『口を開けろ、あ〜ん』
「終わった……長い一日が、漸く」
閉店を見届ける社員への引き継ぎと挨拶を済ませ、更衣室のロッカーに辿り着いてふと漏れ出るマイナス感情。
いかん、いかん。
帰宅するまでは気を引き締めねば。
途中で心が折れてしまえばそこまで、だ。
最速で着替えを終えてバス停へと急ぐ。いつもは運動を兼ねて駅まで向かう徒歩の道だが、今日ばかりは横着しても誰も叱りはしないだろう。
というか、私が許す!
さぁ、大野リカコ、今すぐバスに乗るのです!
百貨店の地下フロアで販売員として勤務して約三年。いかなる時も笑顔を忘れず、にこやかに穏やかに応対する日々。それは、如何に体調が優れなくても例外ではなく……。
「うぅ……ただいま。そして、おかえり」
暗がりの部屋に入って一直線。
なだれ込むようにソファに倒れる。
「あぁ……暗い…」
ピッ。
テーブルに置いた照明のリモコンを手だけでバタバタと探り、何とか明かりを点ける。
「うっ、眩しい。しかも……くぅぅっ!」
頭痛い!
お腹痛い!!
気持ち悪い!!!
今朝、怠い身体を無理矢理起こして脱いだパジャマも、気晴らしに読んでた雑誌も小説も開いたままで置きっ放し。ピンチハンガーの洗濯物はカーテンレールに引っ掛けて室内干しにしたままだし、何とか飲むことは出来たミルクティーのマグカップもシンクに幾つも洗われずに放置状態。
ぐ〜、ぎゅるる〜。
空腹だというのに動けない、否、動きたくない。
手を伸ばせば届く筈の、帰りに気合いと根性で買ったおにぎりと味噌汁カップがこの場所からはやけに遠く感じる。
「はぁ……もぅ、ツライ以外の何モノでもない」
久し振りにやって来た、やたらと重い生理痛。
悪さをした孫悟空の金輪よろしくキリキリと頭を締め続け、腰に十キログラムの米袋をまとい、持続性ボディブロウを時に激しく受ける、まさに苦行。
どれだけ意識を遠ざけたくても忘れさせてくれない、この痛みと苦しみが
数ヶ月に一度、憎しみを込めて願いたくなる、お一人様の侘びしい夜。
ブルブルブル、ブル―――。
ソファからだらりと落ちた指先に運良く置かれたバッグの中で、あなたからの着信だと確信できる特殊なバイブ音と共にスマホが震える。
『これから行っても良いか?』との問いに
「ごめん、今日はちょっと無理かな」と返す。
『すまん、先約か?』との問いに
「珍しく疲れただけ」と返す。
『大丈夫か?』との問いに
「大したこと無いよ、早く寝るし」と返す。
やや間があって、
『飯を持って行くが、希望は?』と問われ
「有るから大丈夫だよ?」と返した。
一体どうしたのだろう?
そんなに一緒に居たいのかな?
などと自惚れてみる。
いや、それはこちらの願望か。
独りになると我知らず縋りたくなるらしい。
とは言っても、この散らかるばかりの部屋には絶対に通せないので、今日のところは全力でお引き取り願うのである。
ピリリリ♪ ピリリリ♪
突然の通話着信。
表示は間違いなく、愛しのあなた。
先程まで遣り取りしていただけに出ないわけにはいかず、スマホを指でスライドする。
「もしもし、どうしたの? まさか運転中じゃないでしょうね?」
『ハンズフリーにしてるから構わねぇだろ? それより、ただの疲れならいいんだが、もし体調が悪いのならその理由を話せる範囲で言ってくれ』
その察知力はどこで磨いたのか?
今一番欲しい優しさを何気なく向けてくるって、本当にズルい。そんな優しさなんてご無沙汰だっただけに余計に沁みてくるし。
これはもう、甘えて良いよね?
「実は……頭とお腹が痛くて、ちょっとツライ。動けない訳じゃないんだけど、動きたくない……」
『吐き気は?』
「胃腸炎じゃないから熱もないし、大丈夫」
『ふむ……分かった。身体が温まるような飯を買っていくから、何もせずにそのまま寝てろ。腰を冷やさねぇようにな。くれぐれも片付けとかするなよ、いいな?』
うーん……これは感づいてるのか?
隠すほどの年齢でないとはいえ、諸々、鋭いというのはちょっと恥ずかしいものデス。
「ごめんね、お願いします……」と言えば
『謝る事じゃねぇよ』と笑う声が耳の奥に響く。
◆ ◆ ◆
あなたの声を聞いて安心したのか一瞬だけ意識が遠のき、気付けば渡した合鍵で入ったらしきあなたがキッチンに立っていた。
「悪ぃ、勝手に使ってる」
「ううん、ありがとう。美味しい匂いがする〜」
出来合いのものしか無ぇよ、と笑いながら汁物を温めているであろう鍋をかき混ぜている。
それだけで十分有難い。
「天ぷらは食えるか? うどんと白米、どちらに合わせる?」
「そうだなぁ……ぐるるる〜♪」
豪快な腹の虫にプッと吹き出して強制的に白米に決定。洗い物が少なく済むように天丼に仕上げてくれた。
「いただきます」
ずるずる、はふはふ、もぐもぐ、ごくん。
身体すべてに染み渡る。
「やっぱり、他人の『大丈夫』や『大したこと無い』ほど当てにならないものはねぇな」
「……すみません」
「出せば食えるなら、一安心だ」
「本当に……昔も今も、変わらず優しいね」
高校時代を思い出す。
別の学校でありながら、互いに友人と待ち合わせ中の駅前で声が届くか届かないかの微妙な距離を保ちつつ、互いの迷惑にならぬよう顔を合わせずにボソッと小声で話す日々。
私は悩みが尽きなくて、その度にこっそり相談して、あなたは言葉少なだけど真剣に聞いて時には導いてくれて―――。
「俺は何もしちゃいねぇよ。自発的に動くのは得意じゃねぇしな。でも、まぁ、誰かさんは〈強がりの頑張り屋〉だから先手打たねばと思ったのは事実だな。昨日今日出会った仲じゃねぇんだ、今更だろ。遠慮なく甘えろよ」
『人』という字は支え合い。
ひとりでどうこうせず手を伸ばせばいい。
払うことは絶対しないと信用できる相手ならば。
尚更。
「ところでリカコさんよ。俺の言うことを無視して部屋の片付けをしただろ。気にせず、下着もまんま干しとけよ」
「なっ、ちょっ、馬鹿じゃないの!? 出したままにするわけ無いじゃない!」
狼狽える私を観て、わはは、と楽しげに笑う。
「ほれ、じいちゃんが漬けたキュウリ。いい塩梅で美味いぞ、口を開けろ、あ~ん」
「じ、じ、自分で食べますからっっ!!」
言葉少ななあの頃が嘘のような、その豹変ぶり。
振り回されてばかりで悔しいったらない。
かと言って、この心地よい降伏を完全に受け入れるには、まだ早い。
抗って、抗って、逆に追い詰めてやるーっ!!
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