一章-03 「――泣いているの、エリス?」

 たぶん、足は震えていた。たぶんと言ったのは、そんなことを確認する余裕もなかったからだ。

「嘘でしょう、追いかけてくる!」

 後ろを振り向いて、エリスは悲鳴じみた声を上げた。二つ頭の犬が、よたよたと追いかけてきている。

 走り方は覚束ないのに、異様なほど速い。矛盾した動きがなおさら不気味だった。

 骨張った男の手を力の限り引っ掴んでいるのは、彼を助けるためではなかった。そうでもしないと力が抜けて、走ることができなくなってしまいそうだったからだ。

「なんで追いかけてくるのよ! あなたは何をしたの!」

 ほとんど責めるように、エリスはそう問うた。男が弱り切った声を上げる。

「そんなことを言われたって。ちょっと話しかけただけなのに、怒られちゃったよ」

「話しかけた!?」

 信じられない話に、エリスは愕然とした。

「あの化け物に? あなた、何を考えているの!」

「化け物だなんて――」

 ふと、男の声音が陰る。気を落としたのかも知れない。

「人間が認識する姿とちょっとばかり違うからって、化け物呼ばわりは悲しいよ」

「――、あなたね、」

 正論だった。けれど、そんな正論を聞きたい場面ではなかった。

「そんなことは、この状況をどうにかしてから言って!」

 叫ぶ間にもエリスは走り続けているし、密かな足音が後ろから追いかけてくる。エリスは後ろを振り返りたくなる衝動を堪えた。追いかけてきている姿を眼に入れてしまったら、きっともう走れない。

 ずっと不思議な生き物は見えていたエリスだけれど、こんな風に追いかけられるのは初めての出来事だった。明確な危機に直面することも。

 今日は初めて尽くしだ。出来るなら一生出くわしたくなかった『初めて』だった。

 走っているうちにすっかり日は暮れて、ぽつりぽつりと街灯が灯り始めている。その途中で、ふとエリスは気づいた。

 人が、――いない。学校帰りの住宅街は人が少ないといったって、決して全く人がいない訳はないのに。

 適当な家に飛び込もうか、という考えをエリスは捨てた。その選択肢は、最後に取っておきたかった。

 だって、それで誰もいなかったら、それはとてもとても恐いことじゃないか。恐いことからは、できるだけ眼をそらしていたかった。

「エリス、エリス」

 追いかけられているのにどこか暢気な声で、男が問いかけてくる。

「行く当てはあるのかい?」

「馬鹿なの、あなた!」

 品のない言葉を浴びせたのに大きな意味はなく、単純な八つ当たりだった。

 行く当ては、あった。けれどそれを説明する暇も惜しくて、エリスは口を引き結んだ。

 ――近い。正確に言えば、近くなっている。

 こうしてエリスが必死に走っている間にも。

 考えてみれば当たり前で、獣の――正確には獣の形をした何かの――脚力に、人間が敵う訳がないのだった。

 このままでは追いつかれる。エリスは判断し、闇雲に走っていた方向を変えた。

 住宅街から少し離れた繁華街を目指す。繁華街は道が入り組んで、愚直な速度勝負よりも分があるのではと考えたのだ。

 体力は多いほうだ。けれど走り続けていれば息が切れるのは当然で、石畳を蹴り続けた足も痛む。

 涙が滲んだ。泣いているのは恐怖ではなく、足の痛みのせいだと思った。


「――泣いているの、エリス?」


 朗らかな、どこか状況を判っていなさそうな、のんきな声音で問われるとほとんど同時に。

 エリスは繁華街の裏路地に飛び込んだ。飛び込んだと同時、空いている手でビールケースを力の限りひっくり返した。

 自分でも信じられないほどの力が出た。後ろでぎゃんっ、と獣の悲鳴がする。

 狙い通り、二つ頭の犬が崩れ落ちるビール瓶の下敷きになったのだ。店主に心の中で何度も謝りながら、視界の端だけで戦果を確認して再び走り出す。

 一瞬、気が緩んだ――それが悪かったのだろう。

 足が縺れた。足首に酷い痛みが走って、もう声も出ない。

 足首を痛めたのだ。思わず身を屈めて、動きが止まる。

 エリスがはっと顔を上げたのと、いきり立った犬が飛びかかってきたのはどちらが早かっただろう。

 もう駄目だ、と思った。思わず眼を瞑る。

「――怪我をしたの、エリス?」

 やはり柔らかな、状況を判っていなさそうな声と同時に。ざくっ、と鈍い音が聞こえた。獣が引きつった声を上げて、それを最後に沈黙する。

「……?」

 エリスはそろりと、瞼を上げた。

 眼の前で、男がきょとりとした顔をしている。その視線の先、見覚えのある男の姿を認めてエリスはほうと息を吐き出した。

「良い夜ですね、ロサ。をするには――」

 犬の姿が跡形もなくなった影の中で、一人の男が佇んでいた。銀色の髪を月の光に靡かせている。

 嘯くように言って、男は微笑んだ。


「いささか、月が足りませんが」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る