第7話 富士吉田の合戦


 富士吉田の戦い


 富士吉田の戦い。

 山中の戦い。

 万沢口の戦い。

 天文四年に起こった駿河今川氏、相模北条氏、甲斐武田氏の三者の合戦はそう呼ばれている。正確には山中、万沢口での二つの合戦を通じて富士吉田をめぐる合戦とされている。

 富士山を中心に北側に吉田、南側に富士宮があり、富士宮の東西にそれぞれ山中と万沢口がある。

 遠江国二俣城の城主、松井左衛門佐宗信――八郎宗信が領内の配下から二百人ほどを招集して従軍したのは、今川方の主戦場である万沢口の戦いである。駿河の東の口と言える蒲原城から富士川に北上すると見つかる盆地であり、甲斐国とは一直線でつながっている。

 真夏の暑い盛りである。六輔の妻、おしのが起こした辻斬り事件からまだ二十日も経っていない。

「遠江国二俣、松井左衛門佐宗信、着到致しました」

「大儀である」

 参陣の挨拶に応えた今川駿河守氏輝――彼もまた、八郎宗信と同じく年若い当主であった。当年二十二、三歳。八郎宗信とは二歳しか離れていないが、その表情には大きな違いがあった。

「左衛門佐、年の近いそちを、われは頼りにしておる。われをたすけてくれるな」

 それはねぎらいというより懇願に近かった。もともと青白い貴種の面差しが、恐怖でいっそうの白さを増していた。

(血が通っていないのではないか)

 八郎宗信の脇から仰ぎ見た井戸六輔薫長でさえ、身分差による畏れよりも憐れみの気持ちが上回っていた。

 太守氏輝にとって、合戦は忌避すべき行事でしかない。

 今川氏は代々東海道を治める武門の誉れ高い家柄であり、前当主氏親も叔父の伊勢新九朗――北条早雲――に庇護され、鍛え上げられた勇将であったが、嫡男にその気質が受け継がれたとは言い難い。顔の輪郭はやや細く、頬下は丸みを帯びており、あきらかに母方――中御門家の血が色濃く出ている。加えて若年期は病気がちであった為、内向的な性格となっていた。

 生来を不安視された嫡男――今川五郎にとって幸いだったのは、尊敬すべき父、氏親と最愛の母、寿桂尼の夫婦仲が他国に比類ないほど良好だったことだろう。病気がちで争いごとを避ける五郎だったが、嫡男という地位にかかる責任から逃れることはせず、両親の良い手本をしっかりと学んで今川家当主としての成長を周囲に印象付けている。

 氏親が制定した仮名目録をよく読み、裁判を取り仕切って見地を行う一方で、新当主の力量を量ろうと探りかけてくる国人衆には毅然と振舞っていた。

 しかしそれはあくまでも駿河今川氏という大国の上に立っているからこそ支えられている姿勢であった。

「駿河の若造は、病み上がりで心弱し」

 北方の隣国、甲斐武田氏の当主、武田左京太夫信虎は新当主の気性を洞察すると、代替わりで一時的に結んだ協約など気兼ねすることなくに国境を侵略した。田畑の収穫の前に現れて百姓を攫い、自国の足軽を置いて居座り続けて稲穂の収穫までしていこうという大胆さだった。威圧や挑発も飛び越えて、最初から舐めてかかっている戦略だ。

 左京信虎の攻勢に太守氏輝は応えなければならなかった。当主としての威厳を見せなければ国人衆が離れていってしまうからだ。

 そうして誘き出された今川の軍勢を左京信虎は存分に痛めつけた。決定的な敗北とは言わないまでも、甲州兵を追い払うことができず、収穫を奪い取られてしまった。

 侵略される国境付近は富士川という豊かな水源を持ち、二毛作が可能な良地だった。その為、太守氏輝は蒲原城の庵原氏に言い付けて新たに敬語の兵を派遣して、防備を固めた。以後、収穫の時期が近づくと武田はこの地を窺い、今川は警戒するようになる。大規模な戦闘こそ起こっていないものの、青田刈りや焼き払いによって収穫を妨げられた。ひどい時には一畦の耕地に住まう百姓を一夜の内に皆殺しにして、入れ替わっていたこともあった。

「要するに武田左京はけちなのだ」

「けちな上に残忍だ。遠征の糧費だけでも賄う為に、百姓を殺して野ざらしにし、その腐肉を漁りに来た獣でさえ捕らえて食うという」

 駿河での左京信虎の評判は右の通りである。

 しかし、甲州兵を前に手も足も出なかった今川軍である。いくら口で悪し様に罵ろうとも、首筋の冷たい汗は拭いきれない。

 武田左京太夫信虎の合戦は、屈強な騎馬武者に率いられた俊足の掻盾隊が、一気に距離を詰めて機先を奪い取ることに上手さがある。ひとたび攻勢に出れば苛烈を極め、斬られても息のある者は連れていかれて奴隷にされる。それゆえ今川勢は不利になると奴隷にされたくないと思って逃散してしまう。一気呵成の突撃を受けて一族を失った国人衆も数多くいるのだ。そのたびに総領の太守氏輝が詫び状を出すことになる。それが三年目ともなれば、気が重くなり、顔が青ざめていくのも仕方ないことだ。

 今度の合戦は、その悪循環を断ってしまおうと、あえてこちらから先に打って出て、甲州勢の動きを封じ込めてしまおうと相模の北条氏から持ちかけられた策戦なのだった。その為に遠江方面の重鎮である松井氏にまで召集のお触れを出し、二ヶ国一万人を超える大軍を集めているのだ。

(栴岳承芳様の言うとおり、武田との合戦は避けるべきなのかもしれぬ)

 六輔が知己となったばかりの貴公子のことを思い出している間、左衛門佐こと松井五郎八郎宗信は甲冑越しの胸板を叩いて当主を元気付けていた。

「ご安心ください。武田の一党ごとき、我ら二俣衆が叩き伏せて御覧にいれます」

「う、うむ……よろしく頼むぞ、左衛門佐」

「ははっ!」

「ところで松井殿」

 鉄錆びたような声が太守氏輝の傍に立っている腹の太い人物から発せられた。朝比奈備中守泰能という今川家の宿老である。年齢は四十を超えて、部将として成熟期にあり、太守からの信頼も厚い。

 今川氏は前当主氏親の代に起こった内乱により、重臣の一族が減少していたが、それ以後に二大宿老として常に上席を与えられているのが朝比奈氏と三浦氏である。他に一門衆にあたる関口氏や瀬名氏もあるが、それを除いて今川仮名目録で直接席次を与えるほど、両氏を重要視していたのだろう。

 ちなみに、三浦氏である三浦左馬介義就は今回、駿府にいて留守を預かっている。

「こたびの参陣、松井殿が率いてこられたのは二百ほどと伺っておりますが、まことにございましょうや」

「はっ、その通りにございます」

「少ないのではないのか、五百は連れてこられると思っておりましたが」

 でっぷりと肉のついた顎をなでて、備中泰能が疑惑の念と共に問いただしてくる。

 しかし、八郎宗信の返答は落ち着いたものだった。

「は、当方もそのつもりでしたが、栴岳承芳様よりのご要望があった次第であります」

 この答えに反応したのは、厳しめの諮問に少し所在なさげにしていた太守氏輝だった。

「なに、弟が」

 先日再会したばかりの兄弟の名が話題に出ることが意外だったらしく、興味半分不安半分といった表情で八郎宗信に続きを促した。

 この召集に先立って今川氏直系の五男、栴岳承芳が京の建仁寺から下向して駿河の今川館に入り、三河方面への守りを固める為に遠江に戻ってきた。

 この報せを受けた八郎宗信は、先日の礼をしようと六輔と共に天竜川を下って栴岳承芳に挨拶をした。

 承芳は以前と変わらず、ゆったりと香気を放ちながら微笑んだ。

「そなたも、まだ若いのに大変であるな」

 その隣りにはやはり太原崇孚雪斎が穏やかでも隙のない眼差しをしていた。

「六輔、しの殿は健やかであるか」

 肘掛けに頬杖をついた姿勢で訊ねられ、八郎宗信の後ろにいた六輔は六尺近い体躯を丸く折り曲げて応える。

「はい。すべて承芳様のお言いつけどおりでございました。ただいまは寺に預け、静かに時を過ごしております」

「大事ないか」

「はい。ありがたきお心遣い、感謝致します」

「ふ……大切にしてやることだ。ところで左衛門佐」

「はっ」

「こたびの出兵、そなたはどれほどの兵を集めるつもりか」

「はっ、五百ほどを予定しております」

「半分でよいぞ」

 この言葉に驚いて六輔は顔を上げてしまった。八郎宗信も同じようにして、栴岳承芳の微笑みを唖然として見ていた。

「あの、半分でよいとは……」

「予が不安ゆえ、遠江の守りを残しておきたい」

 その返答だけを八郎宗信は太守氏輝に伝えた。

「そうか、弟が……そうだな、承芳も初陣のようなものか」

 呼び戻して早々に三河方面への前線に立たせている。打って出る必要はないとはいえ、三河統一に邁進している松平が日の出の勢いで攻めてこないとも限らない。

「これは兄として、いたわりが足りなかった。あの承芳も不安であったのか」

「しかし殿、いかにご一族の方とはいえ、勝手に兵を動かすなどされては……」

「よい、備中守。それを咎とするならば、弟の不安もわからなかったわれの不明も咎とするべきだ。われはまだ、遠く父上に及ばぬな」

「そのようなことはございませぬ。殿は武田を打ち倒すべく陣頭に立って指揮をなされております。その勇敢なお姿はまさしく武門の誉れ高い今川家の当主にござります」

 この応酬を低頭して聞きつつ、六輔は栴岳承芳の言ったことの後の言葉を思い出していた。

 承芳はこう付け加えていた。

「予が不安ゆえ、遠江の守りは残しておきたい。そういうことにしておくのだ」

 言われたほうの八郎宗信は当然、うろたえた。

「そ、それは……いや、ありがたきお心遣いなれど……二百程度では太守様のお役に立てませぬ」

「ふ……勝てぬ合戦には、五百も二百も変わりはせぬ。武功もありはしない。ならば被害を抑えてしかるべきではないか」

 承芳の考えは、いかにも草書の公子といった論理に依った考えであった。勝てない合戦はそもそもするべきではない。兵を連れて行く費用もかかるし、死傷者が増えればさらに相乗される。

 しかし、その論こそまさに机上のものだと、下座の二人は思った。

「たとえ勝てぬ合戦でも、なにもせずにいれば、お叱りを受けまする。松井の一党は戦い能わぬと見られては、城を預かることも出来ませぬ」

「ほう……そういうものか」

 まだ十代の公子は感心して頬杖をやめ、膝を軽くさすり、傍らの雪斎を見た。

「やるからには、一所懸命にやらねばならぬということか。不条理なことだな」

「……誠に」

「なにか良い知恵はないかな。無用に人を失うをただ見ているのはしのびない」

「それでしたら、このようなものがよろしいのでは」

 そう言って黒衣の僧侶が差し出したものを、八郎宗信が太守氏輝に見せる。

「我ら二俣衆、寡兵なれど策をもって戦場に臨在させていただきますれば、必ずや太守様のお役に立って御覧にいれます」

「それは……石か」

 覗き込むように身を乗り出した太守氏輝に、はい、と肯定する八郎宗信が持っているのは、ちょうど手のひらに収まる大きさの石であった。

「我が二俣の城はすぐ傍に天竜川が流れております。このように投石に適した石が無数に落ちており、誰もが幼い頃から川に石投げをして遊びますれば、自然と投石の名人となっております。我らは隊を分けて各所に潜みますれば、武田の先鋒となる騎馬武者どもの、その鼻面を叩いて止めることができましょう」

 用意しておいた長台詞を一息に言い切ることができた。そんな幼なじみの主君を見て六輔もまた内心で安堵した。

「それは頼もしい」

 わずかだが、太守氏輝の表情が明るくなった。武田の騎馬武者――それこそが武田軍の象徴であり、つまり今川軍の恐怖の源であるのだ。それを封じることが出来る策ならば、飛びついてでも欲しいものだろう。

「左衛門佐、われが許す。そちの兵はそちの思うがままに配置して、武田の騎馬武者を封じ込めてくれ。よいな、備中守」

「は、ご随意のままに」

 うれしそうに声を弾ませる主君に朝比奈備中守泰能は反論の方法を見出せなかったらしく、慇懃にうなずいた。もとより二百人ばかりの兵では一翼を預けることもできない。今回の遠征には一万人に及ぶ動員をしているのだ。重鎮の城主といえども配下の少ない者に大きな顔はさせられない。

「ところで左衛門佐、今日は為五郎も主計も連れておらぬのだな」

 いくらか表情の明るくなった太守氏輝が訊ねてきた。年の近い八郎宗信とは積極的に雑談に興じたいらしいと、六輔は聞いていた。

「は、ただいまはそれぞれ物見と滞陣の役目がありますゆえ」

「供の者は何者か。勇ましいなりをしているな」

「本日はいくさ場での拝謁ゆえ、我が軍一の剛力無双の者をお目見えいただきたいと思い、お連れいたしたのであります」

 打ち合わせどおりの合図で、六輔はあらためて面を上げた。顔の筋肉を引き締め、くわっと目を開いてまっすぐ太守を見つめている。御前ゆえに惣面は着けていないが、代わりに付け髭をして、物語の荒武者といった風貌を装っている。

「おぉ」

 太守氏輝から歓心のため息がこぼれた。

 六輔はぐっと握り締めた拳を地面に立てて、軽く低頭しつつも太守を見据え、腹から精いっぱいの重低音を発した。

「井戸六輔薫長にござる。我が主、左衛門佐殿の意あらば即座に武田左京の首を抜いて御覧にいれましょう」

 黙っていれば鬼弁慶――その面目躍如といったところだ。

「なんと頼もしい。そちのような剛の者がおるならば、きっと武田勢を追い払えよう」

 それからしばらく六輔は太守氏輝といくらか話をしたが、主君の主君に対して芝居をしているという緊張から、陣幕を出た時には何の話をしていたのかさえ覚えていなかった。

「なんというか、うまく承芳殿に乗せられたように思う」

 本陣を離れてから、八郎宗信がぼやいた。

「同感だ」

 六輔もうなずく。投石から六輔の話まで、すべてが栴岳承芳の台本どおりの内容だった。

「真に恐ろしいのは、承芳殿がおっしゃったことと一字一句違わなかったことだ」

「朝比奈殿が口を出すことさえ同じだった」

 精確に一字一句かとなるとそうではないが、対面してからの質問や話題の転換など、数日前に承芳がデモンストレーションしてみせたことと同じだった。

「今になって思うのだがな、六輔」首筋の冷や汗を拭うような仕草をして、八郎宗信が言う。「俺たちは二百の兵で、五百の兵を連れてくる以上の働きをすることを約束してしまったのではないか」

「俺など、負ける時には本当に弁慶の立往生をしなければならぬかもしれぬ」

「承芳殿め、負け戦の話をしているのに弁慶などを例えにするよう言ったのか」

「くそ、だったら関雲長にしておけばよかった」

「お前が関羽なものかよ。よくて悪来典韋だ」

「どうしても俺をはりねずみにしたいらしいな。逃げる時は関所を破ってでも逃げてやる」

 武芸には自信がある――が、自らしんがりに立って命を捨てたいとは思わない。

 無駄な戦いで死にたくない。その点では栴岳承芳に同意する。とはいえ、あえて言うことではないが、万が一に死に迫って逃げなければならない時は八郎宗信を落ち延びさせることを優先させるぐらいはするだろう。

「為五郎は、まあそう簡単に死ぬとも思えないが」

「ん、為五郎がどうかしたか」

「なんでもない」

 二人が松井家の陣幕に帰っていくと、そこでは八郎宗信の外叔父、松井主計宗保が険しい表情で待っていた。

「八郎、若殿はいかがであったか」

「特に問題なく、着到の挨拶は済ませました」

「ほう、朝比奈殿に小言を言われたと聞いているが」

 逆に聞きたい。あなたはなぜそのことを俺が戻るより先に知っているのか――八郎宗信は喉元を強張らせたが、すぐに呑み込んで別の答えを吐いた。

「叔父上にも説明したとおりです。栴岳承芳様が兵を欲しておられるので、お貸ししているのです」

「その為に、二俣だけではなく各地から兵を集めて、今は浜名に三千近い兵が集まっているというではないか。これではいたずらに国境を騒がせるだけではないか」

「さぁ、そのあたりのことは雪斎殿もお考えあってのことだと思いますが」

「ばかもん! 雪斎殿が考えるなどと無責任にも程があろう! 三河もんが武田に呼応して攻めてきたら、ここも戦どころではなくなる!」

 泡を飛ばさんばかりにがなりたてる。普段の主計宗保は三十後半の武人らしく、剛毅な人物である。しかし城主であるはずの八郎宗信には、甥ということもあってやたらと厳しくあたる。それは最近、より度合いが強くなっていると、六輔にも感じられることであった。

「主計殿、そう殿をお叱りにならなくとも……」

「やかましい六輔! お前は槍働きのことだけを考えておればよいのだ!」

「も、申し訳ありませぬ……」

 一心に割り込んで弁護した六輔だったが、一喝されて六尺の体躯を丸めてしまう。親の代からの親族であり、多くの武功を持つ主計宗保は、二俣城では一番の実力者であり、面と向かって意見を出来る者は少ない。本人もそれを自覚して城主であるはずの八郎にだけ、いつも恫喝とも思える大声を張り上げているようだった。

「わかるか、八郎。俺はお前の父親のように、堂々と振舞ってほしいのだ」

 そして決まって、八郎の肩に手をやって諭すように言う。

「お前が決めたことだから俺は従う。しかし、若殿と弟君、どちらにも良い顔をしようという態度ではいかんぞ。誰にまず忠義を尽くすべきか、それをしっかりと判断するのだ」

「はい、叔父殿の言うとおりでありました。以後、気をつけます」

「うむ、我らの働きはすべてお前にかかっておる。頼むぞ」

 最後には嫌味なく全てを信頼していると言わんばかりの破顔を見せて、陣幕を去っていった。

「近衛ども、そなたたちも休んでよい」

 重鎮の叱声に恐懼していた近習の脇侍たちを、八郎宗信はねぎらって下がらせた。六輔だけを陣幕に残して、床机に腰かける。

「とにかくアノヤロ……叔父上は俺を否定することから入りたいらしい」

 まだ外で耳をそばだたせているかもしれない叔父の手の者に配慮して、腕を組む。八郎宗信が同年代ゆえに若輩の六輔と為五郎とつるんでいることは、城中では周知のことだから、こうして幕内に二人、三人だけという状況をよく作ることも認められている。

 主計宗保がどう思っているか以上に、八郎は叔父のことが嫌いだった。

「たぶん、自分が城主になりたいんだろう。俺を追い払うなり殺すなりして、二俣城が欲しいんだ」

「俺には叔父殿がそこまで考えているのかわからん」ここまではっきりと毒を舌に乗せられると、六輔としても困惑せざるを得ない。臣下の位置から見れば主計宗保は経験豊富で頼りになる武人だ。

「だが、お前がいない間の叔父殿は、まあ、殿様気分だと思う」

「代われるものなら代わってみるがいいさ。あいつが今川館に出来して、俺が城中を仕切ってやる」

 実際のところ、単純な入れ替わりの問題ではない。八郎が生まれた頃、主計宗保は二十手前。城一番の若武者として少年たち――今の侍衆――の憧憬を集めていたのだ。実績も人望も突出しており、特権も俸給も他の家臣とは比べ物にならない。

 その上で城主となり、何を欲しがるかといえば、

「中央に行きたいのだろう」

 この中央というのは、西方の京のことではなく、今川家中での中央――つまり駿府に勤めたいということだ。どうもあの叔父は遠江にいることが何か不名誉なことだと思っているらしい。

「手柄を欲しがっているのは、俺のほうなんだ」

 手元の水桶からひしゃくで水を飲み、八郎宗信がぼやく。

「叔父上が口を出せなくなるような手柄が欲しい。今度の合戦はそれを試す良い機会のはずだ」

 自由に動ける投石部隊。これを採用している国は、少ないが確かに存在している――というより、目と鼻の先にいる武田軍の中で、小山田という国衆が卓越した投石戦法を有しているというのだ。

 投石に目をつけたのは雪斎だが、出陣前に試し合戦をしてみて八郎宗信は、自家の者たちが確かに高い技術を持っていることに気づいた。うまい者については、弓矢よりも速く、遠く、精確に投げられる者もいた。力自慢の六輔は的の板を割るほどの威力を見せた。

 二俣の地は天竜川だけでなく、信濃に続く山脈とも接している。山に入り、里に向かって動物を追い込む狩猟で投石技術を磨いた者もいるのだ。

 この策を聞いた当初は兵を減らす不安のほうが大きかったが、今では千、二千の兵を率いているような自信を抱いている。太守氏輝に向けた大言壮語も根拠がない訳ではないのだ。

「よう、お二人とも、おそろいで」

 考え込む二人の前に現れたのは同輩の士、阿多古為五郎薫俊である。ただし、一人ではなく十歳ほどの少年の手を引いている。

「お前、なんだそれは、まさかまたさらってきたのか」

「いや、いや、いや、さらうとは人聞きの悪い。俺はこの土地の者に協力してもらっているだけさ」

 そう言って頬をすりつける為五郎に、少年は戸惑いながらもうなずいた。自分がなぜ為五郎に連れられているのかもよくわかっていないらしい。

 少年は丸顔で目も大きく、まだ頬のまわりに赤みをのこしている。もろに為五郎の好みだということを六輔も八郎もわかっていた。

「それで、どこの家の子だ」

 いまさら仲間の寵童趣味に口を出すつもりもなく、八郎宗信は少年の出自を訊ねた。

「ここらの地主の子だよ。それも三男坊でね。引き取ってくれてもいいってさ。三貫だ」

「三貫……! お前、また見入りの半分も……」

「そう言うなよ、投資さ。嫁をもらって子どもを生むよりは早いと思わないか」

「……何人目だ」

「ふぅむ……七人目だな。ちなみに掛三郎と静次郎は連れてきてるぜ」

 為五郎は代官を務める村で三十人の兵を集める。その為に三十人分の兵糧、武具などの費用として百石の扶持米を預かっている。余剰分が十から二十石となり、銭貨に両替して五から十貫文が為五郎の収入となっている。

 その中から為五郎は行きずりの地で気にいった少年を買ってくるのだった。

 ちなみに六輔は二十人扶持に五十石預かりと、為五郎より低収入な上に、おしのや三太がいるので、六輔自身の小遣いはほとんどない。

「子どもはいいぞ。働けるし、頭はいいし、なにより良い匂いがする。あちらさんも納得ずくだし、陣地の土地借りも問題なし。後でうかがわせてもらいますってさ」

「……うむ、ご苦労」

 遠征地に布陣するには、その土地の者の協力が欠かせない。その根回しをしてくれた同輩の友をねぎらうと、八郎宗信も太守への挨拶を終えたことを伝えた。

「おおむね、承芳様の言うとおりになったわけだ」

「ふぅん……承芳様、ね」

 妙にもったいぶった言い回しで公子について口にする為五郎だった。

「どうした。お前はどうも承芳殿の話となると、顔を苦くするな」

「いや、なに……」

 六輔の指摘に為五郎は買い上げた少年を自分の配下――先ほど口にした掛三郎という十三、四の少年である――に預けて、陣幕に三人だけとなってから、心中を吐露した。

「俺は、あの方が恐ろしいのだ」

「恐ろしい……」

「俺は、お前らより知恵が回る。まあ、そういうつもりでお前らを助けていたつもりだが……あの方を見てからは、そうだな、自信がない」

「為五郎、そんなのは俺も同じだ」

「違うんだ、六輔。お前はあの方たちの深い……謀りごとの深さに驚いているんだ。恐怖っていうのは、そういうことじゃない」

 六輔は智謀や器量の差に、つまり人間としての出来の違いに驚いているのだが、為五郎はそれだけではないという。

「俺は……なんというか、わかってしまうんだ。あの……承芳様だけではない、雪斎殿も含めて、あの方たちが何を考えて、俺たちに策を与えてくれたのか、なまじ、わかってしまうんだ」

「いったい何がわかっているんだ、為五郎」

 八郎宗信が床机から膝を下ろして座り込んだ為五郎に目線を合わせる。

「あの方たちは、俺たちにだけ特別に策を授けているのではないんだ」

 それは八郎も初耳のことであった。

「承芳様は遠江を浜名を通って駿河に戻る途上、掛川の孕石殿や福島殿、井伊谷の衆にも立ち寄って、よく通じている。つまり、俺たちと同じように策を与えて、信用を得ている」

「そうなのか。しかし、それのどこが恐ろしいことなんだ」

「だからお前はバカなんだ、六輔」

 鋭い罵声は普段と違い、反論の隙を与えなかった。

「いいか。駿府には太守様がおられる。今は弟の彦五郎様が留守を預かっている。栴岳承芳様は、その二人を差し置いて遠州で信用を得ようとしているのだ」

 そこまで言われて、先に八郎宗信が感づいた。

「承芳様はご自身が遠州を……率いようというのか」

 かろうじて言葉を濁した八郎に、今度はさる懸念が浮かんだ。

 六輔もまた、かつて聞いた言葉を言葉を思い出していた。

「男子三人、夜中に顔を突き合わせて話すことなど、夜這いか謀叛の相談であろう」

 あの時の人を蕩かすような魔性の笑みを思い出すと、身震いがした。

「いや、しかし」六輔は強く頭を振った。「それこそバカな話だ。れっきとした一族である承芳殿が、そんなことをしたところで何になるというのだ」

 二人とも苦労して〝謀叛〟という単語を使わないようにしていた。

「それも俺にはわからぬよ。俺がわかるのは、あの方たちが、駿府から東より、遠江から西に。東国より京のほうに興味があることだけだ」

 ぎり、と為五郎が歯軋りしていた。知恵者を自覚していただけに、その遥か頭上を飛び越していく貴公子に強い焦燥を感じていたようだった。

「その為に、どんな手段を取ろうとしているのかがわからない。それが俺たちにどんな結果をもたらすのか……わかるのなら、うまく立ち回ることができるのに」

 もしも、兄の氏輝の戦略に反対する栴岳承芳が、遠江の国人衆をまとめあげて謀叛を起こすというのなら、重要な拠点である二俣城の城主、松井左衛門佐宗信はどちらに味方するべきか――為五郎はそれを探っているのだった。

「為五郎……お前の話はよくわかった」

 郷友の肩に手を乗せて、八郎宗信はうなずいた。不安を抱きながらも、相手を安心させようという力強い声で、

「昔、和尚が言った言葉がある。覚えているか」

 和尚とは、三人が子どもの頃に学んだ寺の和尚である。

「命は義に依って安し」

 八郎は自分にも言い聞かせるように声を出した。

「俺たちは武士だ。武士の選択は多くの事を決定してしまう。時にまるごと死に滅ぶ事もある。だからまず、迷った時は義に依るんだ。義に依れば、命は安んぜられる」

「八郎……いや、すまん。俺はそんなつもりで言ったんじゃなかったんだ」

「いや、かまわん。俺も考えるべき事だと思う。六輔も、いいな」

「あぁ、うむ」

 六輔は八郎宗信の言葉を聞いて、腕を組んで床机に座りなおした。

「すまんが八郎、和尚はそんなことを言われたか。俺にはまったく覚えがない」

「それはお前がバカだからだ」

「ぬうぅ……」

 悔しげに顔を歪ませる六輔に、八郎に肩を置かれる為五郎が笑いを洩らした。

「ところでな、八郎」

「なんだ」

「命は義に依りて軽し、だ。平治の序文、後漢朱穆伝だ」

「……」

「意味も全然違う。恩情をかけて兵に尽くせば、命を軽いものと思ってよく戦う。呉起の吮疽の仁と似たような話だ。和尚が言ったかはわからんが、お前いったいどこでそんな妄想にとりつかれた」

 手のひらを返したように溢れ出てくる悪口に、八郎は返す言葉を失ってしまった。

「だが、考えていることは悪くない」

 憮然としている八郎に、為五郎はニヒルに口の端を吊り上げた。

「義を大事にすれば、情けが返ってくる。この国が内乱になっても、情けによって助かるかもしれない」

 傍らに立つ六輔も義理や人情を尊ばない訳ではないが、それよりは自分の命が大事である。倫理観の崩壊した現世で誰もが自分が生きるだけで手いっぱいなのだ。

 しかし、武士同士であれば、義は売り物になり、情を買える。末法の世は信義無き武士にはいっとう厳しい。

 主が義を大事にするというのなら、六輔もその気にはなっておくのだった。

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