二章-07 「格好良いじゃないの、シルヴァ」

 別に死ぬつもりなんてなかったのだ。だってエリスにはそんな、自己犠牲精神なんてさらさらない。

 けれど、だからって。見過ごして、見捨てて、それでのうのうと笑っていられるほど、つもりもない。

 詰まり要するに、シルヴァを庇ったのは大したことではない、単なるエリスのエゴだった。その結果誰がどう思うかなんてそんなこと、全く考えもしていない。

 死ぬとか生きるとか、大したことは考えていなかった。とてもシンプルで、言ってしまえば考えなしな行動だった。

 けれど別に、無傷で済むと思うほど楽観的でもなくて。だから、結果的に――。


 結果的にエリスは、何の覚悟もなく異形の前に飛び出す形になった。人の頭ほどの魚、魚のような何かが、ぐわりと牙を剥く。

 めしゃりと。

 自分の体積よりも大きく、明らかに異様な風体で。それこそ、人の頭くらい簡単に飲み込めそうな勢いで。


 はた、と。


 そこでようやく、エリスは我に返った。正確に言うならば、恐怖心が追いついた。

 逃げ出すにも、もうどうにもならない状況だったけれど。ただ恐くて、恐くて、先ほどまでの高揚はどこかに行ってしまって、エリスはひくりと喉を震わせた。

「――きゃあああぁぁっっ!」

 甲高い悲鳴を上げる。手足は動かなくて、ただ無力に悲鳴を上げることしかできない。

 そうしている間に、化け物の口はすぐそこまで迫っていた。もはや眼を閉じることもできずに、自らを食らおうとする口を呆然と見上げて――。


「それはよねえ」

 ごおっ、と低くて鈍い音とともに、眼の前が真っ赤に染まった。


「……!?」

 混乱する。赤い。赤くて、赤い。

 それから、熱い。

 炎だ、というのはしばらく経ってから気づいた。炎が眼の前に浮かんでいる。

 パチパチと何かが焼ける音が届く。それが例の魚だと気づいたのは、魚の焼ける匂いが鼻先まで漂ってきたからだ。

 普通よりもほんの少し泥臭く、生臭い。けれどあんな風体でも匂いは魚なのだ、となんだか妙なことを考えた。

 それからはた、とエリスは気づいた。気づくよりも先に力が抜けて、その場に座り込む。

 助かったのだ。

「な、に――」

 それからすぐに思い出す。シルヴァはどうしたのだろう。

 体を引きずって振り返る。視線を上げて、エリスは絶句した。

 異形が、――いた。

 大きな、狼が二足で立ち上がっていた。大きな口の、それこそ頭にかじり付かれたらひとたまりもなさそうな。

 それでもエリスが悲鳴を上げなかったのは、直感的に、それが誰かが判ったからだ。

「……シルヴァ?」

 半分ほどの確信をもって問いかける。答えるように、狼は身じろぎした。

 ひとが見れば、ひどく恐ろしい獣だった。それと同時にひどく美しい生き物のように思えた。

 眼だけが、優しい。

 もう一度、確信を持ってエリスは問うた。

「シルヴァ、あなたが助けてくれたのね」

「エリス、エリス」

 低い声だった。どこか、言い訳をする子どものような。

「ごめんよう、エリス。騙すつもりはなかったんだ。だって君に、嫌われたくなくて」

「騙されてなんかいないわ。私は別に、あなたが何だって興味はなかったもの」

 それよりも困ったことが、他にたくさんあったから、と冗談のように嘯いて。

「あなた、強いのね。驚いたわ」

「恐く、――ないの? 人間は、僕を見ると驚いて逃げていくものだよ」

「さあ、知らないわ。あなたが恐い生き物なのか恐くない生き物なのか、私は知らない。ただ私の眼から見て、あなたは恐くもなんともないわ」

 エリスは立ち上がった。立ち上がってから、いつの間にか座り込んでいたのだとようやく自覚した。

 振り返る。すでに炎は跡形もなく、魚の異形もどこにもない。

 あの炎に包まれれば、エリスはどうにもならないだろう。けれどあの炎は、エリスを一つも傷つけることなく消えた。

 守るための、――炎だった。

 再度シルヴァを見上げて、笑いかける。先ほどよりも視線が近づいて、けれどエリスよりも頭二つ分ほど高い。

 どうしたって異形の姿を認めて、エリスは笑いかけた。

「格好良いじゃないの、シルヴァ」

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