第8話


 梅雨明けの頃に陣地を設営した今川軍だったが、それは中継地点としての意味合いが強く、月が変わると国境を越えて進軍を始めた。

 今川家と武田家の間では、現当主の今川駿河守氏輝の家督継承を気に和睦して数年が経つが、二年前から武田左京太夫信虎のほうから一方的に侵入して作物を略奪されて、後付けで言い訳されていた。

 若い今川家当主は辛抱強く交渉と抵抗を重ねたが、左京信虎を付け上がらせるだけだった。

 天文四年、伊勢氏から北条氏に名乗りを替えた相模の名君、北条左京太夫氏綱と共謀して、相駿の境目から武田を追い出そうと決定したのである。

 収穫期を前に同時侵攻してそれぞれ甲斐の身延、都留まで進み、両地の収穫を妨げて左京信虎の懐を寒がらせようという企てだった。

「北条殿に送った使者が戻ってこないのだ」

 万沢口を超えて身延山のふもとに陣地を築き、全部将を召集して開かれた軍議で、今川駿河守氏輝が伝えた。崩落の不安をどうにか抑えているという表情で、さらに付け加えた。

「北条殿からも、使者が届かぬ。今は、伊豆越しに別路で使者を送っているのだが、その返事もいつになるかわからぬ」

 軍議の席は、総大将の今川駿河守氏輝を主座として、陣幕の中央に長机を置いて、それを各部将が囲む形となっている。長机には富士山を中心に西は蒲原、北は甲南、東は簡略にしつつも箱根までが描かれた絵地図が敷かれ、各拠点に駒が置かれている。

 遠江国二俣城主、松井左衛門佐宗信は、右席の四番目に座っている。その後ろには外叔父の主計宗保が補佐役として立っている。陣幕には二十一人の部将が同じように補佐役を連れて、太守氏輝の近習の者を含めて五十人近くが詰めている。幕内の間取りは広く、窮屈というほどではないが、十日以上の軍旅を続けてきたむさ苦しい熱気は最年少の八郎宗信に多大なストレスを与えていた。たまらず手元の手杯から水を飲むと、後ろの主計宗保に小突かれる。

 蒲原と駿府の間に領地を持つ庵原兄弟して有名な庵原将監忠縁が絵地図に指を置き、富士川の流域を遡るようになぞって発言した。

「甲州兵の物見と思われる者共を発見しております。川を上って調べたところ、十人中六人は戻ってまいりませぬ。残りの四人も何も探りとってこれぬまま乱波に見つかり戻ってきたという有様です」

「富士川より向こう側は、甲州乱波の巣窟となっているということか」

 太守氏輝の相談役として上座に立っている朝比奈備中守泰能の鉄錆びたような声に庵原将はうなずく。

「当方も忍びの者を雇い入れてはおりますが、いまだ北条殿からもつなぎが無しということは、そういうことかと」

「いかがなものか、敵も味方も位置がわからぬ。うかつに動けぬのではないか」

「いえ、そのようなことはありませぬぞ、備中殿」

 やわらかくも重々しい声質で進み出たのは、顔も体も声も野太い初老の部将だった。岡部左京進親綱という。今川軍の先手役を務める勇将はこれまた太い指を地図に埋め込むようにして押し当て、温厚な神職が祝辞を言い渡すかのような口調で侵攻計画を提案する。

「これほど乱波を働かせて我らと相模の連携を邪魔するということは、武田左京が苦しんでおることの裏返しです。我らは万を超す大軍を引き連れております。北条殿も同じだけ連れてくると聞いております。大軍同士が近づけば乱波がいようとも必ず気配が伝わるというもの。まして相模の北条左京殿は早雲翁に劣らぬ名将にございます。必ずや軍を前進させておりましょう。その時に我らが撤退していたとあっては、死よりも恥ずべきことにございます。お父上に、尼御台様に顔向けできませぬぞ」

 早雲翁とは伊勢宗瑞――北条早雲のことである。先代の駿河守氏親を補佐して伊豆、相模を切り取った稀代の謀将を父に持つ北条左京太夫氏綱は、喪われた鎌倉府を再建させようと関東諸国と戦い続けている歴戦の強者だった。太守氏輝は甲斐だけではなく、相模の当主にも器量を見られているのだ。

 岡部左京進の野太い弁舌は静かながらも勇気に溢れており、また政略的も有力なものであった。なかでもまじめな青年当主に強く響いたのは父と母の名前であった。

「そうか、父上も母上も見ておられる。忍びの者がいようとも大軍で近づけば恐れるものはない。左京進の言や良し。我々はこのまま前進を続けよう」

 太守氏輝は、具足で覆った膝を叩いて明るい声を出した。

 総大将が意を決した為、軍議は長引くことはなかった。いくつかの複案と対案が出され、正攻法による全軍前進という基本方針に細かい修正が加えられる。

 ふと、太守氏輝が八郎宗信に声をかけた。

「左衛門佐、そちはなにか意見があるか」

 若年ということもあり、それまで八郎は発言する機会を掴めずにいた。八郎自身は手柄を求めている為、岡部左京進の案に賛成だが、そこに付け加えられるものは思いつかなかった。

「それがしも前進すべきと存じます。これまでの軍議で語られましたように、こたびの戦は武田の侵略から守る戦いではありませぬ。武田を侵略する戦いでございます。予定通り、あそこに見えます身延山から兵を進めてあらためて北条殿に使者を送りましょう。また、当初に話させていただきました通り、我が隊は二十人ずつ、組に分けさせてもらい、各隊に投石部隊としてひそませていただきたく存じます」

 肝心の投石部隊の配置の許しを得る以外は何人かの意見を後押しするだけの発言にとどまった。おそらく太守氏輝は気を遣ってくれたのだろうが、これでは軍議に参加した意味がない――有力な発言をすれば諸将に影響を与え、当主への印象も良くなる――が、岡部左京進のあの熱弁の後では何を言っても霞んでしまうだろう。

「そうか。うん、他の者たちももう意見はないようだな」

 ぐるりと主君が列席の部将を見回し、大きくうなずいて朝比奈備中守から采を受け取る。

「これよりは全軍一丸となって前進する! 武田左京と一戦を遂げ、駿河に今川家ありと知らしめるがいい!」

「おぉっ!」

「えい、えい、おぉ!」

「えい、えい、おぉ!」

 太守氏輝の振った采に従って、部将たちが鬨をあげる。八郎宗信も負けじと腕をあげて叫んでいた。

 解散となり、主君の陣幕を出ると、岡部左京進親綱に肩を叩かれた。

「ご健勝かな、左衛門佐殿」

「これは岡部殿」

 今川家を代表する勇将は謙虚で信心深く温厚な性格だが、四、五十の年齢にも関わらず筋骨は衰え知らずで今も先陣に立ち続けている。槍を持てば鬼神の如く面構えを変えて敵中に飛び込んでいくという。

 年功共に遥か上に立つ岡部左京進には、あの厳しい松井主計宗保もしずしずと頭を下げる。

「お久しぶりでございます、左京進殿」

「おぉ、松井主計殿もご健勝なようでなによりです」

 旧来の重い兜の下で朗らかな笑みをつくる岡部左京進に八郎が訊ねる。

「おかがなされましたか、岡部殿。なにかご用でしょうか」

「先ほどの軍議での話しですよ。松井殿はこのたび投石部隊を各隊に派遣されるとのことでしたな」

「左様です。これから皆様の下へお送りするところです」

「それですが、どうか我が隊には一番よいのを送ってほしいのですよ」

「一番よいのを、ですか」

 八郎は意外げな表情をつくった。駿河一とも言える名将の岡部左京進である。部隊も当然精鋭揃いだ。むしろ松井家の者など足手まといになると思っていた。

「いつもどおり、我が隊は先陣を仰せつかっております。そうなれば当然、左京太夫も精鋭を投入してくることでしょう。あの騎馬の足をすこしでも止められるのならばと、期待しているのですよ」

「そういうことでしたら、よろしいでしょう。ちょうどよいのがおりますぞ」

「叔父上っ」

 いきなり割り入ってきた主計宗保に八郎が抗議の声をあげる。しかしかまわずに主計は喋り散らしている。

「井戸六輔という、まだ若いですが身体は左京進殿より大きい。槍を持たせれば無双の豪傑、今弁慶などと言われており申す。投石の腕も確かにございますれば、必ずや左京進殿のお役に立つことでしょう」

「ほう、そのような者がいるのですか」

 豪傑と聞いて左京進は興味をもったようだ。

「それはすばらしい。ぜひとも我が隊にお迎えしたい。左衛門佐殿、よろしくお頼みいたします」

 篤実そのものといった態度で左京進は低頭した。先鋒の重臣にかしこまった態度をとられては、八郎ももはや断ることはできなかった。隣りの主計宗保の満足そうな顔に内心で舌打ちしつつ、

「かしこまりましてございます。井戸六輔は私の懐刀。私自身と思うて岡部殿にお預けしましょう」

「ありがとうございます、左衛門佐殿」

 丁寧に礼を言って、岡部左京進は去っていった。

 それをしっかりと見送ってから、八郎は隣りの外叔父を睨みつけた。

「叔父上、あまり勝手なことは言わないでいただきたい」

「勝手なことだと」

 どこ吹く風とおうむ返しにする主計宗保に余計に苛立って抗議する。

「六輔にも役目があり申す。本来であれば岡部殿の下に送るには身分違いもはなはだしい」

「バカモノが!」「左京進はこたびの作戦の立役者ぞ。当然、殿の覚えもめでたい。その左京進に働きを認められれば手柄となろう。これを利用せぬ手はあるまい」

 ならばあなたが行かれればよかろう――ぐっ、と喉まで出かかった言葉を呑み込んだ八郎を、主計は心底から見下すように訊ねる。

「八郎、貴様まさか六輔を、配下を死地に送るのが嫌だと思うておるのか」

「そんなことはござらぬ」

「よかろう。時には部下に死兵を命ずるも、大将たる者の務めであるぞ」

「……よく、わかり申した」

 八郎は低頭した。そうするしかなかった。

 今はまだ、我慢の時なのだ――ここ数年何度も刻んできた言葉を今また噛み締めた。主計宗保に頼らない武功を挙げ、可能であれば追放して、二俣の城主として二本足で立つ。今度こそは足がかりをつくるのだ。

 その目的に、主計宗保の言うことは間違っていなかった。当人としては八郎と六輔と為五郎がつるむのが嫌なのだろうが、手柄を得る為に六輔を前線に送ろうとは思っていたのだ。ただそれは岡部左京進がいる激戦区ではなかった。

「あるいは……」

 遠ざかった外叔父の背中を見て、独りごちた。

 主計宗保は八郎の胸の内を知っていて、六輔を前線に送ろうと考えたのではないか。六輔が死ねばいいなどと考えているのではないか。

「詭弁だ」

 時には部下に死兵を命ずる――そう言った主計宗保は死を命じているのではない。主計宗保は六輔を殺そうと考えている。邪魔だと思えるなら、殺してしまったほうが良い。しかも自分が手を下さずに済むのなら、なおさらだ。

「俺もたいして変わらぬ」

 手柄が欲しくて、六輔を前線に立たせようと考えたのは事実だ。全て己の願望に過ぎない。

「六輔、すまん」

 それで償えるはずもない、らちもない文句で若い城主は一人空に詫びた。

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