EP9 埋まらない溝

「なんてことをしてくれたんだてめえは!!」


 駐在所の廊下に響き渡る男の声。思わずその場にいた一般兵達の一切の動きが凍り付き、他方士官兵達は冷静に、声がした方に視線を向けた。

 半開きになっている内開きのドアの向こうから聞こえてくる言葉は荒く、いったん静まったかと思えば直ぐに声量二割増しで暴言が飛ぶ。ひたすらに中年男の声だけが響き、罵詈雑言認定スレスレのそれに反論する声はなかった。


「女のくせにいっちょ前に行動すんな! いい加減に俺の目の前から失せろ、目障りだ!!」


 ひときわ強い暴言――もはや暴言の域を超えているようにも聞こえるが――の後、廊下へ小柄な身体がはじき出され、ドアがバタンッと手荒い音を立てて閉められる。

 突き飛ばされたらしいその反動で壁に背中を打ち付け、そのまま蹲ってしまった一般兵――亜麻色のボブヘアーと上着の裾が長い女性用の軍服――は、間違いなくリーアだ。長い前髪で表情が見えない彼女の方へ駆けつける二つの影があった。


「リーア!」


 男ばかりの駐在所内では良くも悪くも分かりやすいハイトーンボイスに、リーアは顔をあげる。彼女の目の前にあったのは、これまた悪目立ちする薄ピンク色のサイドテールと、逆にありふれすぎてて目立ちにくい、後ろで小さくくくられたダークブロンドヘアー――チリエとグレンだった。


「……二人ともどうしてここに?」

「ものすごい音が聞こえたんで何事かと思って。――まぁオレはマクウォールに道連れにされて来たんですけども」

「ちょっと! 『あの声はオレの指導役の声だから念のために一緒に来てくれ』って言ったのはそっちでしょう!?」

「それはお前がたまたま近くに――っておいおいおい、言うなそれを大声で! あの人ドアの向こうにいるんだからさぁ!」


 ――本当に二人とも十六歳なの? そんな疑問が浮かぶくらいの、些かどころでなく子供っぽい言い争いを目の前で繰り広げられたリーアだったが、どこかそれが微笑ましくて、くすりと笑いがこぼれる。さっきまで背中に走っていた鈍痛も気のせいか引いた彼女はゆっくりと壁伝いに立ち上がろうとしたが、それに気付いたグレンがすっと手を差し出す。


「……えっ、と?」


 後輩の意図が上手く汲み取れず困惑するリーアだったが、彼の濃い青色の瞳から棘は感じられない。――逆に困らせちゃったかな、とでも言いたげに眉を下げる彼に、なんとなく意図が汲めたリーアはいつもの微笑を向けた。


「お気遣いありがとう。でも一人で立てるから大丈夫よ」


 そう言いながら言葉通り立ち上がったリーアだったが、後輩二人の心配そうな表情は変わらない。


「リーア、本当に大丈夫?」


 ――あの頃と同じ顔してるよ? 小声でそう零したチリエがぎゅっと軍服の裾を握ってきた。

 彼女が言うというのは、間違いなく六年前の秋――【秘匿のメシア事件】で軍内部がギスギスしていた頃のことだ。あの時の重苦しい空気や上官達からの冷たい視線、下級一等兵という軍においては最下層にあたる自分の立場に対する無力感、そしてそれらを全部かなぐり捨てて暴走しかける正義感――。まだまだ短い軍人生活の中でも一二を争うくらいに心を削っていたあの頃と、今私は同じ表情をしている?


「大丈夫よ」


 そんなことない。六年前からまったく成長していないわけがない。逆に成長していなかったら大問題だ。そんなの、この六年間をドブに捨てたも同義だ。


「軍に入った時から覚悟は決めていたもの。あれしきのこと、なんてことないわ」


 どうしよう。口から言葉があふれて止まらない。


「それから……グレン、だっけ? これからは、私のことは女扱いしなくていいからね」

「え? それってどういう――」

「その方が楽なの。下手に女性だからって忖度されるよりは、周りの人たちと同じように扱ってもらう方が、私としても他人にとってもね」


 ――どうして? 今思い出すべきはじゃないのに、どうして今それを思い出すの? それはもう十年以上前の話でしょう? 今とは状況も何もかも違うし、何より目の前の彼は私のことなんてほとんど知らない。こんなところで八つ当たりなんかしたってなにも意味ないのに――!


「だから今後、私のことは女扱いしてもらわなくて結構。普通に、先輩の一人として認識してくれればいい」


 声のトーンが無意識に下がって、アヴォストの声に近づいてしまう。さっき背中を打った時に前髪が少し乱れたせいだ。嗚呼、今の自分の表情が分からない。また私は自分の言葉で自分を……。


「でもリーア――」

「グレン、分かってくれる?」


 チリエの声を遮ったリーア・ヴォストのシアンの左目と前髪越しに微かに見える紅い右目が、グレンの薄くそばかすが残る顔を捉えている。深い青色の双眸が困惑したように床の方へ逸らされた後、暫し三人の間に静寂が訪れたが、やがて止めていた息を一気に吐き出すかのようにグレンの口が開かれた。


「……どうしても、というのであれば」


 その言葉に驚き、同期の腕を掴むチリエだったが、先輩の表情がいつもの微笑みに戻ったのを見てすぐにその手を離した。先ほどまで見えていた紅の右目は、窓から流れてきた風によって再び、完全に前髪の向こうへと隠れている。


「ありがとう、グレン」

「……あくまで仕事中の話ですが」

「えぇ、それで十分よ」


 後輩のその言葉に満足そうに頷くリーアと先輩の機嫌が直ったことに安堵するグレンの横で、チリエは不服そうに頬を膨らませていた。どうやら話題のこの着地点になんとも納得出来ていないようだが、くすりと笑い声を溢したリーアの表情はいつもと同じ微笑だ。

 が、突然グレンの肩が掴まれ、後ろへ引き上げられる。見るとそこには、一人の中年の士官兵――羽織っている片掛マントの柄と丈からして中佐階級か――が、不機嫌極まりないとでも言いたげな表情で立っていた。


「何油売ってんだ。こっち来い」


 ドスの効いた低い声に震え上がる一般兵達だったが、その中佐はグレンを強引に輪からはがす以外に何もしてこなかった。

 張りつめていた空気が徐々に緩んでいく。そうしてゆっくり吐き出した息に乗せて、リーアがこんなことを言い始める。


「…………ごめんね」


 悲しげに微笑まれながらぽつりと零されたその言葉に、チリエは何も言い返すことが出来なかった。

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