晩冬 あなたのひとしずくで無限に潤うわたし

 今日の私は、ある密かな想いを胸に抱いていた。

 それを暗示するように、カフェの広く切り取られた窓ガラスの外には冬の乾燥を潤す雨雲が低く垂れ込め、凍えそうな雨粒たちが幾筋もの跡をつけて滑り落ちていく。

 対して、久し振りに会って耳にするあなたの声は相変わらず軽やかだけど深くて、とても心地良い。


「さて、カホさん。今年の成績オールA判定をいただけそうかな?」


「私を誰だと思ってらっしゃる? 無理に決まってるじゃないですか。何とか耐えてくれと祈るだけで精一杯ですよ、ご馳走様です」


 一週間に及ぶ定期試験という苦しみを乗り越えて解放感に浸るこの身に、何という笑えない冗談をかましてくるのか、この人は。食事を終えてドリンク待ちのテーブル席に溜め息が一つ落とされる。

 当大学二年次の年度末試験は三年次への進級を賭けた重要な位置づけもあり、私はこの為に年末から準備を始めて自主学習に勤しんできた。初詣と二十歳の集いを除く約一ヶ月間、あなたと会うことも、通話もメッセージも最小限に留めて試験に臨む程に。

 そして先刻、(先輩方が仰る)事実上の大学生活最後の自由といっても過言ではない春季休業期間に突入し、この二ヶ月強を悔い無く満喫すると高らかに宣言したのだ。


 私を取り巻く環境は着々と変わりつつある。

 春を迎えて三年次ともなれば、就活や卒論に向けての準備に加えて国家資格の勉強にも身を入れて励まなければならず、一層せわしさが増す。こうしてあなたとのんびりと会えるのも、この春休みが終わるまでなのだ。

 そんな折、人間関係にも変化が訪れた。


「タナちゃんとアイサカくんが、お付き合いを始めた模様です」


 それは朗報だ、との呟きを逃さずキャッチ。

 でも聞かなかったふりをして先を続ける。


「漸く互いの矢印が双方向になって、ホッとした」


 そう答える笑顔が自然であれ、と願いながら。

 アイサカくんからのアプローチには毅然とした態度ではね退け、余計なお節介と知りつつもタナちゃんの背中をさり気なく押す。その間、目に見えての奏功が無く悶々とした日々を送っただけに、こうして無事に実を結んだ事はこの上ない喜びなのだ。

 この思いを感じ取ったあなたが、ふわっと笑う。


「二人の想いに寄り添い続けたその行動に、賛辞を送ろう」


「お褒めに預かり光栄です。アプローチに屈しない程、まーくんへの愛が重いっていう事かもよ?」


「残念でした。カホの重さはオレの足元にも及ばないよ」


「そうは見えないところが〈大人の余裕〉というヤツですかね」


「事実を知ったらドン引く以上に離れていくだろうから、そう簡単には曝さないけどね」


「勿体ぶらず、一部だけでも教えてくださいよ」


「知らぬが仏、だよ」


「むむむ、そうやってまた秘密主義をぶり返す」


「少しずつ、と伝えたでしょ?」


「だからこそ今でしょう、ハイッ!」


「今はそのお気持ちだけ頂戴します、ふふん♪」


 毎度のことながら、あなたが笑いへと転じるその胸の内。そっと探るだけに留める。どれだけ重くても全て支え受け止める準備は出来ている、と伝えるのはもう少し先に取っておくために。

 今は、丁度よいタイミングで届いたホットコーヒーとアイスカフェモカの香りで心を落ち着かせ、店内の喧騒に耳を傾けながら暫し沈黙を楽しもう。


 ストローを回せばカラカラと鳴る氷。

 この右手には光を集めて煌めくペアリング。

 あなたが自身に何かを課してきたように、キス止まりの関係を理由に呼び名と共に頑なに拒んできたお願いをクリスマスに叶えてもらって、早ひと月。これ以上ない喜びに浸る一方でとある罪の意識に苛まれ、今日こそは白状せねばと腹をくくる。

 先ずは、頬杖をついてグラスの中を見つめチュルッと吸ってひりつく喉を潤す。そして、あなたを真似て軽く笑いながら口を開くのだ。修行不足でこの仮面が剥がれ落ちないよう、気を配りながら。


「あのね、まーくん……私はね、なかなかにズルイ奴なんですよ。アイサカくんの気持ちを利用していたんです。知らないでしょう?」


 視線を落としたままで無意識に両手を組む。

 まるで何処かの信徒のように。

 そう、これは懺悔なのです。

 罪の赦しを得るための告白であり償いなのです。

 驚きながらも真剣な面持ちで次の言葉を待つあなたの包容力に甘えるだけ甘えて身を委ねる私を、本日もどうかお赦しください。


「高校時代に固めてしまった王子ポジションを、ゆっくりと溶かしてくれるまーくんが居るだけで十分なのに、外見で判断せずに周囲の女子と同じ扱いをしてくれるアイサカくんの態度が心地良くて、その安心感に浸りたくなったんです。恋人の贔屓目だけでなく、世間一般にも女子として通用するんだと自信を持ちたくて。

 それも好意が有ってこそだったけど、実際に王子ポジへの視線が確実に減ったから、余計に味を占めちゃったんだよね。相当な欲張りさんでしょ?

 お陰で、二人の貴重な時間を無駄にしちゃった。ホッとしたのは、その罪滅ぼしがやっと出来たっていう意味合いの方が強いんだと思う―――これって、もしや浮気したことになる?」

 

 恋人以外の好意を弄び優越に浸るその行為は、我欲丸出しの常識外れだと思ってきた。

 なのにあなたは、静かに耳を傾けてくれるだけでなく真っ直ぐな瞳を向けて優しく思いを語る。


「自分の欲に正直に生きた事は間違いではないし、アイサカの恋愛感情を弄ぶに等しい態度を示したわけでもないから浮気にすらなり得ないよ」


 ねぇ、こんなに出来た人ってこの世に存在する?

 物わかりの良さに驚き唖然としたのも束の間、


「でもね―――」


 あなたは少し表情を曇らせてその先を続ける。


「どれだけ惜しみない愛を注いでも、相対する枠組みが変われば何の役にも立たない、という事実は複雑だよねぇ……だから、改めて宣言しようじゃないの。更なる愛情をこれでもかと滞りなく注ぎ、カホがカホらしく在る為に支え続ける、ってね。ほら、オレの重さは桁違いでしょ?」


 最後に身を乗り出して得意気に人差し指を立て、ちょいちょいと振る様が少年っぽくて愛らしい。おまけに、胸の奥にわだかまったモヤモヤをすーっと取り除いていく魔法つき。

 敵わないなぁ、悔しいなぁ。

 でも、嬉しくてしょうがない。


「このあと仕事に戻らなきゃいけないのに、突然こんな話をしちゃってごめんね……」


「謝る必要はないよ。カホの深層心理まで覗けて、こちらが嬉しいくらいだし」


「まーくんは、私に甘過ぎるよ……」


「アメは高純度の甘さを追求し、ムチは傷をつけぬよう優しく振るう、がモットーなので」


「誠にありがたい限りです。では、ここで激甘げきあまーくんの愛の深さについて伺いたく―――」


「そうだ、カホさん。デザートなど如何ですか?」


「都合よく逃げたな。では、これでヨロシク♡」


「盛り盛りパフェ……しかも良きお値段……」


「別腹の構築完了! 呼び出します、むふふ〜♡」


 ピンポーン♪

 午後のひと時に笑い声と呼び出し音が重なる。

 降り続く雨はいつの間にか音をなくし、薄れゆく罪の意識とともに軽やかな綿毛となってフワフワと舞い降りていた。

 この告白が、降り積もるあなたの胸の内を溶かすきっかけとなればいいな。

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