EP10 因縁

 ……どうして、こうなってしまったんだろう。何度目かの自問を、チリエは今日もまた繰り返していた。

 カリト縦断鉄道の横転事故はまだトルプの人々の記憶にも新しい。そしてあの場に突如現れた謎の怪物――軍内部では通称として「黒霧のアイツ」と呼ばれるようになった――のことも、軍人たちの間ではそうだ。しかし、一般市民は後者を知らない。いや、正確に言うなら、知ってる人もいるはずなのに、噂が回ってこない。まるで緘口令でも敷かれたかのように、全国新聞、中部新聞、それこそトルプ市内のあれやこれやを漏れなく掲載することに定評のあるローカル紙すら、謎の怪物の件を一文も取り扱わないのだ。


「分からないことばっかりだなぁ……」


 そんなことを呟きながら、どこかうわの空で街を歩いていた彼女だったが、突然のデコピンにはっと我にかえり、立ち止まる。見ると、箒を片手にこちらを苦笑するアップルグリーンの瞳と金色のポニーテールが見えた。


「大丈夫ー? 朝からボーっとしちゃって」

「……誰かと思えばアイリーかぁ。ちょっと考え事してただけだよ」


 あはは、と乾いた笑い声が漏れる。

 振り返っても、ここ数週間であまりに多くのことが起きすぎていた。不定期に出没する仮面少年。彼によって無理矢理掘り返された嫌な記憶。上官とのいざこざ。黒霧のアイツ。軍上層部に残る根強い女性蔑視の露見。これでは考えることが多すぎて頭が痛くなるのも致し方ない。


「そう? 愚痴ならいくらでも聞くよ」

「ほんと? ありがと」

「いいってことよ。……今日は上司の人、いないの?」

「え?」

「いつも側にいる赤髪の柄悪い人のことだって。今日はおやすみ?」


 言われるまで気づいていなかったチリエは改めて辺りを見渡すが、ストックらしき姿はない。必死に記憶を辿っていると、一つの結論にたどり着いた。


「――今日は最初からいなかったね」

「あら、そうなの?」

「あはは~……」


 まただ。チリエはまた上官の指示無く勝手に単独行為をしてしまったのだ。……確信できる。後でお𠮟り確定だな。全力で明後日の方向へ視線を逸らすしかないチリエだった。

 しかし、その逸らした視界の端、建物の陰から何かが見えた。それが何なのかを理解するまでもなく、チリエの意識はすぐさまそれに持っていかれてしまう。


「……噓でしょ」

「え、チリエ? 突然どうし――ねぇちょっと⁉ どこ行くの⁉」


 アイリーの声も無視して、メイスの軸片手に市街地を駆け抜けてゆく。

 右。右。左。曲がり角を逐一曲がっていく黒マント姿に、彼女は見覚えがあった。――だ。二度と姿すら見たくなかったのに、どうして今になって……。そんな本音とは裏腹に、追う足は止まらない。

 ――どれくらい走っただろうか。気がつくと周りの景色はすっかり変わっていた。建物の数は減り、視界も少し開けてくる。やがて、街路樹にまばらに生えてきた葉が風に吹かれて、ざわざわと不穏な音を奏で始めた。胸の奥で何かが重たく沈むような不快な感覚と脇腹の痛み。見る人がいないのをいいことに彼女の表情は馬鹿正直に歪む。

 すると、前触れも何もなく、黒マントの人間が徐に立ち止まった。薄汚れた壁に蔦が這う、割と最近捨てられたらしい廃墟。荒れた息を整えるチリエに背を向けたまま、その人は言葉を紡ぎ始める。


「覚えていますか? ボクらの家だったこの場所を」


 少しざらつきのあるくぐもったその声に、チリエはばっと顔をあげ、そして確信した。


「……やっぱりあんただったのね」

「最初から分かっていたでしょう? でなければ、貴女様のことです、ここまでボクのことをしつこく追わないはず」


 ――何よその発言、気持ち悪っ。脊髄反射で浮かんだシンプルな悪口を吐き出さないように奥歯を噛みしめていると、ゆっくり彼が振り向いてきた。暗い青色の髪、銅色の仮面、そして幼さの残る雰囲気をまとう紫の瞳。……案の定、としかチリエには言いようがない。


「改めて、またお会いできて光栄です、ドーター様」

「その呼び方はやめて」

「なぜです? 貴女様はメシア様の血を引く唯一無二の存在にして、ただ一人神に見初められ、その身を神にささげる定めであったはず。……それなのに、どうして今もなお生きておられるのですか?」


 端が光を受けて反射する仮面の向こう、開かれたその目に光は宿っていない。声の調子は従順な信者――狂信者と評するにはいささか大げさに思えるそれ。しかし目の奥に見える色は、言葉は、真逆だった。


「ボクは全部全部知っていますよ。貴女様が軍を呼んでボクらの家を壊したことも、その後はボクらと違って普通の家庭に引き取られて悠々自適に暮らしているのも、やたら懐いている女軍人の影響で軍に志願したことも。そしてカリトの空がこんなにも淀んで、あちこちで騒ぎが起きているのも……。――貴女のせいです。貴女様がボクの言葉を受け入れていれば! 共に来ると答えていれば! いいやそもそもあの時貴女様が外になんて出なければ! こうはならなかっただろうに‼」


 雨が降ってきた。傘も雨除けの外套も持っていないから雨水を防ぐ策もなく、軍服が湿って重たくなっていく。ただでさえ大気汚染で淀み気味な空気に湿り気が加わったものだから、チリエが抱える負の感情は、ありとあらゆる最悪な環境に影響されて増していく一方だった。膨らむ嫌悪感、強くなる拒絶反応、そしてにわかに襲ってくる吐き気。目の前で紫の双眸を見開き、情緒不安定なイントネーションで叫ぶ彼を、彼女は睨みつけることしか出来ない。

 一方、彼はひとしきり叫ぶと突然目元に笑みを浮かべ、手を伸ばすなり目の前の彼女の腕を掴んだ。


「ですが、今ならやり直せますよ? ボクのもとに来てくれるなら、貴女様の身の安全は保障しましょう」


 ――気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!! 憎悪と不快感は強まるのに腕が動いてくれない。とにかく早くその手を振り払いたいのに、身体が言うことを聞いてくれない。どうして、どうして―――!?

 そんなチリエの焦りが伝わったのか、彼の手に力がかかった。


「ですがまだ貴女様が僕を拒むというのならば、仕方がありません」


 強引に腕を引かれ、紫の瞳が一気に近くなる。目を逸らしたいのに、どうしてだか逸らせない。明後日の方向に視線を向けるのを許さないとでも言わんばかりに、その視線には圧があった。そして――。


「……今度こそ、貴女様を神の御許へ」


 雨音に混じって囁かれたその言葉に、チリエの手から武器が滑り落ちた。

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