あの桜の下

平嶋 勇希

あの桜の下


一章 青年

 色あせてしまった紙。

  「あの桜の木を憶えていますか」という言葉から始まる手紙。

 彼女らしい書き始めとその丁寧で柔らかな文字を見た瞬間、誰かに優しく記憶を叩かれたような感覚がして涙が溢れた。僕は上官から渡されたその手紙をすべて読み終えて、声も出せず、息も吸うのも苦しくなるくらいに涙を流した。胸が熱くなっている。どれだけ経ってもその熱は引きそうになかった。なぜ彼女のことを簡単にあきらめたのだろう。探しもしていなかったことを後悔した。一度彼女を喪って、その時心にぽっかりと穴が開いたようになった。

 彼女の姿を思浮かべると涙が止まらなくなる。その涙が心の傷に沁みて痛いから、彼女のことを思い出すことを避けていた。彼女の記憶を消し去ろうとしていた。そんな僕がここで涙を流す資格はないかもしれない。それでもこの悔しさ、あるいはなつかしさ、彼女を喪ったときの虚しさなど、あらゆる種類の絵具を混ぜて灰色になった感情を整理することは難しかった。

 僕は上官に一言断って部屋を飛び出した。










二章 彼女

 森に囲まれた広い草原。その中央には満開に白い花を咲かせる桜の木があった。太陽の光に透かされて美しく優しい桃色を呈している。その桃色と同じ色の着物をまとった細身の歳若い女性が、桜の木に寄り添うように立っていた。

 心地よい風が吹く。暖かい日差しが草原を輝かせる。風で草がなびいて、風の流れを示すように光が揺れ動く。鼓膜を叩くのはその風と鳥の声だけ。他に邪魔するものは何もなかった。



――

 早く、会いたい。

 私の胸の中で強く脈打つのはその思い。でもなんとなくわかっていた。彼はここには来ない。来ないというよりは来れないのだろう。あの人が約束を破るはずがない。誠実で不器用だけどまっすぐで素直。簡単に彼のことを言い表すならこんな言葉になるが、もっとたくさんのことを、彼の何から何までを私は知っている。彼とはもう20年近く一緒にいたのだから。

 手紙には、会いたいという思いは書かないことにした。それを書いてしまうと彼を困らせることになる。今まで私の都合に巻き込んで、さんざん迷惑をかけてきた。


 彼には自由に生きてほしい。


私以外のもっと素敵な人と恋をして、その方との子をもうけて、幸せな家庭を築いてほしい。今この国は目まぐるしい進化を遂げている。激動の時代で、苦しいことや辛いこともあると思う。けど、そばにいる人を大切にしながら人生を歩んでほしい。私のことなど忘れてしまって構わない。ただ、昔、変な女がいたのだと、なんとなく遊んだ記憶があるなと、それくらいの認識でいい。

 私は手紙にそんな内容を書いて、知人に渡した。知人の彼は手紙を渡してくれるだろうか。けど渡してくれてもそうでなくてもどちらでもよかった。手紙を書き終えた時に、私のなかで、心の整理はついていたから。要するに覚悟ができたということ。私にとって大切ななにかを手放す覚悟が。これまでのようにそれを奪われるのでなく、お互いのために手放すということにようやく決心がついた。

 だから、私はここに来た。この桜の下で私は逝くことを選んだ。昔、ここに彼を連れてきた時、彼はとても喜んでくれた。こんなにも広大で綺麗なところがあるのかとはしゃいでいた。毎年、風が心地よくなって、日差しも暖かくなる時期にここを二人で訪れていた。一人で何十年もここに根ざしている桜。その木陰に座り、私が作ったおにぎりを次々と頬張る彼の無邪気な笑顔が忘れらない。今でも鮮明に思い出す。そのたびに心臓が熱を持って脈打つ。自然と口角が上がり、涙があふれた。

 彼と草原を散歩したりして、疲れるとまた桜の木陰で休む。座り込んでいろんな話をした。私はちゃんと憶えているよ。あなたは軍人になりたいと言っていた。私は過去の経験もあってそれを素直に喜べなかった。笑顔を顔に貼り付けて「とってもいい夢だね」と言った覚えがあるけどもそれは本心じゃなかった。彼は国ための戦うことに強い憧れがあるようだった。この激動の時代で日本を強くしたい、強くして世界でも戦える日本にしたいのだと言っていた。その目はきらきらと輝いていた。男の子らしい壮大な夢を私に語ってくれた。私はその時、彼が耳をふさぎたくなるようなことを考えていた。

 私は軍人を嫌悪していた。軍の権力者の命令により自分の意思と関係なく、男との性行為を命令された過去が私にはあった。下卑た笑みを浮かべる肥えた男にのしかかられる、そんな経験が何度か。それだけでなく無理やり犯されたこともあった。身体が裂けるような思いをした。けど本当に辛かったのは、行為の数分後の瞬間だった。

 私は彼に「国の為に働かなくてもいいじゃない。自分の為に静かに生活できれば」と言いそうになったが、それが口からこぼれないように抑えた。

 自分の為に静かに生活できれば。本心はそれだけではなかった。静かなこの田舎で、誰もいない二人だけの世界で、私のそばにいてほしい。それが私の願いだった。

 私は怪異な体質を持って生まれて、それを百年ほど前から国に利用されてきた。

 生まれ育った村からは迫害された。穢れた体だと言われた。石を投げつけられる私に、仲良くしていた幼馴染が向けた侮蔑の目が今でも忘れられない。

 私は村を出て人里離れた森の中で一人寂しく暮らしていた。私は不老不死であるようだったから、長いことそうしていたと思う。その中で誰一人とも出会わなかったわけではなかった。

 私を偶然見つけた人々は私を保護しようと優しくしてくれたが私はそれを、丁重に断り、そのたびに住まいを別の場所に移した。またあの時のように虐げられ傷つけるのがどうしても嫌で、怖かった。

 数十年もそんな暮らしをして、過去の迫害された経験が薄まっていたころに、私は一人の男と恋をした。私の過去を聞いても私を虐げることはなく、優しい言葉で包み込んでくれた。その男と長い時間を過ごした。私はその中で何度も彼に行為を要求された。私は私の怪異な特徴のすべてを告げてはいなかった。私は自身の体質を説明する勇気が出なかった。なんと言葉にしても信じてくれそうになかった。恋や愛の途中に体を重ねあう行為があることを理解はしていたが、私はどうしてもそれをしたくなかった。

 私の説明が拙いからだろう、彼は「自分のことを愛していないのか」と私の彼への思いに疑念を持ち始めた。そしてその疑念が溜まり、堰が壊れたように溢れ出して、私は彼に犯された。私は何度も彼の体をはねのけようとしたのだが、彼は涙を流しながら私に体を押し付けた。俺のことを愛していないのかと彼は何度も言った。そして行為の果てに彼は石になった。

 私は不老不死。そしてもう一つ、私と行為した者を石化させてしまう。彼は私の中で果てると体が内側が固まり、動けなくなる感覚に襲われたはずだ。そうして息すら吸えなくなり、絶命した。

 私は足の間から血を流して動けなくなり、力が入らなかった。彼の像を見たくなかった。おそらく今までの者たち同様、何が起こったがわからないまま苦悶の表情を浮かべているに違いなかったから。

 それからさらに人との接触を避けてきたのに、あなたは無邪気に私の心を溶かした。幼少期よりあなたを見守ってきた。立派な青年に成長していくその過程を見ることができた。あなたがとても優しくて、素直で、あまりにも可愛い笑顔を見せてくれるから、私はあなたに恋をしてしまった。私は正直にそれを告げた。まだ10代だったあなたに。私の過去とあなたへの好意を。あなたの経験からは想像できないはずの思いを、あなたは受け止めてくれた。

 だけど私はあなたに幸せになって欲しいから、私のような女ではなく別のだれかと人生の旅路を歩んで欲しかったから、もう会わないでほしいとも告げた。

 するとあなたは、

 「愛の形は様々あっていいと思う。僕はあなたと結婚できなくてもいい。あなたとの子供ができなくてもそれでいい。僕は、この静かな草原で、楽しくあなたと語らっていたい」

 誰も思いつかないような言葉を、息を漏らすように言った。その時の、太陽に照らされたあなたの笑顔が脳裏に焼き付いて、私の胸を焦がした。私の恋心が、子への慈愛、青年への好意、夫への愛情などが入り混じった特別な感情に色を変えた瞬間だった。


――

 最後にここで会えたらなと思っていた。私とあなたが引き裂かれて、でも二人で逃げようと言ってくれたあなたの言葉を信じてここにきた。

 目の前の桜を見つめた。その木の肌に触れる。手が震えて力が入らなくなってきた。

 あなたはおそらく来れない。どこかで来てくれるではないかと思ってしまう自分の心をもう捨ててしまいたい。先ほどから流れる涙を止める術を私は知らない。

 森の方を見つめた。さわさわと木々が揺れている。その森の中の暗闇から、私が心から愛した彼が歩いてきてくれないかと数分見つめた。

 だが感情の持たない風景がさわさわと揺れ続けるだけだった。

 

 足に力が入らない。

 私はその場に座り込んだ。そして四つん這いで這うようにして桜の木に近づいて、体を預けた。

 胸のあたりがこの桜に溶け込んでいくような感覚。そしてその数分後。足元から神経が死んでいくように、完全に力が抜けて何も感じなくなっていった。最初は足元、ふともも、腰、お腹。その感覚がゆっくりと私の顔に近づいてくる。


 いまどこで暮らしているのかな?

 軍の訓練はきつかった?

 嫌いな人や厳しい上官に悩まされてない?

 仕事は海外にも行くのかな?

 都会はやっぱり騒がしい?

 好きな人はできた?

 あなたの夢は叶えられた?


 頭に湧き上がってくるのは、死への実感に対する感想ではなかった。 

 私は幸せ者だ。

 最後に頭の中を埋め尽くしてくれるのが、彼への思いなのだから。









終章 再会

 「意外と近かったよ、結構走ったから汗だくになったけどね。汗臭かったらごめん」

 僕は彼女の隣で涙を流しながら謝った。返事を期待するような言葉を並べてみた。だって今にも眠りから覚めそうな顔をしているから。

 震える手を彼女の頬に添えた。固く、冷たい。石と変わらない。その灰色の見た目通りそこらの石を触るのと同じ感触が手のひらに広がる。

 ――僕は目を瞑ってみた。

 やっぱり。

 手の平に柔らかな白い肌に触れたようなぬくもりが伝わる。彼女はここにいるのだ。ただ、僕が来るのが遅くなったから眠ってしまっただけで。

 僕はそんな言葉を頭の中に並べながら涙を流していた。涙の雫が止まらない。僕の頬の上で川を作ってしまうくらいに、泣いた。

 彼女は両膝を曲げて桜の木にもたれ込むように座っていた。その姿は灰色の石の像になっている。この世でもっとも穏やかで、美しい像であることに間違いはなかった。彼女の像の下半身近くには蔦が少し巻き付いていた。その蔦のあちこちから小さな白い花が咲いていた。彼女のだらりと下がった腕と腰の間には小さなたんぽぽの花が開いていた。黄色い顔を彼女の間から覗かせている。この花たちは僕が来ない長い間、彼女を包み込み、優しく見守っていたのだろうか。

 彼女は安らかな表情を浮かべている。ほぼ無表情だと言われればそうだが、横から見るとすこし微笑んでいるように見える。

 僕は1時間ほど彼女のそばにいた。最初こそ、彼女の姿を見てどうしてもっと早くここに来れなかったのかと後悔で頭がいっぱいになっていた。何度もごめんと言いながら涙を流した。だが彼女の顔をぼやけた視界で見つめるうちに、僕が思う以上に、彼女が穏やかに眠っていることに気付いてから僕は謝るのをやめた。

 彼女が思い残すことがないような表情をしていたことに安心した。それでここに来れなかったことに対する罪悪感が止んだわけではない。だけどよかった。苦しみに囚われたままの最後でなくて。


 昔、この桜の木の下で彼女の過去を聞いた。


 彼女は虐げられたと言っていた。

 村人から石を投げつけられた。

 望まぬ相手との性行為を命令された。

 暴力を振るわれ無理やり犯されたこともあった。

 自分の怪異な体質で何人も人を殺した。

 優しかった愛する人さえ豹変させてしまった。

 その果てに彼を殺してしまい、人と会うのが怖くなった。

 それだけ苦しいことがあったというのに死ぬことはできなかった。


 彼女が諦めを顔に貼り付けながら言葉を並べていた。

 こんな人生があってたまるかと思った。彼女を包み込むことができない周りの人間や彼女を利用した人々を憎んだ。だがそれを口にはできず、何も言えないまま僕は考えこんだ。その後、彼女の体質を理解しない世界に対して、彼女の表情と同じように諦めのような念を抱いた。

 彼女の過去を聞いてから僕は、彼女を迫害した者を侮蔑し、彼女を慰めようとした。

 だが彼女は僕の言葉を最後まで待たず、言葉を続けた。


 けどあなたに会えた。

 小さいあなたが可愛かった。

 あなたと一緒に草原を駆けるのはいい運動になった。

 食べ盛りになって、私のおにぎりを美味しそうに食べてくれた。

 通っていた学校での出来事を楽しそうに語ってくれた。

 力持ちになったあなたは私の家の修理を手伝ってくれた。

 自分の夢をきらきらした瞳で聞かせてくれた。

 私の過去を聞いて、私の思いを汲むような言葉をかけてくれた。

 あなたの笑顔が私の心を溶かしてくれた。


 「百年の苦しみを忘れさせてくれるような、幸せな思い出をあなたはくれた」


――

 桜の木の下でそんな言葉を贈ってくれた彼女の優しい笑顔が、また目の前に現れた気がした。そしてそのぼんやりとした姿をした彼女が僕の胸の上に白い手を置いた。

 胸がじわりと熱くなった。


 そよ風が吹いて、ぼんやりとした彼女の輪郭が揺れて、桜吹雪と共に消えた。僕は空に舞った桜を見つめ続けた。

 そしてそれが見えなくなると、今度は眠る彼女の横顔を見つめた。

 僕は少しだけ、身を乗り出した。


 彼女の冷たい首に手を添えた。

 

 彼女の眠りを邪魔しないようゆっくり近づいて、唇を重ねた。


 「また、ね」


 僕の涙が一粒落ちて、彼女の頬が少しだけ濡れた。
























 

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