二章
二章-01 ――ルネ・プリンセッセとは、美しい女だった。
――ルネ・プリンセッセとは、美しい女だった。
「あっははは!」
エリスの身に起きた出来事を面白がり、たとえ全力で笑い転げていたとしても。ルネというのは全く、美しい女なのだった。
カフェ・バー《弓張り姫》でのことだった。
《弓張り姫》は、繁華街の在る一角の階段を数段降りた半地下に位置していた。カウンター席が二、三に、テーブル席が四組。
よく流れている音楽のジャンルを、ポップスしか聞かないエリスは知らない。ジャズのようだとも思うし、フォークソングのようだとも思う。そもそもエリスは、どちらのジャンルもよく判らない。
カウンターの上部には、逆さにされた様々な種類のグラスがぶら下がっている。話を聞くと一般的なグラスの収納方法の一つらしいのだけれど、お店で初めて見たときは見とれてしまったものだった。
暗めに統一した店内に、座り心地の良いソファ。中途半端な時間帯なのも合ってか、エリス以外の客の姿は見えなかった。
翌放課後、友人であるルネに前日のことを語って聞かせているところだった。
その結果が、これだ。話題を持ち込んだのは自分とはいえ、些か笑い過ぎではないか。
むう、とエリスがむくれた気配を察したのか、涙を細い指先で掬ったルネがようやく笑いを収めた。
「それはそれは、大変だったじゃないか、エリス」
「声が笑ってますよ」
最初から隠しきる気もなかったのか、うふふと笑う。無防備なその笑みがあまりに美しくて、エリスはどうしたってルネを許したくなってしまうのだった。
――ルネ・プリンセッセとは、全く、罪なほどに、あるいは罰なほどに、美しい女なのだった。
白い、白い、雪よりも白魚よりも白い指先に、ほんのりと爪にはピンクが乗っている。マニキュアも使っていないようなのに爪が綺麗なのはずるい、といつもエリスなどは思うのだった。爪が綺麗ならそれだけで、女性は美しく見える。
射干玉のように黒い髪に、翡翠めいた瞳。人が思う『美しい』という言葉を閉じ込めたようなかんばせ。ルネを前にするとエリスはいつも、女性としての嫉妬よりも芸術品を前にしたように感動してしまう。
その隣にいつものように佇むハーゼも、ルネに負けず劣らず美しい男だ。真っ白な髪に、血のような赤い瞳。
野兎、と彼が呼ばれていたことを思い出した。あるいはそれは、珍しい色彩を持つ彼に対する揶揄だったのだろうか。
「そういえば、ハーゼ」
「何でしょう、ロセ」
慇懃な、ハーゼなりに友好的な態度で返される。ハーゼの意識は九割がたルネに向いていて、ルネが楽しげにしているというそれだけで喜ばしげだ。
「シルヴァとはご友人かしら? なんだか知っている風だったから」
こんなにネタにしてしまって、友人だったらもしかしたら気を悪くするかも知れないという心遣いだった。
「いいえ、どうでしょう」
首を傾げて、ハーゼは言った。
「存在を知っていることを友人と呼ぶのならば、そうかも知れません。ただあの番犬は、我らにたまたま近い位置にいるという、それだけです」
回りくどい言い方に、エリスは眉を寄せた。世間一般では、それは友人と呼んで差し支えないはずだった。
また番犬、だ。後から聞いた男の名前――シルヴァというそうだ――とは似ても似つかない呼び名。
「番犬。この前も言っていたわね」
「はい。あれの本質は、犬のようなものですので」
人を犬呼ばわりするのは、エリスにとって快いことではない。少しだけ低くなったエリスの声に気づいているのかいないのか、ハーゼは涼しい顔だった。
エリスの気を宥めるように、横から口を挟んだのはルネだった。
「まあまあ、エリス。ハーゼは嫉妬しているのさ」
「嫉妬」
この状況で、ハーゼが誰に嫉妬するのだろう。首を傾げていると、ルネが補足した。
「ハーゼは私に関わる全てのものに嫉妬するからね」
「なるほど」
深く納得した。一拍を置いて気づく。
「ということは、あなたの友人でもあるということ? ルネ」
「さあ、どうだろう」
おかしなところで似たもの主従だ。変なところをはぐらかす。
「どちらかというと、――私の友人の、番犬かな」
「番犬」
やっぱり、番犬呼ばわりだ。首を傾げるエリスに、ルネはくつりと笑った。
「あれはさ、犬なんだよね。どうしたって、何をしていたって」
つい、と指先でテーブルに置いたグラスの縁をなぞる。その仕草がとんでもなく色っぽくて、エリスは慌てて視線を逸らした。
「群れを守り、」
ルネの声は心地よいアルトだ。とんでもなく発音が良い。
「番を守り、」
歌っているような、奏でているような。ただ、言葉を紡いでいるだけなのに。
「――己の主人を守る」
はた、とエリスは我に返った。特に何をされたわけでもないのに、ルネの声に酔っていたようだった。
ルネの声は麻薬のようで、魔法のようだ。ルネがハーゼ同様に不思議な力を操ることは知っているけれど、そうしていなくたって、ただ存在するだけで、ルネという生き物は周囲を惑わせる。
「犬はさ、執念深いよ」
するりと、ルネがグラスを滑らせた。眼の前にグラスが来て初めて、自分が頼んだグラスが空になっていたことに気づいた。
硬い水の炭酸水。
「ルネ、」
「サービス。面白い話を聞かせて貰ったしね。また続きを聞かせてよ」
「……続きなんてないわよ」
拗ねた声でエリスが言えば、ルネはくつりと品なく、だのに上品に喉を鳴らすのだった。
「あるよ、絶対に」
まるで規定事項のように。
「犬ってのは、執念深いものだからさ」
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