第5話
おしのが辻斬り――いや、刀剣の魔に取り憑かれたのは、五十日あまり前になる。
「武士の妻として、旦那様のお役に立てるよう」
始まりは、けなげな新妻の悩みだった。
六輔の出仕している間にかまどを焚き、飯をつくり、掃除をする。たまに親元へ出向いて手伝いをする。それだけでは百姓の娘と変わらないと、おしのは思い始めて、近所に軒を連ねる武家屋敷の女房たちに教えを乞うたのである。
「お姉は、そぎゃあもう旦那様の為に……」
三太が土間に額をこすりつけながら、声を震わせる。六輔は、為五郎と共に捕らえた妻と下人、それと助けた流民を連れて、近くの誰も住んでいない廃屋に連れ込み、事情を訊いている。腐った木目の居間に六輔と為五郎と、ひたすらうなだれて震えているおしのが座り、三太と二人の下人と流民は土間に座らせていた。
「蔵の武具が、ぶしょうきたねぇずらで……お姉とみんなで、きれいにしょうずってしたずらで」
蔵とは、六輔たち武士の下で働く半農足軽たちが持たされる番槍や具足が保管されている倉庫である。本来ならば奉公人の内に当番が決められて整備しているはずだが、六輔が記憶を辿ってみると、半年前の陣触れから蔵が開いていた形跡が思い当たらない。備えが解かれた時、役割を決めるのを忘れていたらしい。
「それから、お姉がだんだんおかしく……」
物珍しさもあり、おしのや下人たちは喜んで武具の手入れを手伝った。女房たちから武具の不始末を教えられた奉公人たちも、雇用主に露見して罪を押し付けられるよりは、女房たちに俸給を返上して手入れを行うことになる為、手伝いを断る理由はなかった。ちなみに返上された俸給は女房たちのヘソクリとなるべく、巧妙に秘されるのであった。
それでもけっこうな量である。二俣城の兵役動員数は四百人程度だが、その内の二百人あまりがこの一帯に所属しているのだ。武具の用意は呼びも含めて三百人分あった。
異変に気づいたのは手入れを始めた三日目だった。元々ある仕事を終えてから各家の武士たちが戻ってくるまでの短い時間の作業だったが、三太がが十本の刀剣を磨くまでの間に、おしのはたったの三本しか磨いていなかった。
その日は少し体調が悪かったのだろうと思っていたのだが、次の日になると、一本も磨き終わらなかった。たった一本の刀剣を三太が止めるまで延々と磨き続けていたのだ。
「お姉、なにしてるずら、もうぴかぴかけっこいずら」
「なに言ってるずら。まだしょばだいよ、綺麗にしなきゃけったいよ」
顔が映るくらいに光り輝く刀身を見つめるおしのの眼は、目玉がこぼれ落ちてきそうなほど見開いて三太を睨みつけた。
「そりゃもう、こんなおそろしい目は見たことがねぇ」
しかし蔵を出て六輔が帰ってくるといつもどおりになる。三太は刀が悪いと思った。
「んだから言ったんずらさ。お姉の様子がおかしくなるずら。手入ればはよ終わらせようでさ。みんなもちょっとおかしいって思ってたずらで、いっぺんにやって終わらせて、蔵を閉じたずら……んでも、お姉は……お姉は……」
三太は肩を激しく震わせた。それはまさに狂気と不幸が重なった事件だった。
倉庫を閉めて武具に触れなくなり、おしのの様子は平静を取り戻したかに見えた。六輔ら武士たちも武具のことには気づかずじまいとなり、三太もそれを見て一安心したのだが、おしのはある夜、六輔も眠りこけている深夜に置きだして部屋を抜け出した。それを見つけた三太は思い悩んだ末に一人で姉を追いかけることにした。
案の定、おしのが閨姿のまま向かっていった先は武具の倉庫だった。しかし今はきちんと錠がかけてある。うまく見計らっておしのを連れ戻そうと尾行する三太だったが、倉庫まで辿りつくと信じられない光景が繰り広げられていた。
「倉庫が空けられていて、中から山賊が!」
おそらくは武具を盗んで行こうとしたのだろう。
また、それを見たおしのが奇声をあげた。
「御刀様を返しなさい!」
甲高い声と背の高い影に驚いた山賊たちだったが、それが女だと気づくと、もてあそんでやろうと、一人が盗んだばかりの刀を抜いて刃先をちらつかせた。
直後、おしのは再び奇声をあげて、山賊に飛びかかり、あっという間に刀をもぎ取って斬りつけた。低俗な無政府主義者は、意味をもたない獣の咆哮を聞いて度肝を抜かれて、その表情のまま肩から腹までを断ち割られて、本物の肝を晒した。
山賊は残り三人いた。おしのの奇声に驚いて集まってきたところに、仲間がやられたのを見て一斉に血走った。刀や匕首を握っておしのに向かっていったが、おしのはもう怪物となっていた。またたく間に三人を斬り捨てて、後はその場にぼうっと突っ立っていた。
「おいらがお姉に声をかけだら、お姉がこっちを向いて、とたんにゲェゲェ吐いて……」
それだけで事件が終わるものではないのは、六輔たちも承知の通りだ。
それからおしのは、何日かごとに屋敷を抜け出し、辻斬りを行うようになった。
はじめ三太は倉庫の前でおしのを待ち、腕づくで止めようとした。しかしおしのは、あの山賊を斬り殺した時と同じように奇声をあげて腕の中でもがいた。それは女ひとりのものとは思えない凄まじい力で、三太は危うく目を潰されそうになった。弟を振りほどいたおしのは壊された錠がそのままになっていた倉庫に入り、太刀を持つと、ふらふらと夜をさまよいだす。
「そしたらもう、誰かを見つけたと思ったら、ばっさりと……」
かろうじて三太を助けたのは、斬られたのは手配されている悪党だったということだった。たとえ現場を見られても、身を守る為にやむなく、という言い訳ができることだった。
しかし、おしののことについては、とてもそのままにしておくことはできなかった。
「旦那様に知られたら、お姉がおん出されちまう」
思いつめていたことを、ようやく吐露した三太は途端に胸をしゃくりあげて泣き出した。
「そういうことか……」
六輔は不条理な三太たちの行動にようやく合点がいった。
「おまえたちは、俺に離縁されることを恐れていたのだな」
はじめに、流民や罪人をひとりふたり斬ったくらいなら、六輔に言えば済むことであると思っていた。その程度のことならいくらでも言い訳ができる。
だが、当事者のおしのが明らかに精神異常であることがわかったら、どうなるか。
「たしかに、それは俺にもどうしようもない」
離縁せざるを得ない。実家に戻ったおしのがどうなるかも、容易に想像がつく。
「殺されるか、倉に閉じ込められるか」
「だだ、だからおいらたちは、お姉をたすけようと……」
「ばか者どもが」
「俺もひとつ聞きたいのだが」
それまで黙って話を聞いていた為五郎が三太の前に立った。
「おまえたちがしの殿の為に狂奔していたのはわかった。しかし、どうやって狙いをつけていたのだ。すべて手配されている悪党どもという話だが……」
「そ、それは……」
「今さら隠しても仕方あるまい。どうせ六輔が持ち帰った手配書を盗み見ていたのだろう」
「な、なにっ」
思わぬ形で横面を叩かれた六輔が目を剥いていると、三太が観念したように、
「へぇ」
と、うなずいた。
「まあ、たしかに犯人の一味は城中にいたということだ」
「おい、為五郎」
「おおかた、家に帰るやいなやそのへんに捨て置いていたのだろう。それを拾って集めていたのがなにを隠そう三太殿だ」
「そうかいそうかい」
得意顔をする為五郎に、六輔も反撃に出た。
「お前、こいつらを捕らえようとした時、しのを見た時になっと言った。覚えているか」
「……」
返答に窮した為五郎に六輔はしたり顔で口を尖らせた。
「なにか、やんごとないお方かもしれぬ。とか言っていたな」
「やんごとなくはないではないか」
「そうかそうか」
やりこめたことに満足する六輔だが、為五郎はそんなことを言っている場合ではないと切り替えした。
「貴様、いったいどうするつもりだ」
今度はまた六輔が無言になる番だった。
「たとえこの後、お前が一時的に罪を被ったところで、しの殿の……病は治らぬ。また人斬りに出たらどうするのだ。まさか座敷牢に隠す訳にもいくまい。おそらく、奉公人どもが手入れをごまかしたことで、隠したい気持ちが強くなったんだろう」
「ぐぬぅ……」
六輔は腕を組んで三秒ほど考えたが、良い知恵など浮かばないことはとうにわかっている。
「今さら、俺が出ていくこともできぬ。騒ぎが大きくなりすぎた」
「そうだな、事は俺たちの手に負える範囲を超えている」
小さく首を振る雨五郎に、三太はがくりと肩を落とした。ある程度は覚悟していただろうが、いざとなるととうてい受け入れがたいだろう。
うなだれたい気持ちは六輔も同じである。まさか件の辻斬りが自分の妻だったなど、あってはならぬ事態だ。これを解決する為にはおしのたちを斬るしかない。家名の汚辱だと躊躇無く斬ることもできるが、井戸六輔という男はそれほど誇り高い武士でもない。やっと少しは打ち解けてきたと思っていたのに、という気持ちのほうが強い。捕まえるまでは身ぐるみ剥いで川面に晒してやると言っていたのに、まことに身勝手な腹の底であった。
「あ、あのぅ……」
遠慮がちに手をあげたのは、殺されかけていた流民だった。解放する訳にもいかないので、一緒に連れてきて、先ほどまでは三太たちとは別の意味で震えていたのだが、今は妙に澄んだ瞳で六輔を見つめている。
「お、おれの命を使ってくだせぇ」
「断る」
一生分の勇気を奮発したであろう申し出を六輔は一手に張り飛ばした。
「だ、だんなぁ! 俺は旦那に命たすけられました! そんだらここで返してぇと思う! 俺を辻斬りにして突き出してくだせぇ!」
「誰が貴様を見て、何人も斬り殺した辻斬りだと信用するか」
六輔の凄みに気圧されたのか、流民は言葉が出なくなってしまった。
「貴様も足軽だっただろうがな。刀の鍛錬などしたこともあるまい。必ず貴様を試す。刀の持ち方を見れば心得があるかないかなどすぐにわかる」
すっかり竦みあがってしまった流民を、心の一端では気の毒に思いながら、六輔はふと気づいた。
「ところで、しの。お前、刀の心得などはあったのか」
六輔の問いに縮こまったままのおしのはふるふると首を振った。三太を見ても反応は同じだった。
「よほど才があったのか、もしくは刀剣の魔というものにあてあられたか」
「しかし、見る限りいわくのある刀には見えぬが」
おしのが持っていた太刀を抜いてみるが、変わったところは見当たらない。おしのが魂を取られたように磨き上げた刀身は、わずかに洩れ入ってくる月光で白く輝いているが、どれだけ見入っても気がやられるというようなことはなかった。
「刀の神は嫉妬深い女の神で、女に触れられるのを嫌うらしい。偶然、しの殿があてられてしまったのかもしれないな」
為五郎が言う刀の神は中国地方に由来の近い伝承である。おしのが取った刀剣にたまたま神が宿り、おしのにつらくあたり、身体の自由を奪ったというのか。
「いよいよ、むずかしくなってきたな」為五郎がため息を吐く。「しの殿を引き出しても、やはりなにか試されることだろう。しかし、しの殿に刀を持たせて気狂いされてしまっては、事はより深刻なことになりかねん……いっそ、いま試してみるか」
「ばかを言うな」
あきらかに怯えの色が増した下男たちを気の毒に見やってから、為五郎は諸手をあげた。
「やっぱり俺たちじゃあどうしようもないな」
その発言の意図するところがなんとなく読めているだけに、六輔は気が進まない。
「やはり仕方ないか」
「あぁ、ともかくも八郎に相談しよう」
六輔は深く鼻で息を吸って、鼻から出した。気が進まない。
八郎とは、八郎宗信――二人の主君、二俣城主松井左衛門佐宗信のことである。
為五郎は友であり主君である男の力を借りて、事態の終着を図るしかないと言った。
「俺は今から屋形に行って八郎を連れてくる。お前はみんなを家に連れて帰らせろ」
「わかった。仕方あるまい。気をつけろよ」
「なぁに、いつもやっていることだ。お前こそ、しの殿に自害などさせるなよ」
六輔がうなずくのを見る間すら惜しいとばかりに、為五郎は廃屋から出ていった。
後に残ったのは六輔と、その妻おしのと、三太と下男二人に流民一人だ。
六輔はまず流民にむかってあぐらを組みなおして訊ねた。
「さて、お前の名はなんと言う」
「ぎ、銀兵衛です。あにきが、金兵衛で……」
銀兵衛がちらりとおしのを見た。その目に宿るわずかに恨みがましげな視線におしのがびくりと身を震わせた。金兵衛という男が、先ほどおしのに斬られて六輔に看取られた男だったのだろう。
「すまぬ」おしのは長身をまるめて何にも言えない。代わりに六輔が詫び言を入れた。「俺に出来ることなら、なんなりと言ってくれ」
「そ、そんなら旦那、俺を拾ってくれねぇか」
途端に下卑た笑いになったのは、おそらく生まれのせいだろう。遠州なまりではないが、銀兵衛の表情と声音は強者におもねる卑屈さが目立っていたが、眼はそれほど薄汚れてはいなかった。
「くず漁りでもなんでもいい。このまま旦那に許されてどっか行ってもながれもんのまんまだ。俺を助けたと思って拾ってくれ。嫌になったら捨ててもいい」
「むぅ……」
六輔は少し考え込んだ。この銀兵衛という男に対して、悪い感情は最初から無く、先ほどの罪を被るという言葉もうれしく思っていた。しかし、雇うとなると家禄の勘定をしなければならない。当然ながらそこまでの余裕はない。
「いや、わかった」
ひとしきり唸った後、六輔は膝を打つ。
「銀兵衛、お前は俺の家で預かろう。そして三太、五兵衛、安坊、お前たちはしばらく飯を減らす。それでいいな」
そう言って巨体をぶるんと揺らすと、
「へ、へぇ……」と三太たち下男がひれ伏し、
「だんなぁ……」と銀兵衛が涙ぐむ。
実際のところ、罪滅ぼしだった。おしのは銀兵衛の兄を斬り殺し、六輔はそれを助けることができなかった。さらに言えば、おしのを捕らえようとした時、銀兵衛が死んでもかまわないという気持ちで見ていたのだ。
(そう感謝されるような人間ではない)
むしろ銀兵衛のほうをあっぱれな奴と思っている。流民といっても、性根は良い人間なのだろう。
「ちょっと待て」
そう言って六輔が流民のほうへ向き直る。
「お前、いったい何の罪を犯していたのだ」
唐突な問いに銀兵衛のほうはぽかんと口を空けていた。
「いや、犠牲者は罪人と聞いていたから、俺も戻ってくるまでに手配書を読み返していたのだ。お前のようなものはいたかどうかわからんのだ」
「い、いや、それは……」
「俺がお前を拾うのはかまわんが、お前も罪人のはずだ。その罪はきっちりと罰せねばならぬ」
「手配されていただら、金兵衛のほうずらでさ」
しどろもどろになる銀兵衛の代わりに三太が答えた。
「金兵衛は近くの村で押し入りをして、夫婦を殺したそうずらで」
「まことか」
「あ、あのぅ……はい」
隠しても無駄だぞ、という六輔の視線を受けて、銀兵衛は堪忍したようだった。
「食うにも困って、あにきが先に入って、俺が見張ってました……女が騒いで、村のもんが集まってくるから、あにきが俺には先に逃げろって、それから、後で落ち合って……」
「お前は、殺してはいないのか……」
「へ、へぇ……」
六輔はまたじっと睨みつけた。
「女のほうを……押さえつけてました……おとなしくしてればよかったんですけど、暴れて、そこにあにきが、ぐさって……」
ほうっておけばすぐに嘘をつくものだ。これは銀兵衛だけが悪いのではない。時代のせいだった。騙されるほうが悪いとさえ言われる世の中だ。
「だがまあ、本当にお前が殺してはいないのだな」
こくこくとうなずく。それは真実のようだった。
「それなら、まあ、こちらも、お前の兄を死なせてしまった」
「……あんまり、仲のいいあにきでもなかったんで」
銀兵衛が複雑な心境を口にするが、その兄のほうは、死ぬ間際に弟のことを六輔に願った。しかしそれは今は言わなくていいことだろうと思って胸にしまった。
「だがなぁ」
六輔は腕を組んで、また別のことに頭を悩ました。
「八郎……殿がなんと裁かれるかはわからぬ。その次第によってはお前たちどころか俺の首も跳ぶ。安心するのはそれからにしておけ」
言い含めてから、六輔は座りなおし、ようやくおしのに正対した。
「しの……すまぬ」
「旦那さま……」
おしのもやっと口を開いた。
「俺は家のことは何の問題もないと思い込んでいたが、そうではなかった。なにひとつ気づいてはいなかった。すべて俺のせいだ」
「そんなことは……旦那さまはなにも……悪いのはあたしでございます」
六輔はそれ以上なにも言えず、おしのもまた黙ってしまった。六輔には気のきいた言葉がひとつも思い浮かばなかった。
「為五郎の言ったとおり、お前たちは屋敷に帰っていろ」
さらに、きつく言い含めた。
「それと、絶対に自ら首を吊って償おうなどと考えるな。これ以上、事を大きくしては本当に取り返しがつかなくなる。だから絶対に死ぬな。おとなしくしているのだぞ」
「……はい」
「銀兵衛」
「へ、へぇ」
「お前はこいつらが死んだりしないようしっかり見張っておいてくれ。いいな」
「わ、わかりやした」
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