五章-03 「私はエリス・ロサ、争いを終焉に導く者よ!」
魔物とは、とルネは言う。
基本的に、血に誘われるものだ。吸血鬼ではなくとも、それは変わらないのだと。
特に君の血であれば覿面さ、とルネは笑った。それをエリスは、半信半疑で聞いていたのだけれど。
今宵は満月。新月に並んで、魔物が最も活発になる時期だという。
エリスは真夜中の公園で一人、ベンチに座っていた。シルヴァと最後にときを過ごした、あの公園だ。
エリスはルネから借りたワイングラスとワインを取り出した。ワインをワイングラスに注ぐ。
途端、ふわりとアルコールが香った。慣れた人には良い匂いなのかも知れないけれど、未成年のエリスにとってはアルコールはアルコールでしかない。
ワイングラスを隣に置く。その上に手を翳して、エリスはナイフを取り出した。
魔物とは、とルネは言う。
基本的に、血に誘われるものだ。吸血鬼ではなくとも、それは変わらないのだと。
息を飲んだ。恐いな、と本能的に思う。
恐い。傷つくことは恐い。けれど。
――二度とシルヴァに出会えないよりは、マシだろう。
ざくり、と手のひらにナイフを食い込ませた。途端に刺すような痛みが走って、エリスは歯を食いしばる。
泣きたいくらいに痛かった。本当に泣きたいのは心だった。
「……なんでいなくなったのよ、ばか」
ほんの少し、絞り出した血液をワインの中に滴らせる。数滴でも良いらしいけれど、気持ち傷つけすぎてしまった気がする。
本当にこんなもので良いのかしら、と弱気になる。けれど、できることはやってみるつもりだった。
持ってきた大きめの絆創膏を手のひらに貼り付ける。血液入りのワイングラスを持ち上げて、ゆらりと揺らした。
シルヴァのことを思い返す。
この公園でのことを最後に、シルヴァは姿を消した。どうしてかなんて、エリスには判らない。
どうしてシルヴァがエリスに近づいたかも。
「……本当に勝手ね、シルヴァは」
ぽつり、と呟く。それからはたと気づいた。シルヴァの名前をまともに呼ぶのは、実は初めてなのかも知れなかった。
何も知らなかったから。
何も教えて貰えなかったから。
何も知ろうとしなかったから。
何も教えて貰おうとしなかったから。
結局のところエリスとシルヴァは出会ったあのときから、近づいたようで近づいていなかったのだろう。
「それにしても、これで本当に来るのかしら……」
手持ち無沙汰に呟く。ワイングラスを揺らしたって、何が起こる訳でもない。
けれど、待つと決めたのだ。一晩だって、二晩だって、シルヴァが現れるまで待ってやろう。
「早く来なさいよ、ばか」
呟いた、そのときだった。
くい、と袖を引かれた。視線を落としても、何もいない。
否、いた。小さな猿のような、人間の顔をした生き物だ。
「きゃあっ!」
思わず悲鳴を上げる。そうだ、と頭の片隅で思う。
何も血の匂いに惹かれるのは、シルヴァだけではないだろう。そんな簡単なことに、何故気づかなかったのか――。
反応できないでいる内に、小さな魔物はあっという間にエリスの手を駆け上った。ワイングラスではなく、絆創膏で隠したばかりの傷がある左手にしがみつく。
があっ、と魔物が口を開けた。食われる。
「止め――」
止めようとした、瞬間だった。
大口を開けたまま、魔物が吹き飛んだ。思わず行方を眼で追ったエリスに、背中から声がかかる。
「エリス、愛しいエリス。何をしているの」
「……!」
「可愛い、愛しい、愚かなエリス。どうしてそんなことをしているの」
「――あなたに会いたかったからよ!」
待ち望んだ声だった。待ち望んだ立ち姿だった。
白銀の髪に、金の瞳。人の持つ色合いではないと、何故最初に気づかなかったのだろう。
立ち上がる。エリスは感情のまま、姿を見せたシルヴァに近づこうとした。
近づこうと、した。けれどどうしてか、体が動かない。
「シルヴァ、愚かなのはあなたよ。あなたは最初から、私を愛していた訳ではないのね」
「……エリス。愛しいエリス。僕はもちろん、君を愛しているとも」
「エリス・カサンドラよりも?」
問いかければ、シルヴァは悲しげな顔をした。
話し合える、とエリスは思った。少なくとも、当初理解を示さなかったアーメよりも、シルヴァのほうが通じる。
「エリスはエリスでしょう、エリス」
「いいえ、違うわ。私との交流の中で、あなたは既に知っているはずよ。私とエリス・カサンドラが異なることを」
ほとんど祈るように、エリスは言った。そうであれば良いという願いだった。
「私は、エリス・カサンドラとも今までのエリスとも違う。私はエリス・ロサ、争いを終焉に導く者よ!」
「僕は――」
シルヴァは、何事かを口にしようと、した。けれどふと口を噤んで、それから迷うように再び口を開く。
「僕に近づいてはいけないよ」
途端、エリスの体が鉛のように重くなった。意志とは関係なく体が崩れていく。
意識を失う瞬間、砂を噛むような声が届いた。
「僕は君を、殺したくはないんだ」
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