一章-04 「僕はね、お嫁さんを探してたんだ」
「ハーゼ」
「ご機嫌よう、ロサ」
ほっとしてエリスが呼びかければ、穏やかに微笑んでハーゼは頷いた。
目的の人物の一人だった。途中で合流できたのは運が良かったと、肩から力を抜く。
そんなエリスを見て、それから隣の男を見て、ハーゼは何故か一度だけ、瞬いた。微笑んで、頷く。
「ご機嫌よう、エリス」
「……? えぇ、ご機嫌よう。ハーゼ」
エリスは首を傾げた。挨拶が足りなかったのかと考えて、スカートを指で摘まんでカーテシーをする。
「ありがとう、助かったわ」
それでようやく納得したのか、ハーゼが頷いた。エリスに向かって手を伸ばす。
「お手をどうぞ、レディ」
「いいえ――」
断ろうと胸の前で手を振って初めて、その手が震えていることに気づいた。気づいてしまえばそれまでで、勝手に膝まで震え出す。
エリスは一つ、大きく呼吸した。男の手を取る。
「……お気遣いをありがとう。甘えるわ」
「よろしいことです」
エリスの震えなど知らない顔をして、ハーゼは言った。ざっと全身を見聞して眉を寄せる。
「怪我をしていますね。主が心配をします」
主、というのは彼の雇い主の女性のことだった。
無意識に美しい女性のことを思い浮かべる。彼女はいつも、酒と夜と月の匂いがする。
「店へどうぞ。ちょうど今からバータイムですよ」
はたと腕時計を確認すれば、十九時を示していた。いつの間にかこんなに時間が経っていたのか、と驚く。
お店の邪魔をするわけにはいかないと、エリスは今度こそ固辞しようとした。
「いいえ、お気遣いなく。ちょっと転んだだけよ」
「さようですか」
言いながら、手を離そうとはしない。
「けれどその傷では、歩くのも辛いでしょう。どうぞ、ロサ」
物腰は柔らかいが、動作は強引だった。ほとんど抱きかかえられるようにされて、小さく声を上げる。
「ちょっと、大丈夫よ」
言って足を動かした拍子に、エリスの足にひどい痛みが走った。もしも自分の足で立っていたら、座り込んでいたかも知れない。
先ほど、足を捻ったのだ――。ここまできてようやく、エリスは思いだした。
「怪我をしているのかい、エリス」
覚束ない、どこか夢見るような言葉遣いで、耳慣れぬ音が問うた。
否、知っている。ハーゼと会ったことですっかり存在が抜け落ちていた男に、エリスは視線を向けた。
「あなたは――」
男は、ひどく悲しげな顔をしていた。エリスの痛みを、そのまま感じているみたいに。
エリスが返事を迷っている間に、口を開いたのはハーゼだった。
「ご機嫌よう、番犬」
馴染んだ相手に呼びかけるような口調に、エリスは驚いた。知り合いだったのか。
それに、番犬。番犬とは、何だろう。
呼ばれた男のほうはと言えば、動じた様子はない。どこか地に足がつかない様子だったのが我を取り戻して、にこりと笑う。
「野兎さんだ。可愛いね」
「あなたに言われましても」
ハーゼの返答は、木で鼻をくくったようだ。
「これが主ならば、どれほど光栄でしょう」
「やあ、月のお姫様か。彼女は元気かい?」
馴染みのない言葉が、エリスの頭上を通り抜けていく。
困惑しているエリスに気づいたのだろう、ハーゼがエリスを抱え直した。微かな振動はあったのに足には痛みが響かないのだから、器用なものだった。
「とにかく、店に行きましょう。あなたが顔を見せれば、主も喜びますよ」
最近は部活だ勉強だといって、すっかり顔を見せないのだから、と。
本気ではないだろうけれど揶揄するような言葉に、エリスも冗談と判ったうえで首を竦めて見せた。
「ごめんなさい、ハーゼ。華の乙女は忙しいのよ」
「よろしいことです。無為な時間を持て余すよりは、よほど」
ハーゼの発音は綺麗で丁寧だけれど、会話はときどき噛み合わないことがある。合わせる気がないのだ、というのはエリスもすでに知っていた。
「車を回すほどではありませんね。店の近くまで来て頂けて良かった。助けられないところでした」
はた、とそこでようやくエリスは気づいた。色々とありすぎて忘れていたけれど、助けて貰ったのに礼の一つも言えていなかった。
「助けてくれてありがとう、ハーゼ。あなたに幸福を」
「こちらこそ、幸福を。怪我はあれど、ご無事で何よりです」
ひとを一人助けておきながら、ハーゼの態度はしらっとしたものだった。
ハーゼという人物は極端で、彼が主と呼ぶ人物以外にはほとんど興味を見せないのだった。こうしてエリスを助けたのだって、エリスが主の友人だからだろう。
「ところで随分と、面白い状況になっていたのですね。犬に追いかけられるのは子どもまでと相場が決まっているものと思っていましたが」
「そんなことはないと思うけれど――」
ハーゼの謎の思い込みをきっちりと否定してから、エリスは首を傾げた。
「わたしは巻き込まれただけよ。彼が、襲われていたものだから」
そこでようやく、エリスは気づいた。そういえば、男の名前すら聞いていない。
「探しものをしていてね。犬ならば探しものは得意だろうと思ったのだけれど」
思ったより短気で困っちゃったよ、と軽く言う。彼の言う犬が双頭の魔犬を示していることに、気づくのに少しかかった。
助けておいて今さらだけれど、本当に彼は困っていたのだろうか。
けれどそれよりも、気になることがあった。
「探しもの? あなた、あのとき探しものをしていたの」
エリスはぐるりと周囲を見回した。走り回る間にすっかり辺りは暗くなって、今からでは探しものは難しいだろう。
「まあ、大変だわ。貴重品ならば先に警察に届け出た方がよろしくてよ」
「きみはやさしいね、エリス」
にこ、と一つの曇りもなく男は微笑んだ。
「大丈夫だよ、探しものは見つかったから」
「まあ、そうなの。それは良かったけれど、でもあの状況でどうやって――」
言いかけて、エリスは口を噤んだ。男がひどく嬉しそうだったからだ。
「うん、見つけた。見つけたとも。ねえ、エリス」
歌うように、夢見るように、男は言った。宝物にでも触れるようにエリスの手をそっと握って。
「僕はね、お嫁さんを探してたんだ」
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