一章-02 その事実だけで十分だった。

 エリス・ロサには、不思議なものが見える。

 エリス・ロサは普通の少女である。


 これら二つは至って事実であって、それでいて矛盾するものではないとエリスは思っている。たとえその不思議なものたちが、他の友人たちには見えていないようであっても、だ。

「……だって別に、何ができるわけでも」

 ないもの。ひっそりと、エリスは独りごちた。

 授業が終わって、放課後のことだった。先生の手伝いをしていて遅くなってしまったから友人には先に帰って貰ったし、空は半分ほど暗くなろうとしている。

 空を見上げていた赤い瞳が、近い位置で焦点を結んで瞬いた。

 ぼんやりと歩くエリスの眼の前を、魚が泳いでいる。ピンクの鱗の、可愛らしい魚。

 空中を泳ぐ魚を視線だけで追いかけて、エリスはくすりと笑った。あんなに可愛らしいものばかりなら良いのに。

 不思議なものたちは友好的だったり、あるいは無害であったりするだけではなくて、ときには見える見えざるに関わらず人に危害を加えたりする。今日の不思議な小人のように。

 けれどエリスには、何ができるわけでもない。追い払うくらいならできるけれど、それだって一時的に遠ざけてやるくらいだ。

「――だから、」

 ふと、エリスは立ち止まった。

 ゆるりと足が遊んで円を描いたのには、大した意味はない。迷う心が足に現れただけだ。

 不思議なものを見たって、エリスにはできることがない。だから大抵の場合は、見えないふりをして無視してしまう。

 眼が合わないふりをして。気づかなかったふりをして。聞こえないふりをして。

 何もなかった顔をして。

「わたしには、」

 けれど、たまに。

 ――無視をできない、ことがある。たとえば、

「何もできないん、」

 走り出す。使い古したローファーが石畳と擦れて、足の裏が少しだけ痛む。

 そうしてエリスは、

「だってば!」

 手に持っていたペットボトルを、思いっきり振りかぶった。

 封を開けておいたペットボトルが傾いて、中身が飛び出していく。透明な甘ったるい炭酸水が、にめがけて。

 ――ぱしゃり。

「えっ、」

 周囲に甘い匂いが漂う。残念なことに目算は外れて、中身の大半はではなくその前でへたり込んでいた男に降りかかった。

 突然ベタベタの水浸しになった男が、ずれた眼鏡をそのまま振り返って間抜けな声を上げる。その男を顧みず、エリスは眼の前の何かを睨みつけた。

 何か、――まるで犬みたいな、けれど歪に一つの首から二つの頭を生やした何かを。

 犬の化け物と言えばケルベロスが浮かぶけれど、それほど整った見目をしてはいなかった。一つの体に複数の首ではなくて、一つの首に複数の頭。それがなおさら生命の理を無視しているように思えて、生理的な嫌悪感が胸に湧き上がる。

 きっと、無害で可愛い生き物ではない。それだけは確かだった。

 中途半端にかかった炭酸水に、犬は首を振っている。明らかに不自然な形をしているのに、そんな姿だけは普通の犬のようだった。

「あなた、あれが見えてるの?」

 男を見下ろさずに問う。こんな化け物の前でへたり込んでいたのだから、答えはわかっていた。

 けれど、だから。

 男が次に口に出した言葉は、エリスには予想外だった。


「――、」


「……なんで、私の名前を……」

 思わず振り返る。致命的な隙だった。

 犬が飛びかかってくる。人ほどの大きさの犬だ。堪らず押し倒される。

「きゃあっ!」

 悲鳴を上げて、がむしゃらに手足を振り回した。打ち付けたあちこちが痛むけれど、構っていられなかった。

「ぁ、――ぁ、エリス!」

 引きつるように名を呼んで、男が犬に体当たりをする。犬がバランスを崩したところを、エリスは脇腹に渾身の蹴りをたたき込んだ。

 何かをこんな風に蹴りつけるなんて、体育の授業を思い出したって人生で初めての経験だった。緊張感と、慣れないことをした事実に頭痛と耳鳴りがする。震える足で、それでもエリスは立ち上がった。

「あなた、」

 問おうとして、首を振った。いまは質問をする時間はなかった。

 ただ彼は、エリスを守るように犬に立ち向かった。その事実だけで十分だった。

 男の手を掴む。ひょろりと頼りないけれど無骨で、男性と女性は作りが違うのだと思い知るようだった。

「――逃げるわよっ!」

 叫んで、エリスは走り出した。

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