第10話


 岡部左京進の陣地に戻って真っ先に六輔は眠ってしまった。部隊の損害、戦果の報告、首実検などしなければならないことは多いのに、六輔は今朝の残り物の雑炊を飲むように食べた後、眠ってしまった。

 結果的に、それが六輔の生存率を飛躍的に高めたといえるのだが、この時はただ全身に冷や汗が噴き出すだけだった。

「しまった」と、起き出した時には日が傾いており、多くの部隊は戦後報告を終えて眠りにつこうとしていた。

 六輔は慌てて配下たちを呼びつけた。

「なぜ起こさなかったのか」

「起こしましたさぁ、でもさぁ……」

 三太の困った顔に組下の者たちもうなずいた。

「旦那、おっそろしい顔で、唸るもんずら、刀も持ってるでさぁ……」

「……とにかく、岡部殿のところへ行かねば」

 寝癖で着崩れてしまった具足を直して、胸の傷にさらしを巻き直して六輔は岡部左京進の帷幕に向かう。

「やぁ、井戸殿。よく眠れましたか」

「は、はっ! 申し訳ありませぬ!」

 既に左京進の知るところとなっていた。六輔は思いつく限りの謝罪の言葉を述べ、戦勝を祝い、左京進から罰することはしないと返事をもらって、戦果の報告をした。

「とはいえ、拙者はさほど首級を挙げたのでもございませぬ。投石の働きさえ左京進様にお認めいただけさえすれば、一向に構いませぬ」

 考えていた台詞を出し終えると、

「きちんと把握しております。井戸殿の功労は十の将の首にも匹敵する功労です。左衛門佐殿に感謝いたします」

「ははぁっ! ありがたきお言葉にございます!」

 冷や汗を昂奮の熱に蒸発させると、六輔はよく謝意を尽くして辞去した。左衛門佐に、という言葉が出たのがやはり嬉しかった。

 ふと思い至った。

「これが、義の心かもしれぬ」

 六輔としては、今度の合戦に熱くなるものがなかった。それゆえか、自分の手柄ではないと言われるのを望んでいたのかもしれない。岡部左京進が六輔のその心まで汲み取ってそう言ってくれたかまではわからないが――

 六輔はあてがわれた陣屋に戻っていった。周囲は戦勝の余韻に酔いしれている。酒は許可されていないが、具足を脱いで汗を乾かし、許される限りの嗜好品を分け合って喜びを分かち合っていた。

 六輔も陣屋で配下を褒めてねぎらった。特に一人も死んでいないことを喜んだ。銭を出して陣内の輜重隊から魚の干物を人数分融通してもらって分け与えた。皆すぐにかまどの周りに刺したり吊るしたりして、熱い脂を出させてから頬張った。

 寝坊したせいか、六輔の隊が盛り上がる頃には他の隊は眠り始めていた。太陽が沈んで月が出て、岡部左京進の陣もかがり火を焚いて多くの者が眠りについた。

 六輔は一度寝ていた為、月が天頂に迎えられても起きていた。歩いて陣内を見回って見張りの者と談笑していた。

「おい、あれ……」

 かがり火の近くに立って雑談していた六輔たちの頭上――見張りの櫓から声が聞こえた。

「どうした」

 六輔は巨体に似合う大きな声で見張りに再確認した。しかし、あいまいな返事が返ってくるだけだった為、自ら櫓に登っていった。

「どうしたのだ」

「あそこに……なんか動いて……」

 相変わらすあいまいな反応をする見張りが指差すほうを見る。そこには漆黒の夜闇が広がっている。六輔は目を凝らしてみるが、霞がかっているようでよくわからない。

 だが、ふとした瞬間に、キラリと月明かりを反射するものが見えた。

 それが移動した。六輔は躊躇せず、櫓に備え付けてある半鐘を打ち鳴らした。

「敵襲ー! 敵襲! 敵襲!」

 六輔はあっけに取られている見張りに役目を思い出させると、櫓のはしごを下り、途中で飛び降りた。

 頭上では半鐘が鳴らされ続けて、喫緊性が伝播していく。

 にわかにざわめき出す陣内を六輔は駆けていく。巨体の長くて太い足が大地を踏み荒らす。陣の主である岡部左京進に見たもの――月明かりに反射した槍の光り――を報せなければならない。

 その瞬間、左右で爆発が起こった。

「ほうろくか!」

 火薬と鉄菱の詰まった手投げ爆弾による爆発が連続して起こり、櫓や指揮台が崩れてあちこちで悲鳴があがった。

 忍びの者が入り込んでいる。甲州乱波と呼ばれる凄腕の者たちだ。

 戦勝気分で宵の眠りに落ちていた陣内があっという間に混乱の坩堝と化していた。六輔が岡部左京進の帷幕に駆け込む寸前、恐怖そのもののような絶叫が飛び交った。

「騎馬じゃあ!」

「武田の騎馬が来るぞぉ!」

 言語として意味を成していたのは初めの数語だけで、後に続くのは言葉にならぬ悲鳴だけだった。背中越しでも燃え立つ陣営の狂熱が感じられる。内側を忍びが崩し、外から騎馬武者が突入する。壮絶な夜襲作戦の始まりだった。

「左京進様! 井戸六輔でござる!」

 名乗りをあげて飛び込んだ帷幕の中では、岡部左京進親綱が具足を着なおしているところだった。

「井戸殿、先ほどの声はあなたのですね」

「はっ!」

「おかげさまで、混乱は少なそうです。感謝せねば――」

 左京進の声のそこから先は聞こえなかった。帷幕の外から迫るけたたましい蹄の音が、この世の音の全てを支配したからだ。

「ぐぅっ!」 

 思わず六輔が耳を塞ぐと、岡部左京進も会話を打ち切って警戒を密にした。太い指が太刀を掴んだ時、帷幕が引き裂かれた。

「どぉぉっ! どぉぉっ!」

 強靭な甲州馬の無数の群脚が左京進めがけて押し迫ってくる。馬上の武者が槍を振って目に付く全ての者の首を刎ねようとする。六輔は抜いた太刀が偶然に槍先に当たった為に落命は免れたが、たたらを踏んで転倒した。

「殿ぉっ!」

 悲鳴は直後にくぐもった叫びに変わった。岡部左京進を庇った脇侍が喉を斬り裂かれて鮮血を迸らせた。

 起き上がった六輔は左京進の傍へ駆け寄り、彼の残った脇侍たちと共に左京進を守って帷幕の外へ逃がそうとした。

 奇妙なことに、陣地の大将の下に押し寄せながら、騎馬武者たちはそのまま駆け抜けていき、六輔たちを追いかけようとはしなかった。五十騎ほどだっただろうか。しかし、一命を取り留めたことを安堵する暇は六輔たちには与えられなかった。

 騎馬隊の後ろには喚声をあげて突っ込んでくる足軽たちがいた。いずれも胴鎧に篭手と傘だけの軽装で、二間超の長槍ではなく、一間の薙刀を持って、草を刈るように岡部隊の足軽を斬りつけつつ、その首を追うことなく、まっすぐに騎馬隊の通った後を追いかけていった。こちらは二百人ほどで、やはり岡部左京進など見向きもしなかったが、代わりとばかりに焙烙玉をあちこちに投げて爆炎を拡散した。

 六輔はとにかく岡部左京進とその配下たちと一緒になって逃げた。左京進の配下は二人だけだった。三太たちの安否が気にかかったが、自分の身も危なかった。

「やられたな」

 疾風の如き騎馬隊に岡部左京進の一千の陣は見事にかき回された。騎馬の蹄音は遠ざかっていき、もはや追いつけないであろう。

 そう思った矢先、再び半鐘の音が響き渡った。

「また来たぁぁぁ! 来たぞぉぉぉぉ!」

 六輔はうろたえた。篤実なる武士、岡部左京進もそうであった。終わりかと一息ついたところに、第二波が襲い掛かる波状攻撃であった。

「しまった」

 岡部左京進が唸った。

「井戸殿! 殿が危ない!」

 六輔の肩を掴んで切迫した表情で言った。その声音は既に戦場の強い語気に変わっていた。

「武田左京太夫の狙いは本陣の大殿でござる! ただちに本陣に向かって報せてくだされ!」

「そ、それがしがでありますか」

「左様! 貴殿しかおらぬ!」反論させる暇は与えないとばかりに左京進はまくしたてる。「私の許にはこの二人しかおらぬ! 今から伝令を組織しては間に合わぬのだ! 敵は騎馬の連続突撃によって我が軍の陣地を次々駆け抜けて、大殿のおわす本陣を奇襲するつもりでござる! 私はここで陣を張り直して後続の武田軍を食い止めねばなりませぬ! 無論、後から空馬を走らせ申す! なによりも速く与力の井戸殿に行ってもらいたい!」

 鼻先が触れそうな距離で、力士のような太い指が六輔の腕に食い込む。腕が折れるかと思うほどその力は強い。

「わかり申したか!」

「わ、わかっ、わかり申した!」

 ほとんど怒鳴るような要請に六尺の男も竦みあがった。転がるように下がる巨漢に守陣の大将が付け加えた。

「我が旗印を持っていってくだされ! 馬もじゃ!」

「は、はっ! そ、それがしの隊は!」

 言われるがままに左三つ巴の旗を掴んだ六輔が慌てて大声で訊ねた。

「我が隊の者たちはいかがいたせばよいですか!」

「こちらで預かり申す! 落ち着けば後を追わせましょう!」

「承知いたしました!」

「井戸殿!」

 既に両者の距離は三十歩ほども離れている。周囲の叫喚もあり、互いに大声を出し合わなければ聞き取れなかった。

「大殿は久遠寺におわす! 未申の方角に山に入られよ!」

「承知いたしました!」

 旗を脇に抱えて走る六輔は、陣中の馬つなぎをつかまえて手短に岡部左京進の言質を伝えて馬を拝借した。その際に手伝ってもらって、左三つ巴の旗を背中に差した。

 六輔は馬を駆った。左京進に言われた本陣の久遠寺は、ずっと南のほうにある。本来、本陣の場所は六輔のような足軽組頭程度では知ることがない。大声でそれを言うことには、よほど事態が切羽詰っているのだろう。武田左京太夫信虎は既に本陣の位置を探り当てており、一直線に向かわせているはずだ。元々富士川を上った身延の地は甲斐国の中であり、地の利を得ているのは左京信虎のほうである。加えて陣中にまで乱波が潜り込んでいたからには、こちらの内情は筒抜けといってもいいだろう。

 久遠寺は狭隘な山麓の少ない盆地である身延から南西にある身延山に立てられている。広い境内を有しており、大軍を置くには都合の良いところだが、先陣からの直線距離では深い山林を挟んでいる。地続きで行くにはぐるりと右回りに身延山を回らなければならない。六輔は馬を駆り、武田の歩兵二百人を見つけた時には、岡部隊の後背についていた孕石主水の陣の手前だった。

「捨て石に、使番か」

 六輔は独りごちた。今までとは違うことが多すぎて、合戦という実感が湧かない。以前は、城主の松井左衛門佐宗信の下で眼前に迫り来る足軽を追い払い、敵将を打ち倒すだけだった。六輔もそれを望んで、目的を達せられて時には手に提げた首の重みに充足を得ていた。

 異なる軍隊、異なる戦法、異なる役割――やることが決まっているから気楽にやれると初めは思っていたが、いざとなると、すべてが肩透かしに終わったようで、言うなれば振り上げた拳の下ろしどころがなくなったという具合だ。

「これからも、同じ合戦をするのだろうか」

 琵琶法師の語るような一騎打ちに美徳を感じる訳ではないが、槍を振るう合戦が出来なくなるのは、自分の身体にずいぶんと寂しい思いをさせるのだと知った。

「……しの」

 不意に呟いて、六輔は赤面した。今も二俣の寺にいる妻の身許を案じて恥ずかしくなった。頭を振って自分の現状を見つめなおした。

「今は伝令の任を全うせねば」

 騎乗の六輔は夜の身延の田畑を畦道に沿って突っ走っていた。その視線の先には武田菱の旗を背負った騎馬隊が乱入した孕石主水の陣があり、今しも武田歩兵二百人が突入しようとしていた。今川軍は一万人以上の動員をしているというが、その全てが有機的にひとつの陣形を為している訳ではない。まず三路に部隊を分けて、その最も激しい中央の先陣を岡部左京進が務め、その後背で孕石主水が五百人を率いて布陣しているのだが、その二つの陣営の間には柵も無ければ関所も無い。一つの陣を突破すれば次の陣まで彼らを遮るものは何も無いのである。

 拙い脳で六輔は地理を思い出した。身延の広い平野で富士川沿いに陣を張った岡部隊からまっすぐ南に下ったところに孕石隊がいる。武田騎馬隊はその道を駆け抜けていくだろうと思った。総大将、今川駿河守氏輝がいる本陣に突撃する為には、身延山をぐるりと回って、各所に点在する今川方の陣を突破していく必要がある。

 首を前後左右に動かすと、深更のどす黒い陰影を漂わせる身延山だけが見えた。言いようのない不安が腹の底から沸き起こった。岡部隊と孕石隊、二つの陣地の間で馬を止めた。後ろを振り返って岡部左京進親綱の陣を見ると、武田軍の第二陣の騎馬隊が突撃している最中のようで、激しい喧騒が月夜の澄んだ空気に乗って伝わってきた。

 真夏の盛りであり、日が落ちてもまだ熱は大地に残っている。馬を締める腿を中心に汗が染み出してくる。

 一方で孕石隊を見れば、こちらは混乱の気配が強かった。六輔がいた岡部左京進の陣では、疾風の如き第一陣を唖然と見送るだけだった。六輔が半鐘を鳴らしてから十分と経っておらず、防御体勢を整えるまでには短すぎた。岡部左京進の陣に突入した時とは違い、武田騎馬隊は速度を落として槍を振るいはじめた。半端に目覚めていた孕石隊の者たちが寝ぼけ眼のまま突き崩されていった。

 そこに武田の歩兵二百人が狂ったような声をあげて乗り込んでいった。追いかけて見ていた六輔は凄まじい攻勢に身を震わせた。

「あれが武田騎馬隊……!」

 混乱はすぐに狂乱へと変貌していった。月夜に噴き上がる黒血の全てが味方のものに思える。

 六輔は煮え立つ激情を抑える必要に迫られた。

「今の俺は伝令なのだ……!」

 手綱を強く握る。とても追いつけないと思っていた武田騎馬隊を、今なら追い越すことが出来る。しかしここで六輔が喚声をあげて武田軍の後背を突けば、孕石隊が盛り返す可能性も高い。

「すまぬ」

 考える時間は短かった。六輔は進路を逸らした。武田兵を避けて、孕石主水の陣の脇を通り過ぎることを選んだ。

(これが忠義か)

 仲間を見捨てて役目を全うする。それがこれほど心苦しく思うものだとは知らなかった。伝令など安全な距離で馬を走らせているだけだと思っていた。違うのだ。真に危機なる仲間を助ける為に走っているのだ。

「どう!」

 六輔は馬の首を撫でてから、強く腹を蹴って加速した。

 左の耳には斬る者と斬られる者の奇声が絶えず届いてくる。狂乱から逃げるように六輔はさらに加速した。

 馬は六輔という重荷を背負っているのに、よく走った。鞍を見れば、岡部左京進の旗印、左三つ巴が刻まれていた。左京進か配下の馬だったのだ。

「悪いことをした」

 おそらく六輔が旗印を持って伝令の役割をする為に、馬番も間違えたのだろう。名も知らぬ駿馬の力を借りて六輔は孕石主水の陣の脇を通り過ぎ、武田騎馬隊の先陣を追い抜くことが出来た。

 再度振り返ると、二つの陣は火をつけられて暗夜の空を明るく照らしていた。六輔は知らぬことだが、この時、岡部左京進の陣に第三陣の騎馬隊が突入していた。武田左京太夫信虎はこの夜襲に五つの騎馬隊を投入している。それぞれ五十の騎馬武者に二百人の歩兵が続き、次々突入することで今川駿河守氏輝のいる本陣まで駆け抜けようという策戦である。

 しかし、その策戦はいまのところ順調とは言えなかった。武田軍の先鋒は馬の息さえひそめさせた隠密の行動だったが、その刃のきらめきを偶然捉えた六輔によって、想定よりも早く奇襲を察せられてしまい、歴戦の勇将岡部左京進親綱が見事に陣形を再編成して第二陣の勢いを止めることに成功したのである。

 ただし、左京進の再編もにわか仕立てのものであり、完璧ではなかった。左京信虎は時を移さず第三波を送り込み、岡部左京進の堅陣をこじ開けさせた。その先では第一陣の先発隊が孕石隊の腹腔を散々に食い荒らして突破している。

 獰猛な獣の如き雄叫びをあげて夜道を駆ける騎馬隊の進攻は六輔にも伝わってきた。背中にビリビリと痺れが走る。

 徐々に右手にある身延山と左手に流れる富士川の間隔が狭まってきた。道の広さは変わらないが、田畑の密度と点在する陣屋の数が増えていった。

 突然、六輔は馬を止める必要に迫られた。左右の幅が最も狭くなったところに関が設けられており、固く閉ざされていたからである。

 番兵が誰何する。

「止まれ! 何者か!」

「岡部左京進の使いの者である! 本陣まで参る故に通されたし!」

 聞きかじりで覚えていた口上で名乗った。

 しかし番兵の態度は変わらず、喫緊性の欠片もなかった。

「ここはご一族である瀬名伊代守様の陣であるぞ!」

 だからなんだというのか。燃える松明を差し向けられて六輔は怒鳴り散らしたい気持ちになり、最低限の節度を保って実行した。

「それがしは先陣を務める岡部左京進の使いの者である! 武田軍はすぐそこまで迫っており申す! ただちに本陣まで報せねばならぬ故、お通し願いたい!」

 問答の手間すら惜しいと言下に訴えたが、関所の長と思しき者はまだ格子門の内側でふんぞり返っていた。

「確認をとって参る故、そちらで待たれよ」

「ばかな!」

 今度こそ憤激を解き放った。炎暑の残る夜気の中を駆け抜けてきた六輔の全身は大量の汗を滴らせており、肌も真っ赤に膨れ上がっている。分厚い皮膚をめくるように凄む六輔の面構えは、番兵が思わず槍先を向けてしまうほどに恐ろしいものとなっていた。

「悠長なことをしておればここにも武田が攻めてくるぞ! 既に孕石殿も破られた!」

「なんと言われようと、我らも殿の判断を仰がねばならぬ」

「なんの為の急使か……!」

 歯軋りし、問答無用で飛び込んでやろうかと思う六輔だったが、そこに思わぬ人物が割り込んできた。

「誰かと思えば六輔ではないか! なにをしておるか!」

 初老のいかつい叱声は聞き覚えのあるものだった。

「か、主計殿……!」

 遠江国二俣城の武将たちは投石隊として各隊に振り分けられている。松井主計宗保はこの隊にいたのか。いや、それならばおそらく――

「八郎……左衛門佐様もこちらにおられるので」

「そうじゃ、うむ、ちょいと待て」

 主計宗保が格子門を内側から開けさせる。そうさせてしまったからには六輔も下馬せざるを得ない。馬の手綱は掴んだまま上司武士に詰め寄る。

「主計殿! それがしは岡部左京進から火急の報せを預かり、大殿のおわす本陣に参らねばなりませぬ! 武田の騎馬隊は既に孕石殿の陣を突破してこちらに向かっており申す!」

 まだそこにいる関所の長にしたものと同じ内容をまくしたてる。苛立たしさを隠し切れなかった。

「落ち着け、六輔。敵襲の報せは我らも存じておる。武田の騎馬が来たとて、この陣を抜けられると思うか」

「ぬ、抜ける抜けられぬではございませぬ。それがしは伝令の任を果たさねば――」

「たわけ!」

 強烈な一喝が六輔の耳朶を叩いた。幼い頃からの反射で身を竦ませた六尺の大男に、城主の外叔父は松明の火勢を借りて鞭打つように叱りつける。

「伝令がおぬし一人と思うておるのか! 瀬名殿の陣にも伝令はおる。おぬしは瀬名殿の下に参り、事の次第をまず報せよ! その後に瀬名殿からあらためて伝令を送ることになるわ!」

「その時が惜しいと申しているのです!」

 反駁はほとんど逆上となっていた。

「叔父上!」

 六輔は先ほど左京進にされたように、正面から主計宗保の両肩を掴んだ。

「まだおわかりになりませぬか! 時間がないのです! 大殿のお命が惜しくれば、それがしは行きますぞ!」

「き、貴様……!」

 六輔の心情は説得や懇願の類であったが、主計宗保には恫喝や挑戦と捉えられたようだった。これは頼む側と頼まれる側の性格によるところの違いだった。

 主計宗保の手が太刀を意識している。六輔もそれを感じ取って肩を掴んだ姿勢のまま緊張した。

 ――叔父上は、俺を殺したいらしい。

 煮えたぎる釜のような声が蘇った。

 主計宗保にとって主君左衛門佐宗信が邪魔なら、当然、六輔も邪魔である。何か理由を見つければ、我が意を得たとばかりに首を刎ねるだろう。

(だが、俺を斬りたいはずはない)

 それだけはわかる。剛直な指南役として幼い頃から慕った武士だ。

(この方は武士なのだ)

 いかに栄誉や昇進を求めたとて、その性根にあるものは六輔とそう変わらぬはずだ。

「叔父上」もう一度、幼い頃に主君がそう呼んでいたのを真似して言っていた呼称で訴える。「それがしは行きますぞ。岡部左京進様の忠義を果たさねばなりませぬ」

「行くがいい、六輔」

 はっきりと認めた声は目の前の主計宗保から発声されたものではなかった。初老の武士はただ動揺して震えているだけだ。

 斜め向かいからこちらに歩いてくるのは、朱塗りの鎧兜を身に着けた青年当主であった。

「はち……左衛門佐様」

 六輔は上司の方から手を離して、ひざまずいた。

 松井左衛門佐宗信が若輩の友の肩を持ち、起こして言う。

「物見から報せがあった。武田の第一陣はこの陣には至らず、直前で大きく曲がり、身延山に入っていったという」

 その報告の恐ろしさは頭の悪い六輔でもわかった。右手に暗夜の身延山、左手に急流の富士川がある為、六輔は道なりに今川の陣営を駆け抜けてきたのだ。それを道を逸れて山に入ったということは――

「我らの知らぬ山中の抜け道を武田は知っているのだ。六輔もここを抜ければ本陣はすぐだ。今すぐゆけ! さもなくば間に合わん!」

「は、ははっ!」

 武田軍が抜け道を使い、どれほどの時間を短縮するかわからない。今から瀬名配下の使者をたてて送っても、敵襲に備える時間がとれるかもわからない。今は六輔が一番速い。

「瀬名殿にはわしから詫びを入れておく」

 背中でそれを聞きつつ、六輔は再度、馬に跨った。

「御免仕る!」

 腹を蹴って馬を走らせる。

 瀬名伊予守の陣は六輔たちの大騒ぎを聞いてあわただしくなっていた。その間を六輔は駆けていった。入る時の関は固く閉ざされていたが、出る時には関そのものが無かった。原野を走り、徐々に道が右曲がりに上っていった。

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