二章-04 シルヴァには、あまりに悪意がなかった。
エリスには親がいない。施設は学費や食事、最低限の文房具や遊具はくれるけれど、遊ぶお金までくれるわけではない。
だからエリスは、週に何度か放課後にアルバイトをしていた。エリスだけでなく、同じ施設に入っている子どもたちはみんな同じようにアルバイトをしていることが多い。
エリスの場合、内容はカフェでの接客。《弓張り姫》とは違ってお酒を扱うことはなく、客だっていつも何人かの常連が入っているだけの小さな店だ。
お酒は使わないし、店員と客が知った同士だから治安も良い。よくありがちな不自然に距離を詰めてくるような客もなく、店員と客として適切な距離を保ってくれる人たちばかりだ。
個人で経営しているから給料は少しだけ安いけれど、嫌なことはなく周りもみな優しいアルバイトをエリスは気に入っていた。けれど店を閉める時間まで残れば二十一時を過ぎてしまって、それだけは店主にいつも心配されているのだった。
「お疲れ様です、エリス」
人の良さそうな顔をして実際とんでもなく人の良いマスターが、穏やかに微笑みかけてくる。
お爺さんが営業しているようなのんびりとした雰囲気のお店だけれど、店主は若い男性だ。名前をサント・ピージュという。
営業時間は十五時から二十一時まで。聞いた話によると、朝から昼過ぎまでは教会で働いているらしい。実際の階級は知らないけれど、神父サントと親しまれているのだとか。
ルネに負けず劣らず美しい男に、エリスは微笑みを返した。
「お疲れ様です、マスター」
「今日もすっかり暗くなってしまいましたね。お送り致しますよ」
腹に一物を抱えていそうな――もしくは、余計な期待を持たせてしまいそうな――台詞だけれど、サントの場合はこれが完全な善意なのだ。
「いいえ、お気遣いなく」
いつもの心配ごとに、これもいつものようにエリスは首を振った。サントに送られた日には、彼のファンに後ろから刺されてしまいそうだ。
「エリス――」
ここで渋い顔をされるのも、いつものことだ。
「いつも言っていますが、あなたは女性という自覚をお持ちなさい。もちろん十分にお持ちだとは思いますが、ご自分の身の安全を軽視するのは未熟者のすることですよ」
「もちろん、危ないところは通らないようにしていますとも」
ときに親みたいな顔をする、このとんでもなく人の良い主人に少しだけ反抗したくなって、エリスはツンと澄まして言ってみた。
「人の、――悪意が」
それだけでは心配させるだけだろうからと、言葉を付け足す。
「集まるところは、判りやすいですもの」
口から出任せではなく、本当のことだった。はっきりと眼に見える訳ではないけれど、直感は鋭いほうだ。
あるいはそれは、不思議なものが見えるが故の副次的な力なのかも知れなかった。ときに彼らは、人の悪意に惹かれるものだから。
だから困るのだ、とエリスは思う。
とても困っていて、少しだけ迷惑な、あの銀色の男。邪険にしてしまえば良いだけなのに、どうしてもそれができないのは。
シルヴァには、あまりに悪意がなかった。
「では、マスター。ご機嫌よう」
思い返しながら扉を開ければ、ちりんとベルが鳴った。《弓張り姫》のベルよりも、少しだけ軽い音。
あの男の姿を、思い描いていたからだろうか。
眼の前に正しくその姿が現れて、エリスは自分の目を疑った。前にも同じようなことがあったな、と思う。
「え、……えっ、」
ろくな反応ができずにいる間に、するりと男――シルヴァが近寄ってくる。やはり邪気のない、悪意のない笑みを浮かべて。
「お帰り、エリス。迎えに来たよ」
「まあ……」
呆れて二の句が継げないエリスに、どうしてかシルヴァは嬉しそうだ。
「どうしてこのお店が判ったのかしら」
「それはもちろん、愛の力だとも」
ふざけたことを言うシルヴァに、エリスは半眼を向ける。
「ご存知? ムッシュ」
呆れて、けれどなんだかもうおかしくなってしまって、エリスは半分くらい笑いながら言った。
「それって、ストーカーって言うのよ。それで今日は、何のご用かしら」
「ご用がなくては君に会いに来てはいけないの? それは寂しいなあ」
嘯いて、シルヴァが肩をすくめる。それからひょいと、トートバックを掲げて見せた。
珍しいものを持っていると思って、気になってはいたのだ。トートバックの中を覗き込めば、何かの箱が入っているようだった。
「これは?」
「ボードゲームって言うんだ。知っているかい? 施設のみんなで遊んでくれたらと思って」
「ボードゲーム!」
エリスは思わず声を上げた。施設にもいくらかの遊具はあって、ボードゲームもあるけれど、これは見たことのないものだった。
携帯型や据え置きのゲーム機だと、子どもたちが喧嘩になってしまう。ボードゲームなら遊び方によっては大人数で一度に遊べるから、確かに施設に置いておくには最適だろう。
なぜ施設育ちであることを知っているのかということは、ひとまず置いておくことにした。トートバックをそろりと受け取って、こればかりは素直に礼を言う。
「ありがとう。嬉しいわ」
「君が喜んでくれるなら、それで良いんだ」
言ったシルヴァの顔には、やはり邪気も悪意もなかった。
「エリス? その方は――」
「マスター」
シルヴァに気を取られてサントがいることを忘れていた。振り返って、エリスは思いつきを口にした。
「わたし、シルヴァに送っていただくわ。だから心配しないで、マスター」
「あぁ、なるほど」
サントは何やら、納得したようだった。
「恋人が出来たのなら言ってくれれば良いのに」
「いいや、恋人じゃなくフィアンセさ」
二人の戯言を、エリスは容赦なく一蹴した。
「どちらも違います」
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