三章-04 「おいおい、冗談だろ」

 エリスは知らず閉じていた眼を開けた。

 エリスは、。先ほどと全く同じ景色がエリスを出迎える。

 ただ誰もいない風景を置き去りに。

「……シルヴァ?」

 エリスは呼びかけた。シルヴァの姿はどこにもなかった。

 ふら、と足を前に出す。キッチンカーまで置いてあるのに、中には誰もいない。

 賑わっていた人びとも、誰も。

「何てこと」

 独りごちて、エリスは周囲を見回した。煉瓦敷きの歩道に、青々と茂る緑陽。

 空は快晴で、雲一つ見えない。まるで綺麗な景色が、返って不気味だった。

 エリスを先ほど引きずり込んだ腕も、何も。

「誰か!」

 堪らず、エリスは声を上げた。耳を澄ませても何の返答もない。

 そこでようやく、エリスは気づいた。この空間の不気味さを助長するもの。

 音が、ないのだ。

 風があれば梢は靡き、多少なりと音はなる。本来あってしかるべき、自然の音すら存在しない。

「誰かいないの……」

 気づいてしまえば、気力が萎えるのに大した時間はかからなかった。誰もいない、音すらない不気味な空間で、エリスに何ができるというのか。

「駄目よ、エリス。こんなところで挫けては」

 自分を鼓舞するために、エリスは口に出した。何が何だかさっぱり判らなくとも、この場所に長居する気になれないことだけは確かだった。

 いつの間にかうつむいていた顔を上げて、歩き出す。公園の出口から出れば、何かしら変化があるかも知れない。

 公園の出口に佇むポールが、鈍く銀色に光を反射している。その銀色を横目に、エリスは公園を出た。

 否、正確には出たと思った。気づけばエリスは、ポールを背に公園の内側を向く形で立ち止まっていた。

「えっ」

 まるで何かの手品のようだ。危機感が麻痺してしまったのか、一瞬、そんな場違いなことを思った。

 そしてその、正面に。

 ずるりと手足の長い、何かがいる。

「……!」

 先ほどまでは確実に何もいなかった。だというのに忽然と、まるで最初からそこにいたみたいに。

 瞬き一つの間に舞台がすり替わったみたいに。

 ずるりと何本もの手を引きずる、例えば女みたいな生き物が、公園の真ん中に佇んでいた。

 手と同じくらい、髪が長い。ボサボサに乱れた髪の隙間から僅かに覗く裂けそうな口が、

 、と開いた。


 ――誰かいないの……


 どこかで聞いた言葉だ、と思った。数秒遅れて、先ほどのエリス自身の言葉であったことに気づく。


 ――駄目よ、エリス


 女が口を開く。開くたびに、まるで黒板を爪で引っ掻いたみたいに不快ながする。

 女の声とも、男の声ともつかない。けれど女を認識しているエリスは、それを女の声と認識した。


 ――駄目よ、エリス


 もう一度、女が繰り返す。その度に耳まで口が裂けて、眼を逸らしたくなってしまう。

 けれど、逸らすわけにはいかなかった。いつ遅いかかかってくるかも判らない相手を前に、眼をそらすことはできない。

 エリスは戦うことなどできないし、手持ちは小さなハンドバッグ一つだ。何ができるわけでもないけれど、それでも。

 せめてこの前の猫みたいに一撃お見舞いしてやろうと、エリスはぎゅっとハンドバッグの持ち手を握りしめた。


 ――駄目よ、エリス


 女は繰り返す。それしか判らなくなってしまったみたいに。

 ゆらり、と女が傾いだ。エリスは身を固くする。


 ――エリス、エリス、エリス、エリス


 パンプスに収まった小指が痛かった。靴擦れしたのかも知れない、と頭の片隅で思う。

 女が、と口を開けた。


 ――エリス! エリス! エリス!


 そこからの動きは速かった。這いつくばって、まるでムカデみたいな動きでこちらに迫ってくる。

「そんなに熱心に呼ばれなくたって、聞こえているわよ!」

 言ってエリスは、女かムカデかも判らないそれを迎え撃とうと、した。

 軽やかな声が割り込むまでは。

「おいおい、冗談だろ」

 見知った声だった。同時に、この場では聞こえるはずのない声だった。

「そんなもんで迎え撃とうとか、ウケんな。さすがエリスだよ」

 どこか笑ったような、斜に構えたような声が聞こえたと同時。

「寝てろ」

 同時にエリスは、ぷつんと意識を落とした。

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