。

 多くの者は年齢に従って投石の経験が遠くなるが、やはり全員子どもの頃には遊んでいたようで、次第次第に思い出していって充分な腕前を披露した。川原の石を集めて数十個も箱に詰めて二人ずつ交代で運ぶようにしている。加えて荷駄も二人がかりで運ばせている。

 六輔の編成はくつわ取りの三太に直近の組下三人、槍足軽六人に弓足軽八人だ。槍の手数が足りないので、為五郎の隊から借りた五人は全て槍足軽である。また、全員が投石の名手だ。

 槍の長さは二間から二間半。弓で射ち合い、槍で叩き合う足軽戦法は応仁の乱にさきがける永享年間の東国動乱の頃に敵を集団で追い払う統率戦術としてほとんど完成しており、六輔たちもそれを徹底的に叩き込まれている。

 六輔の槍は身長に見合って三間ほどある。しかも重さと太さも二倍近く、振り回して頭にぶつければ、兜を被っていても相手が昏倒するほどの威力を持つ。

 馬も城内で一番大きい馬を融通してもらっている。並みの馬ではしばらく走っているだけでバテてしまうのだ。

 人間も馬も大きい井戸六輔薫長が陣中に入っていくと、出迎えた岡部左京進親綱はまず目を丸くした後に破顔した。

「これはこれは、貴殿が井戸六輔殿ですか。いや、聞きしに勝る勇壮ぶり。百人力を得た気分ですな」

「よろしくお願いいたす、左京進様」

「そうかしこまらなくてよいですよ。さぁ、こちらへ。一献用意しております」

「い、いえ、酒は遠慮しておきます。もう出陣でございましょう」

「左様ですか、まあ、口をつけるだけでも」

「は、はぁ……」

 肩を叩かれる力強さに断りきれず、六輔は一杯だけ頂戴する。

 背丈こそ六輔のほうが上だが、岡部左京進は相撲取りのような幅広の体つきをしており、がっちりとした筋肉を鎧のように纏っている為、その肉体の意匠は六輔よりも力強く見える。六輔が大地に根付いてそびえ立つ大木としたら、岡部左京進は体の大半を地面に埋めて尚も突き出てくる巨岩のようだった。その外見に見えない力強さの源は六輔の倍以上生きた武士の魂にあると言ってよいだろう。

「左京進様、ひとつお訊ねしたい」

「なんでございましょう」

 いくつかの挨拶と酒盃を酌み交わした後で、六輔は思いついたように訊ねた。

「左京進様は、義についてどう思われますか」

「ぎ、とは」

「義理人情の義、信義の義です」

 なぜこんなことを問うのか。俺がこんなことを訊ねる日が来ようとは――酒ですこし痺れた頭で六輔自身がそう思うようなことだった。

 しかし、壮士としても東海一と言われる岡部左京進親綱は問われた刹那、鋭い光りを瞳孔に走らせて六輔を見据えたかと思うと、相貌を崩して一杯呑んだ。

「すばらしい言葉です。私にはあなたより少し下の息子がおりますが、そのような言葉を聞いた覚えはありません」

「あ、いや……それがしも実はこのような言葉を口にしたのは初めてでございます」

「何か思うところがあるようですね。初めて会う私にしか言えないようなことが」

「そ、そのようなことは……」

 六輔はうろたえた。この話の大元は遠江にいる今川氏の一門、栴岳承芳の翻意を疑うもので、そのような話を重臣の岡部左京進にする訳にはいかない。

「言えないことはかまいませぬよ。それこそが義に依るものかもしれません」

「さ、左様で……」

「義というものは、人それぞれに根付いているものです」

 ちびりちびりと舐めるように酒に舌をつけて、左京進は語ってみせた。

「義とは、人間らしく生きるということです。しかし、人とはそれぞれが持つ人間らしさが違うのです。生まれ持った正邪の気質、育った環境に左右されて、培われていくのです。今この地の人々を見ても、おわかりになるでしょう」

 遠くそびえる身延山――富士山の三分の一程度の標高の山を指差して、左京進は微笑んだ。

「この土地の人々は女子供に至るまで戦を受け入れております。望んでいるのかもしれない。彼らは畑を耕し、田を植える一方で、甲斐国と駿河国の戦を見物します。そして勝った者に従い、負けた者に襲い掛かります。鋤や鍬や鉈で。刀を奪い、鎧を剥ぎ取り、生きていれば国に引き取らせ、死んだならば豚や犬の餌にします。それは私たちの眼から見れば、非道に映るでしょう。しかし彼らはそうは思っていない。生まれた時からそのように育っているのですから、それを悪とは思っていないのです。人は皆、生まれながらにして善良である。そう習いますが、彼らにとっては、追い剥ぎこそが善なのです。それが悪であるとは習いません」

「……」

「わかりましたか、井戸殿」

「正直なところ、よくわかりませぬ」

 六輔の素直な返答に左京進は気分を害した様子もなく、岩壁のような顔に穏やかな表情を浮かべたまま、最後の杯を空けた。

「さむらいにとって善きこととは何か。考えれば自然と思い浮かぶことでしょう。おそらくそれは間違っていないことです」

 六輔も自分の杯についている滴を舐めた。わずかに舌先が痺れる。立ち上がると低頭して礼を言った。

「ご教授、ありがたく存じます」

「私のほうこそ、あなたのような方を送ってくださった左衛門佐殿に感謝しなければなりません。よろしくお伝えください」

「は、ありがたき幸せにございます」

 六輔は岡部左京進の陣幕を辞した。

 質問したことは解決した訳ではないが、妙に晴れがましい気分になった。もともと考えたこともなかったことであるし、考えても仕方のないことかもしれない。

「旦那様、いかがでしたか」

 陣内の割り当てられた場所で馬に刷毛をかけていた三太が出迎えに来て、具足の篭手や臑当てだけを外す。すぐに戦闘が始まるかもしれないので全てを脱ぐことはできないが、真夏の暑さをすこしだけ軽減できる。

「水をくれ」

「へぇ」

 すぐに桶に水を汲んできてくれる。それをひしゃくにすくって頭からかぶった。具足の隙間にもかけていく。これも暑さと風ですぐに乾いて涼しくしてくれる。

「岡部殿からはよろしく頼まれた。俺も皆の働きには期待している」

 だらしのない格好をしている為か、周囲にいる足軽たちの変事も「へい」とか「うーい」とかいうものだ。くつろげる内はくつろいだほうがいいと思うので、それくらいの非礼は許すのが常だ。

「三太、お前こそだいじょうぶか」

 飼い葉を与えるのを手伝いながら六輔が三太に訊くと、やはり自分より姉のことが気になるようだった。

「心配はいらん。俺は銀兵衛は悪い奴ではないと思っているし、俺に働きを認めてもらおうと思っているはずだ」

「へぇ」

 頼りない、諦めるといった風の返事だが、今から戻りたいと言っても仕方がない。同情にもならないが、肩を叩いてやって六輔は岡部左京進から間借りした陣屋に入っていった。

 陣屋の中は五人ほどが寝起きできるスペースになっていて、片隅に小さなかまどがあり、そこに野草の煮汁が用意されていた。六輔は自分の兵糧米を木の椀にあけて煮汁を注ぐ。味噌をつけて焼いて乾燥させた米がたちまちふやけて、六輔はそれを一息にかきこんだ。

 それから篭手と臑当てを枕に眠りについた。明日はいよいよ合戦を仕掛ける。六輔は合戦に際して昂奮したり緊張したりするということは無いが、目を閉じてみると寺に預けたおしのの顔が浮かんだ。

(俺が帰る頃には腹が膨れているのだろうか)

 男子ならば、やはり己に似て巨漢となるのだろうか。女子ならば、どこかの家に嫁にやってしまうのだろうか。

 しかし、俺の娘を嫁にもらってくれるような家はあるのだろうか――そこに為五郎が買い取った子どもの姿が浮かび上がってきた。為五郎が連れてきている掛三郎と静次郎という十三、四の少年たちも悪くない。年の差はあるが、おそらく耐えm五郎はまたすぐに新しい子どもを買い取るだろう。

 その辺りまで思いふけっていたところで六輔は眠りにつき、目覚めた時には深更の時刻となっていた。

「……うむ」

 起き上がって陣屋の外に出ると、三太が立っていた。おそらく寝ずの番をしていたのだろう。

「すまぬな、三太。もう休んでいいぞ」

「へぇ。ですが、あまり寝られんずら」

「気持ちはわかるが、とりあえず休んでおけ。合戦は近い」

 三太は前回に三河への牽制に出陣した時が初陣だったが、口合戦と石合戦だけで終了したので、本物の激しい戦闘は経験したことがない。三太は六輔のくつわ取りであり、主人が馬を下りた後はそれを預かり守らなければならない、槍合わせには参加しないが、乱取りとなった場合には高価な戦利品になる馬は狙われやすい。その為の護衛として組下が一人か二人ほど着くが、やはり責任が重くのしかかるのだろう。おしののこともある。

 六輔は三太と交代して陣屋の見張りに立った。周囲には六輔の配下の足軽たちが寝転がったり雑談したりしている。六輔は彼らを呼んで雑談に混ざり、酒をすこし呑んで夜明けを待った。

 陽が射してくる頃に、あちこちに馬を駆ける音と伝令の声が響いてきた。

「間もなく進軍の太鼓が鳴るぞ! 遅れぬように支度せい!」

 言われるまでもなくほとんどの隊は目覚めて支度を終えている。六輔の部隊も揃って命令を待っていた。

 六輔は顔の下半分を覆う惣面をつけている。ごつい顔つきと体つきをしていても、まだ年若い。惣面は髭も生え揃っていない若い顔を隠し、人相に威圧感を加える為だ。

「昨日も言っていたが」六輔は陣触れの折りから何度も繰り返してきた言葉を投げかける。「俺たちの役目は投石だ。今度の合戦は機先を制する為、言葉合戦はせぬ。矢合わせからすぐに戦う。弓組はそのままだが、槍組は弓組と混ざって石を投げ、槍合わせの際には突出してくる騎馬武者に石を投げつけるのだ。指示をするまで槍を取るな」

「おう」「へい」

 血の気が多い者、鷹揚とした若者など、様々な顔ぶれがいる。あらためて六輔の配下を並べると、くつわ取りの三太に、六輔の護衛をする組下三人、槍足軽十一人、弓足軽八人の計二十三人である。それぞれ槍や弓を持ち、腰に石の詰まった袋をぶらさげている。

 ほどなくして、太鼓の音が富士川の狭隘の地に響き、ほら貝の音が続いた。

 六輔が騎乗して岡部左京進親綱の陣屋のほうを見ると、左京進も騎乗しており、ちらりと目が合った。

「……」

「……」

 二人の間に言葉はなかったが、沈黙のままうなずきあい、互いに励もうという意志を交換した。

「よし! あらかじめ伝えていた通りに散らばれ!」

「はっ!」「おう!」

 岡部左京進の部隊は千人近い大所帯で、先備えだけでも二十組以上はある。六輔は足軽たちを二人か三人ずつに分けて備えにひとつずつ配置させてもらった。

 ドドォン……ドドォン……と、力強い掛かり太鼓の音が遥か遠くから聞こえた。本陣にいる総大将、今川駿河守氏輝からの進軍命令が最前線のここにまで届いているのだ。本陣の正確な位置は下っ端である六輔は知らされていないが、すぐ間にいる中軍の部隊が同じ音を打ち、岡部左京進の陣でも掛かり太鼓が打ち鳴らされる。

 その間に六輔配下の足軽たちは各所に散らばっていた。六輔も三太にくつわを取らせて、気心が知れている組下三人を従えて前線の備えに合流する。

「斉藤殿! 助太刀致す!」

「井戸殿! よく来られた!」

 岡部左京進がすぐ後ろにいる最前線かつ最先端に位置する中央の先駆け部隊の備え頭、斉藤権六綱吉に挨拶すると六輔はまず弓を番えた。

 それを見て、武辺者の斉藤権六も馬上で大弓を取った。

「井戸殿、弓争いをいたそう!」

「はっ!」

 斉藤権六は五十を超えて白髪も多い年配だが、主の左京進と同じように六輔の巨躯を一目見て気に入ったらしい。本来、他家の者が陣中に入ることは良く思われないのだが、左京進と共に前線を預かる権六が気持ちよく請け負ってくれた為、スムーズに隊に入ることができた。

 恩を返そう。

 単純な六輔は惣面の奥でそう呟いた。

 斉藤権六も年ながらなかなかの体躯で六輔と馬を並べて駆ける。ほどなくして身延の開けた平原地帯に出て、掻盾を並べた武田軍の将兵が見えてきた。

 斉藤権六が馬上から大音声を張り上げた。

「駿河今川家、岡部左京進が家臣、斉藤権六! 問答は無用! 矢合わせをいたぁす!」

 先備えの雑兵たちが掻盾を並べるのを確認して、権六は馬の横腹を見せて大仰に騎射の姿勢をとった。

 その姿を見て、味方は射手が並んで矢を番える。まずは口合戦のつもりでいた敵方は慌てて弓足軽を呼ぶ。

「放てぇぇぇ!」

 ひゅるるるるるるる……

 斉藤権六の第一矢は鏑矢で、鋭い風切り音を鳴らす。今川方の射手が一斉射撃をするのと、戦闘開始を告げるほら貝が吹かれるのはほぼ同時だった。

 一瞬、武田家の兵士が皆、掻盾の向こうに消えて誰もいなくなった。口合戦のつもりでいた為、口達者な者が先頭に立っていたのだ。慌てて出てきた弓足軽がようやく矢を番えた時、岡部隊の第二射が放たれた。

「むん」

 井戸六輔も大弓を引き絞って狙いを定める。狙いは当然、敵方の弓足軽だが、狙い通りに的中することはまずないので、目安をつけたらすぐに射放つ。

 カァンッ! という音が聞こえてきそうなくらい、見事に掻盾に突き刺さった。

「次はわしが」

 と、言って、斉藤権六が射放つ。皮肉にも、六輔が狙った弓足軽の胸を貫いた。

「はははっ! あたったぞ!」

「お見事でござる」

 自分でも信じられないという風に指差して大笑いする斉藤権六を六輔は素直に賞賛した。空を仰げば今川軍の矢が多く、武田軍からの矢は少ない。急襲が功を奏したのだろう。

 今ごろ武田軍は、

「卑怯者! いきなり矢を射るとは!」

 などと罵っているだろう。もちろんそれは武田側の言い分で、今川側からすれば卑怯なのは国境を侵略するようになった武田軍である。今までの鬱憤を晴らすかのように矢を放ち、掻盾を担いで備えを押し上げていく。

「槍合わせでござる! 前で、前へぇ!」

 斉藤権六が声を張り上げて宣言する。そこへ後方から旗印を差した伝令がやってきた。

「なんと、殿が!」

 既に合戦場は喧騒に包まれて伝令の声は聞こえづらかったが、斉藤権六がまるごと代弁した。

 今までよりさらに大きな声量で、

「皆の者! 殿がお出でになられる! この機を逃すな! 励め、励めぇ!」

 この場合、殿とは、駿河の大殿、今川駿河守氏輝ではなく、この陣の主、岡部左京進親綱である。部将は、味方の有利不利を察してから前線に出てくるのだが、この斉藤権六の備えが最も旗色良しと選んで出てくるのだ。すなわち、権六の働きが一番と認められたことになる。

 すぐに馬を駆って岡部左京進が姿を現した。

「ご苦労、そのまま攻撃を続けてください」

 馬上での非礼を捨て置かれたのは、まさしくこれから槍合わせが始まるからである。居並ぶ槍足軽たちは左京進の姿を見て大きな鬨の声をあげる。彼らは奮戦して備え頭の斉藤権六に認められれば褒賞を得られるが、さらに上に立つ岡部左京進に認められればさらに大きな褒賞をいただけるかもしれない。こうして士気を上げる為に左京進は前線に出てきたのだ。

「六輔殿、頼みますよ」

「は、はっ!」

 にっこりと微笑まれて六輔はむしろ緊張した。

(地獄の仏――まさに閻魔様か)

 六輔は馬を下りた。腰に下げている袋から投石用の石を取り出して、固く握り締めた。

 槍合わせの時、足軽大将や備え頭は騎馬武者として全体を監督し、馬上から追っ付け槍を打ち据えて槍衾を崩す手助けをする。特に天下一と名高い甲州の騎馬隊はひとつの備えに何人もの騎馬武者を配置して、連鎖的に突き崩すのである。

 今しも、槍合わせに備えて両軍の槍足軽と騎馬武者が集合して前進を始めたところだ。精鋭といわれる岡部左京進の部隊でも槍足軽二十人につき騎馬武者一人といったところだが、武田軍は槍足軽二十人につき騎馬武者が三人はいる。備え頭が多いのではなく、備え頭の直属兵――六輔でいうなら三太――にも馬があてがわれているのだ。

 だから強い。体高差により上半身ひとつ分は高い位置から振り下ろされる槍の威力はすさまじい。非力な足軽などはそれだけで昏倒してしまう。舌を噛んでしまうこともある。単純な計算で今川軍の騎馬武者一人が足軽一人を除く間に、武田軍は三人の騎馬武者が三人の足軽を排除しているのだ。槍の叩き合いが収束して乱取りとなっても、馬を下りないまま馬上槍で戦い続けるほどの巧者もいる。

「その為の俺たちだ」

 三太にくつわを持たせて、六輔は三人の組下と共に槍足軽たちの後ろについていく。

 槍の叩き合いとなると、それまで弓で射ち合っていた者たちも下がり、投石兵となる。手ぬぐいで石を包んで放り投げ、味方の上を通り越して敵の足軽に当てる役割だ。

 しかし、六輔たちは違った。六輔たちは素手で直接、まっすぐに騎馬武者を狙うことにしていた。

 槍足軽たちが接近する。横一列に並んで互いの槍がぶつかる距離になると、

「えい!」

「おう!」

「えい!」

「おう!」

 と、息を合わせて槍を振り下ろす。

 槍合わせが始まれば、互いに部将同士の顔も見えるほどに近づく。

「岡部左京進!」

 備え頭と思わしき騎馬武者の一人が大声で呼びかけてくる。

「甲州工藤下総守が家臣、小野田豊三郎である! いざであえ!」

 それに追従して槍足軽の掛け声も変わる。

「であえ! であえ!」

「であえ! であえ!」

 岡部左京進は馬上で槍を持ってはいるものの、その腕を水平に上げているだけで、じっとしている。気安く一騎打ちなどには応じないというどっしりした構えだ。

 その間で、加勢に出る機を伺っている騎馬武者に、

「いくぞ、まずは俺からだ」

「おう!」

 と、六輔たちはにじり寄り、

「むん」

 石を投げつける。特に六輔は身体が大きければ手も大きい。子どもの頭ほどもある岩とも言えそうな石をまっすぐに投げつける。

「怖気づいたか左京進! 卑怯者のついでに臆病者――うおぉっ!」

 動かずに挑発を聞き入れている左京進に対して、調子付いて罵倒を重ねる小野田某であったが、突如視界に迫ってきた岩石にのけぞり返ってしまった。

「それっ、いまだ!」

 最初の一石を投じた六輔に続いて、三人の組下がいっせいに石を投げ始めた。

「ぬおっ! おのれっ、卑怯者めが!」

 その主な狙いは馬だ。六輔の投石に驚いた小野田某は、石をぶつけられた馬が暴れて、訳もわからないまま地面に振り落とされた。

「よしっ、次だ」

 すぐに六輔は馬にくくっている袋から大きな石を掴んで、左足を踏み出すだけのノーモーションで投擲した。

 びゅうっ、と鈍い風の音がする。これは狙った相手の反応が遅れて直撃した。続けて三人の組下が投げた石が馬に当たり、先の小野田と同じように落馬した。

「お見事」

 篤実な声は岡部左京進のものだった。彼はすかさず槍を振って号令した。

「突撃! 押し太鼓鳴らせ!」

 打って変わったように岡部左京進の語調が強くなった。力士のような体格と野太い声にはこちらのほうが似合っている。本来の剛勇を見せ付けるように腕を挙げ、槍を掲げて号令を発し、どどどっ、どどどっ、と叩かれる太鼓の音を背に馬を走らせる。

 三太を呼んで再び馬上の人となった六輔は乱取りとなった戦場を俯瞰した。

「勝ち戦、だな」

 安堵して六輔は長槍を握りなおした。合戦は富士川に沿って北と南に分かれて繰り広げられていたが、見る限りでは今川勢が押している。中でも六輔のいる場所は戦場の中心地となり、部隊は全体の鋭鋒となって精強な武田軍を切り崩している。

 あの騎馬武者はなんと言っていたか――甲州の工藤某の家来で小野田某だったか、六輔は工藤という名前を岡部左京進から教わっていたことを思い出した。武田左京太夫信虎の重臣の一人で、精強な騎馬軍団のひとつを任されている。その部隊から今まさに勝利を掴もうとしている。戦略においては意趣返しの急襲戦法をとり、槍合わせでは六輔たちの投石が利いて騎馬武者の機先を奪った。

「ゆくぞ、三太」

「へぇ!」

 事ここに至って、三太も力強く応えた。

 岡部左京進、斉藤権六は既に五十歩も前に出て押しまくっている。左京進は騎乗して指揮を執っているが、権六は下馬して乱取りに加わっている。

 武田軍は投石で落馬させた小野田某が、地面に立ったまま足軽たちを刺して戦線を維持しようと気張っている。

 六輔は馬を走らせて岡部左京進の横に並ぶと、

「井戸六輔薫長である! であえ、であえぃ!」

 多少わざとらしく吼えながら下馬して、乱取りに加わった。

 武田軍は半ば壊走状態であった。今川軍――というより岡部隊はまだ統制されており、血しぶきと絶叫が舞い飛ぶ狂乱の大地で前後に隊列をつくり、前の者が組み付くのを後ろの者が長槍で叩き伏せて援護していた。両軍の間に隙間が出来ればすぐさま前後を交代して、甲州兵の首や耳や腕を思うがままに刈り取っていく。

 六輔もその一員となり、惣面の巨躯を震わせて甲州兵を威圧しまくった。

「井戸六輔である! 死にたくばかかってこい!」

 既に及び腰となっている百姓足軽が六尺の荒武者にかかってくるはずがない。無人の野を往くが如く六輔は前進し、長槍を振って背中を向けている甲州兵を叩きのめす。

 六人目の足軽の肩の骨を砕いた時、潰された豚のような声をあげて、何者かが六輔に突進してきた。

「小野田豊三郎! 万死に値する恥辱! 今晴らさん!」

 六輔に落馬させられた騎馬武者であった。槍を持っておらず、太刀で襲い掛かってきた。

「むん!」

 咄嗟に長槍の柄で受け止めた。しかし敵手の打ち込みは想定より軽かった。

「ぬぅっ!」

 唸った時には、小野田豊三郎は太刀を引いており、今度は全力で打ち込んできた。虚を突かれた六輔は緊張して長槍に余分な力を与えてしまい、パンッ、と乾いた音と共に長槍の柄を叩き割られてしまった。

 熱い感触が胸にじんわりと滲んだ。振り切られた太刀の刃先が胸当てと胴までわずかに裂いて、六輔の肉体にまで届いていた。まさしく渾身の一撃だ。

「どぉっ!」

 思わず後退した六輔に、すかさず小野田某は太刀を水平にして突きを繰り出してくる。六輔はみっともなくてもいいとばかりに身体を揺らして、具足の隙間にねじ込もうとする切っ先から逃れた。

 六輔は右手に持っていた長槍の柄を前に放った。それで敵がひるむわけもないが、わずかな時間を得て太刀を抜くことができた。

 二人は対峙した。偶然だが、すぐ近くで倒された足軽が二人の間に倒れてきた。二回ほど呼吸を入れた。

「いざ!」と、六輔が前に出ようとした瞬間、ほら貝の音が鳴り響いた。

「無念!」

 ほら貝は前方から聞こえており、どうやら退き貝の音らしい。舌打ちした敵将が脱兎の如く逃げ出した。

「むぅ……」

 肩透かしを喰らったようで、六輔はその場に立ち尽くしてしまい、小野田某の背中を見送ることとなった。

 どこからか岡部左京進の大音声が轟いた。

「追い首だ! 討て、討てぃ!」

 勝敗が決した。合戦は追討戦に移行する。それまで後方に控えていた弓足軽が一斉に前に出て、逃げる甲州兵の背中を射る。傷を負って満足に走れない百姓足軽に何人もが覆いかぶさり、刀を突き刺しては引きちぎるように首を奪う。なかには首を取った味方を背後から刺して首を盗む者もいる。

「旦那様ぁ、よろしいずら」

 いまだぼけっと突っ立ったままだった六輔に三太が声をかけてきた。

「あ、あぁ……うむ」

 曖昧な返事をする。生来の気性が朴訥としたものである六輔は、こうして出遅れると後に続きづらいのだ。合戦の最中であれば昂奮して血や臓物のおぞましさも捨ててしまえるのだが、いま六輔の眼に映っているのは一方的な虐殺だ。もちろん、勝敗が逆転すれば六輔たちが追われる側となるし、大将の執拗さからいって必要以上の惨劇が繰り広げられることとなる。想像するほどに胸の傷がじくじくと熱をもって疼く。

 三太に用意させた馬に跨って六輔は追討戦の軌跡をゆっくりと追いかけた。旗指物や掻盾、弓矢、土嚢と、それら以上の数の破損した人体が不愉快な悪臭を発して散乱していた。太刀や槍といった、金属を含む――売って銭になる――ものは剥ぎ取られていて残っていない。

「三太、ここに討ち捨てられていった者たちが、どうなるか知っているか」

「いえ、知らねぇずら」

「合戦が終わった後、それぞれ領地の者が拾い戻して、名主を通して故郷に送られるのが慣わしだ。しかしだな」

 できる限り、死者の臍を踏まぬように六輔は馬を歩かせている。

「合戦が終わるのはいつなのか、それははっきりとはせぬ。その間、ここはそのままだ。その間に、野犬や猪が死肉を漁る。時には人間も混ざる。そして骨だけになると、その骨を砕いて畑に撒くのだ」

「こっぷん、ずら。いやだなぁ」

 三太が眉をひそめる。土壌肥料の骨粉は老いた豚や牛を屠った後の骨を用いて作っていると三太は思っているが、二俣の地で使っている骨粉も大半は浜名湖周辺の市場から仕入れている。その仕入れ元はやはり戦場跡なのだろう。

 ただ気分の悪くなる話なので、わざわざ真実を教えることもないと思って六輔は黙った。

 しばらくして、今川方の退き貝が吹かれて、追討戦の終了が告げられた。

 六輔は馬首を返して陣に戻る途中、岡部左京進と出会ったので、惣面を外して挨拶をした。

「首尾よくいきまして、なによりでございます」

「こちらこそ、どうもありがとうございます」

 あの突撃の号令を発した時の激しい調子はどこにもなく、篤実な人格者として六輔の働きを称揚した。

「騎馬隊の突入を井戸殿の投石が食い止めていたのを見ていましたよ。おかげさまで私も兵を動かしやすくなりました」

「それは、なによりでございます」

 実を言うと六輔は合戦に貢献したという実感が希薄だった。あまり好ましいことではないが、実際に組み打って敵兵を刺す感触がないことには、手応えがないのは当然だろう。

 馬上の六輔を見つけた配下の足軽たちがぞろぞろと集まってきた。首を取れた者は首を持っている。取れなかった者は少しでも持って帰ろうと武具を抱えている。

 戦争は始まったばかりで、この辺り一帯から武田軍を追い払ったとしても、すぐ占領下になる訳ではない。旧くから身延の土地を支配していた国人衆はあちこちに砦を築いており、武田左京太夫信虎も、そのうちのどれかに居座って戦況を眺めていただろう。今回の合戦の目的は左京信虎が富士川を渡って駿河の地の収穫を強奪していくのを防ぐことだ。このまま甲斐国の入り口にあたる身延で戦線を維持し続けることが出来て、ようやくこの戦争に勝ったと言えるのだ。

 まだ夏の盛りで、収穫まで二ヶ月はかかるが、今川軍は初戦において完勝ともいえる大利を得た。太守氏輝の武威を示したことにより、左京信虎に面従腹背していた国人衆から離反者を出すことが出来るだろう。

 今後は守りを固めて周囲の調略を行う。その為に、今川軍は勝利した土地を放棄して、一度陣地に戻っていった。

 その行動の全てが、左京信虎の案の内だと知らずに。

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