第6話
おしのたちを帰した後、しばらくして為五郎が戻ってきた。その後ろには松井左衛門佐宗信――八郎宗信がしっかりとついてきている。
「昨日の今日で犯人が見つかるとはな」
頭を隠していた編み笠をはずして、八郎宗信が苦笑する。その頃には居住まいを正していた六輔が土間に膝を着け、朋輩ではなく家臣として丁寧に頭を下げる。
「まこと、申し訳ございませぬ」
「そう頭を下げるな。俺たち三人だ」
八郎宗信は為五郎以外の供を誰も連れてきていなかった。屋形から抜け出してきたのである。
初めてのことではない。八郎宗信は六輔たちと肩を並べていた十年も前から、自室に穴を掘り、外へ通じる抜け道を作っていた。これを知っているのは六輔と為五郎しかいない。まさしく三人だけの抜け道なのだ。八郎宗信が兄、宗薫の跡を継いだ跡も、ひとりで寝起きする間をその部屋にとどめておいて、今回のようにこっそりと夜中に城外へ出てきて六輔、為五郎と会うのだ。
「道中、話は聞いている。厄介なことだな」
八郎宗信が幼なじみを土間から立たせる。木目の居間に三人はあぐらで廃屋の闇を囲った。
「通常、このままならしの殿は処刑。下男たちもだ」
だが、そんなことは避けたいというのが、親身な声音から伝わってくる。
「流民の奴を辻斬りに仕立てるのも、六輔の言ったとおりむずかしいだろう」
その流民――銀兵衛が六輔の家来となったことを付け加えた。
「まったく、己の明日の身も危ういというのに」
苦言を呈するが、八郎宗信はそんな六輔が好きだった。なんとしても仲間の危機を救ってやりたいと思うが、うまい知恵は浮かばないようだった。
「為五郎と話していたが、方法はふたつだ。とにかくしの殿が犯人であることは隠したい。となればひとつは辻斬りを見つけ、手傷を負わせたが、逃げられてしまった。そしてもうひとつが、お前が家来にした銀兵衛の兄、金兵衛を犯人とすることだ。そしてそしてたった今のお前の話を聞いて、このふたつともが実行が困難だと思った」
城主に代わって為五郎が六輔に説明をする。
「まずひとつ。見つけたが、逃げられてしまった。これを城中で知らせれば、今すぐ探さなければならない。関所も閉め、他領にも知らせねばならぬ。果してそれで見つからぬで済ませられるものか」
「先にも話したが、今川本家から監査を送られる可能性が高い。今この時期に不祥の事態を起こせば、印象も悪くなる」
八郎宗信の補足を受けて、為五郎は続けた。
「そしてもうひとつ。金兵衛を犯人とする方法。しかしこれではお前が助けた銀兵衛を連座させなければならない。それに、実の兄弟となれば、縁座として処刑は免れん。本意ではないだろう」
「……あぁ」
「それに、金兵衛と銀兵衛は、おそらくここに流れてきてまだ日が浅い。昨日今日の事件ならともかく、流れ者を見ている者たちが見れば不審に思われるだろう」
「それならそれでいいんだが……だがな、結局は打つ手なしってことじゃないのか」
「そういきりたつな。まだ時間はある。表向きはまだ何も解決していないのだ。じっくりと考えれば、良い考えが浮かぶはずだ」
「……いや、やっぱりだめだ」
「六輔」
「俺の家のことだ。お前らに迷惑はかけられん。しのの罪も俺が引き受ける。俺の家などたいしたことはないんだ」
「何をばかなことを」
為五郎が落ち着かせようと肩を叩くが、六輔はぐっと拳を握り締めて繰り返した。
「俺の家など、お前らに比べればたいしたことはない。たとえうまくごまかせたところで、八郎、お前がなにか隠したってことはみんなに伝わっちまう。お前それでやってけるのか」
「六輔……」
八郎宗信は為五郎の手をそっと六輔の肩からどかしてやり、そこに優しい力で手のひらを乗せる。
「お前の気持ちはよくわかった。よくわかったよ、六輔」
苦渋の決断に城主の声は穏やかに応えた。
「おめえ、やっぱりわかっちゃいねぇってことだよ」
ふっ、と大気の流れを感じた時には、八郎宗信の拳が六輔の頬にめり込んでいた。
地に足を着けた、腰の回転で振り切った見事な右フック。六尺の身体はあぐらの姿勢から、一瞬だけ宙に浮いて倒れた。
八郎宗信が唸った。慰めるのではなく、威圧するような低い声だった。
「ばか六輔、今お前に死なれてなんになる。何の役にも立たねぇまま死ぬつもりか」
「そうだ、このばか」
為五郎も重ねて言う。
「お前はどこまでもばかだが、代わりのいないばかだ。お前の家はお前がでかくするんだろうが」
「ばかばか言いすぎだ。お前ら」
にわかに涙声になるのを喉奥に押し込めた時、夜風そのもののような声が流れた。
「子曰わく、老者は之れに安んじ、朋友は之れを信じ、少者は之れを懐く――上論公冶長」
「……っ!」
それは二俣城の三人のいずれの声でもなかった。繊細な笛のような声音で廃屋の中に響いていた。
「人は皆、餓鬼畜生に落ち入った末法の世と思うていたが、友の為に殴れる者もまだ残っていたということかな」
中音域の美しい声は廃屋の内と外の境界から発せられている。戸板にわずかに背を預けて立つ人物は、白糸混じりの法衣に月光を反射させて薄い笑いを続けていた。
「な、何奴か……」
八郎宗信が誰何する。太刀に手を伸ばしながらも指先に力が入らぬ様子だ。それほどまでに、目の前の人物は現実感に欠けていた。無論それは確かに存在する人物のはずで、六輔たちよりも遥かに強い個性を持っているが故に彼らのいかなる経験、想像にもあてはまらない虚像を生み出しているのだ。
数秒の時を経てようやくその姿を正視に捉えることができるようになると、若い男の僧侶であることが認識できた。まだ少年の域を出ていないだろうが、やせ気味の輪郭に湛えている薄い微笑みは、まるで天上の者が戯れに下界を垣間見るようにじっくりと六輔たちを観察している。その笑みを見て、見つめ返されると、どこか見知らぬ地に引き込まれていかれそうな、陶然とした心地になり、身震いした。
依然として法衣姿の男は微笑みを崩さずにいる。八郎宗信がわずかににじり寄った時、もうひとつの影が戸板の奥から現れた。
これもまた、異様な男であった。片方が天上の陽光とすれば、まさしく影というべき存在だ。黒衣の高僧が如き装いに、厳つく彫り込まれた顔つきをしている。鋭く睨みつけられると、重石を乗せられたように動けなくなってしまう。
「若」
黒衣の男のほうが低い声で喋った。つまり何処かの公子とその従者だろうか――たった一言を発するだけで、その意が諫言であることが伝わる。
「ふ……急かすな雪斎、この者たちはなかなかにおもしろそうだ」
返事に含まれる僧名は三人を愕然とさせるに過分ないものだった。
「せっ、さい……まさか、太原崇孚雪斎様でございますか」
「それではまさか……こちらのお方は……」
震える声で八郎と為五郎が限界まではばかっていると、黒衣の僧侶はこくりとうなずいた。
「太守今川五郎氏輝様の弟君、今は建仁寺の喝食栴岳承芳様にあられる」
「は、ははぁー!」
三人は即座に土間に下り、膝をつけて低頭した。栴岳承芳といえば、先代の今川家太守氏親の子のひとりで方菊丸と呼ばれていた幼少の頃から英明の名高く、京に上って僧侶の道を歩んでいたという。まぎれもなく貴公子であり、六輔たちから見れば主君も同然の人物である。
「そうかしこまるな、宿を求めているのは予らのほうだ」
「我々は京からの下向の折、こちらに立ち寄ったのでござる。夜分遅く故、城を訪ねるのは遠慮しようとしていたところ、この家に辿りついたのでござる」
変わらず美しい笛のような声を発する栴岳承芳に対し、その輔佐として名高い太原雪斎は押さえつけるような重低音の声で話す。土下座する三人には恐怖でしかなく、いっそう頭を上げられなくなった。
「まさか先客がいるとは思わなかった。見るからに、この辺りの武士と思うが」
ふわりと香気をたゆたせて、栴岳承芳が三人の傍らを歩いていく。
「それで、どこの家に押しかけるのだ」
「な、なんですと……」
木目の居間に腰掛けた栴岳承芳は朗らかな声で笑いかけてくる。
「男子三人、夜中に顔を突き合わせて話すことなど、夜這いか謀叛の相談であろう」
「んなっ……!」
三人の表情が一瞬にして破傷風患者のほうな強張りを見せた。栴岳承芳の笑みは朗らかなままだが、たった一言で地獄の鬼も見せないような恐ろしい錯覚を与えてきた。
六輔は背中にぞくりとする悪寒を感じて振り返った。奇妙にも八郎宗信も同じ動作をしていた。そして戸外に静かに立つ太原雪斎と目が合った。
呼吸が出来なくなった。冷たい冬の風のような眼力に心臓が凍り付いてしまいそうだった。
「む、謀叛などとは滅相もない!」
いちはやく新たな反応を示したのは為五郎だった。
「我等三人、領内に潜伏している辻斬りを見つけたものの、その対応に苦慮しているところでございます!」
「ほう、辻斬りな」
栴岳承芳は細長い指を頭巾の下のこめかみにあてて、続きをうながした。
為五郎が六輔と八郎宗信を見る。
「もはや致し方あるまい。六輔、いいか」
「……御意」
六輔も観念するほかなかった。太守の弟に謀叛の疑いをかけられては、もはや井戸家ひとつの問題ではない。
(本当に、腹を切らねばならぬかもしれん)
ぐっと握り締めた手の中に汗が溢れてくる。その間も雪斎の静かな眼が六輔をじっと見ていた。
為五郎が慎重に言葉を選びつつ、今度の事件について話すのを、栴岳承芳は興味深く聞いている。時折り、うなずいたり微笑をこしらえたりするところを見ていると、単純に挿話として愉しんでいるようだ。
そうして、話は六輔と為五郎が犯人を捕らえる談に及んだ。
「辻斬りの正体というのが、ここにおります井戸六輔薫長の妻、しの殿だったのです」
「ほう、では女なのか」
「は、はっ」
「ほうほう、それはそれは、奇特なことだのう」
栴岳承芳は足を組み替え、膝の上に肘をかけて頬杖をついた。口元の微笑は変わらぬが、鋭いまなざしで六輔を見ている。
「つまりそなたらは、仲間の女房の罪をどう裁こうかと、ひそかに相談しておったということか」
八郎宗信が頭を下げて肯定するのを眺めて、追い討ちのように付け加える。
「妻ゆえ、うまく隠せぬかと持ちきりだったと」
ぽたりと、八郎宗信の額から汗が滴り落ちた。
「なるほど、たしかに妻が人斬りなどというのは聞いたことがない。どうだ雪斎、武士の等分に照らさばいかがなものかな」
雪斎は静かな佇まいのまま、冷酷に告げた。
「一度であれば、情状酌量もありますが……領内を著しく乱したとあれば、まず家禄召し上げは必至かと」
「そして、家長は打ち首、息子がおれば数年後に回復というところか」
「……!」
淡々と過去の例に沿って告げられて、六輔は慄き、肩を震わせる。その浅黒い頭頂部を眺める栴岳承芳は、やがて八郎宗信に顎をしゃくった。
「さて、二俣城主、松井左衛門佐宗信よ。この罪を井戸六輔薫長に与えられるか」
若い城主もまた黙ったまま答えられない。
幼き頃より信頼する家臣を自ら裁くという選択は、まだ二十二の若者にとって過大な重圧であった。動揺が体脈を伝わったように、八郎宗信の身体が小刻みに震えた。
「ふ……答えられぬか。なぁ、左衛門佐。そなたを除いてこの城で一番の功労者は誰かな」
「は、え……」
質問の意図がつかめず、うろたえる八郎宗信の後ろで太原雪斎が口を開いた。
「二俣で名のある人物といえば、左衛門佐殿の外叔父、松井主計宗保殿ですな」
「そうか……左衛門佐、例えばだ、この度の事の犯人が、その叔父の妻だとしたら、そなたはどうする」
「ど、どうするとは……」
「功労ある叔父を切るという裁きを下すことができるかということだ」
「そ、それは……」
「ところでな、左衛門佐」
「は、はっ……」
「そなたがいま悩んでいたのは、六輔を裁くことと同じ事かな」
「っ!?」
八郎宗信がごくりと唾を飲み込んだ。その意味するところが六輔には理解できなかったが、栴岳承芳はなにか大きなことを八郎宗信に問うているようだった。
栴岳承芳が雪斎に指を振った。雪斎が袖から竹筒を差し出すと、栴岳承芳はそれで喉を潤した。
そして、また話題を変えて話し始めた。
「ところで、予は駿河に戻る最中じゃ。この意味がわかるか」
しばらく考察の沈黙があった後、為五郎が答えた。
「武田への備えにございますか」
「うむ、正確には兄上が武田に攻める故、三河の備えとして予が遠江に残る」
いったい何を喋っているのか――二俣城の三人が栴岳承芳の一言一句に怯えていると、途端にその当主の弟は組んでいた両足を前に投げ出し、梁に寄りかかって大いに冷笑した。
「愚かなこととは思わんか」
「な、なんと……」
「こたびの事、亡き父の盟友、北条殿の誘いゆえ応じているが、相駿から武田を追い払ったとして、富士吉田を得る北条に対して我等が得るのは堅城蒲原を越えた先の二、三の土地。この土地を武田の逆撃から守る為に兵を置いては、蒲原がまるで意味を成さん。戦上手の武田に野戦の意を与え、こちらは損をするばかり。土地にこだわらず、蒲原より東を北条に与え、伊豆の権益領分を増したほうが良いとは思わないか」
「は、あ、いえ……」
八郎宗信も甲斐出兵には不満なのだが、それは栴岳承芳の見解とは全く異なる――二俣の無駄な出費を避けたい――利己的な観点によるものなので、うかつに返事をすることはできなかった。
「ふ……心配はいらぬ。ただのひとり言だ。予としては北条とは付かず離れず背を守りあい、遠江三河へ兵を進めたほうが良いと思っているだけだ。兄上には秘密にしてくれたまえよ」
「は、ははっ!」
「さて、話をそらしてしまったな」
寄りかかった姿勢から起き上がって、栴岳承芳は裾を払った。それまでのしなやかな仕草とは違って、その時ばかりはなぜかバタバタとうるさく叩いた。
「六輔の女房殿を一度見てみたいのだが、いいかな」
三人は顔を上げて、互いに見合った。三人ともひどく憔悴していた。とくに八郎宗信は酷かった。溺死しかけた老人のような顔つきになっている。
若き城主の疲労しきった顔を見た、さらに若い公子はさきほどとは打って変わったようにやさしい微笑みをしてみせた。
「心配するな。どちらかといえば用があるのは雪斎のほうだ」
そう言い、戸口に立つ太原雪斎を見やる。雪斎のほうもまなざしを穏やかにしてうなずいた。先ほどまでの監視するようなものとは違い、自然と安心させられる目のあたたかさに八郎宗信と六輔も応じることにした。
村はずれの廃屋から出てきた五人は、六輔を先導にして二俣の地を歩いていく。既に夜明けが近かった。八郎宗信は城主として床にいるはずで、朝が来れば宿直からの起床の呼びかけに応えなければならない。さもなければ当主がさらわれたなどと大騒ぎになる。
「なあに、予の考えではそれほど時間はとらぬ」
そう栴岳承芳が笑う。六輔はまだ複雑な不安が残るが、八郎宗信はどこか肩の荷が下りたような落ち着きをもっている。おそらく城主としての責任が除かれたからだろう。悪いようにはならぬと若い貴公子が言っているのだから、信用に足ると思っているのだ。
六輔の邸宅に戻ってくると、三太と銀兵衛が出迎えにきた。はじめは不安からかびくびくと出てきた二人だったが、城主の八郎宗信を見て恐れ慄き、次いで現れた栴岳承芳がおもしろがって正体を知らせると、額を地面に打ち付けて、これ以上は頭が下がらないというぐらいまで下げた。
「やあ愉快なものだ。釈迦や仏陀に会ったら地面を掘り進めて地獄に落ちてしまうのではないか」
太平楽そのもののような声で笑いながら、栴岳承芳は六輔の屋敷に上がりこみ、案内されて寝所で神妙にしているおしのと体面することになった。
「どうも、はじめまして奥方。井戸六輔殿のご衷心よくうかがっております」
弱者へのおもねりが過ぎる点を除いては非の打ち所のない所作で腰を下ろす栴岳承芳は、突然それと出会ってしまった者からすれば天上から神の使いが舞い降りたのだと錯覚するほどのあたたかさで満ちていた。現におしのは目の前の人物が何者であるか推測することさえ出来ずに、ぼうっと熱に浮かされた顔で栴岳承芳を仰ぎ見ている。
「この度は災難に見舞われたようですね。わたくしもお力になりたいと思い、こうして参上いたしました。よろしければお手を借りてもよろしいでしょうか」
台詞だけを取れば破廉恥な誘い文句に聞こえるが、栴岳承芳の声音は平板ながらも水の流れのような澄んだ心地よさで寝所に響く。六輔すら聞き惚れているうちに、おずおずと差し出されたおしのの手を取った栴岳承芳は、それを隣りに座った太原雪斎に預けた。
「む……ふむ」
おしのの日に焼けた百姓娘の腕の半ばから、手首、手のひら、指先まで指を這わせて、しばらく瞑目していた雪斎が、確信をもって告げた。
「身ごもっておられますな」
「……なに?」
あっ、と無礼な口をふさいた六輔に、雪斎は穏やかに目を開いて破顔した。
「しの殿には御子が出来ており申す。左様……脈候を診ますに、ただいま二ヶ月といった具合でしょうか」
「ま、まことでございますか!」
身を乗り出し、雪斎からおしのの手を受け取った六輔がその手首に耳をあてる。そのようなことをしても、とくとくとしたひとつの音しかわからないが――
「予が思うに」
あっけにとられていた二俣城の三人に、栴岳承芳が身体の向きを変えて講釈を始めた。
「しの殿は、というよりしの殿の心身は、妊娠したことを無意識に感じ取っておったのであろう。夫の為に働きたいと思うのも、妊婦の鬱屈として表れる兆候だ。本来ならば産婆をつけて、しかるべきところに移すのだが、実際のつわりなどが起きていない為に別の発散を求めてしまった。それだけならばまだいいのだが、どうやら触れたものが悪かったようだ」
無意識の内に防衛本能が高まっていたおしのの精神は、刀剣に触れて、懸命に磨いたことで、その輝きに魅入られてしまった。それだけではなく、刀剣を盗もうとする悪党が現れた。刀剣とはすなわち武士であり、夫である六輔を表す。おしのは無頼が刀剣を掠めることを、夫の命を奪われることと錯覚したのだ。そして、その刀剣で悪党を斬り、知らずの内に溜まっていた鬱屈を発散する術を覚えてしまった。それが諸悪の根源だと栴岳承芳は言った。
「安心なされよ、しの殿。あなたの身体は寿ぐべく大事な母体だ。よい医者をつけてもらい、ゆっくりと御子を育めば、いずれなにもかもが良くなることでしょう」
それまでおしのは目の前の天上人のような人物が何を話しているのか理解できていなかったらしい。最後にふわりと手を包まれて祈願の聖句を唱える栴岳承芳を見て、ふと泣き崩れた。
「あ、あ……ありがとうございます、ありがとうございます……!」
「し、しかし承芳様……」
震える新妻をいたわる貴公子に進み出たのは、それまで成り行きを見守っていた為五郎だ。
「しの殿がご懐妊なのは喜ばしいことですが、しかし我々はそのしの殿と、六輔を罰せなければならぬのです。我々はまだ……」
なにも解決できていないではないか――そう言い尽したいところであったが、不敬にあたるかと思い、ぐっと呑み込んだ。対して栴岳承芳は、軽やかな笑いを返した。
「ふ……そういえばなぁ、雪斎」
「はい」
おしのを診察してから夜闇の影に控えていた雪斎がふたたび顔を見せた。その謹直な僧侶を前に、栴岳承芳の笑い顔は子どものような悪戯げなものに変化した。
「予はたしか、ここに至る道中、夜盗と出くわしたな」
「……は、たしかに」
「これがなかなか腕の立つ者でな、予と雪斎とで取っ組み合っている殺めてしまい、そう、天竜川に落としてしまった」
「な、ま、まさか……」
栴岳承芳の話に太原雪斎がこくりとうなずく。それを聞かされて、まず八郎宗信と為五郎が、半秒遅れて六輔が思惑を察した。
「そなたらの話を聞いていると、どうも予らが始末したのが、その辻斬りらしいのではないか。残念ながら、死体は川に流れてしまい、いまごろは浜名にでも行っているかもしれぬ」
三人の若武者の顔に光りが射したようだった。
「そんなところでよいだろうか、松井左衛門佐。辻斬りのことは予らの手打ちということにして、しの殿は妊娠の折しばらく寺に預ける。他になにか考えることはあるか」
「ご、ございませぬ!」
喜色の源は御前の貴公子にあり、八郎宗信には本当に光り輝いて見えただろう。ひたすら頭を下げて感謝の言葉を述べ続けた。
「そなたらの忠節の仲、なかなかおもしろきものである。二俣城に三勇士あるならば、予も安心して遠江の守りにつけるというものよ」
「は、ははっ! もったいなきお言葉にございます!」
「まあ、そなたらはすぐに出陣してもらわねばならぬが」
その声には自嘲しているような響きがあった。
それから、栴岳承芳と太原雪斎はあらためて二俣城の門を叩き、一夜限りの客となった。
その前に松井左衛門佐宗信が城中の者に気づかれないように抜け穴から屋形に戻り、報せを聞いて迎え出るという奇妙な連鎖があったが、幸いにして誰にも気づかれた様子はなかった。
一睡した後、辻斬りの事件は示し合わせたとおりに栴岳承芳と太原雪斎が始末してしまったということで収まり、六輔はおしのが懐妊したらしいことを申し出て、医者を派遣してもらった。
おしのが静養の為に寺に預けられることになって、六輔はようやく胸を撫で下ろした。子どもができたと教えられて、その腹をさすってみると、実体がなくてもなにかあたたかいものが手のひらから伝わってくるような気がした。
「ようやく、めおとになれたのかもしれぬな」
六輔がそう言って笑うと、おしのも微笑んだ。お互い、あの夜の貴公子には劣るものの、とてもやわらかい微笑みだった。
「すぐに、お父上になられますよ」
「そうか、おとこであろうか、おんなであろうか」
まさか自分がそんな台詞を吐くことになろうとは――言ってから六輔は恥ずかしくなった。
「すいやせん、旦那様」
あの夜から小者として雇っている銀兵衛が近くに寄ってきた。
六輔は赤面している顔をごまかす為に近くに置いていた酒を一気飲みして、銀兵衛のほうへ振り返った。
「どうした」
「し、城のほうからお侍さまが来てます」
いまだ武士に気後れがあるようで、銀兵衛はおどおどと門のほうを示した。
六輔は軽くうなずき、銀兵衛に仕事に戻るように伝えると、屋敷の外で待つ城士に会った。
「出陣にございます」
子宝を抱えた六尺の武士は、初めて合戦をわずらわしいと思った。
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