EP8 夜の始まり
辺りに漂う、漏れた燃料の物らしき異臭。横転した先頭車両の中で空気を媒介に混ざる、女性のうめき声と怪物の咆哮。そして、割れた窓から差し込む夕日。――彼女の目の前に広がるその景色に、美しさなど微塵もない。
「……リーアと代わってて正解、だな」
ピジョンブラッドのルビーを思い起こす紅い右目で真っ直ぐ怪物を見据えながら、リーア・ヴォスト――もとい、アヴォストは、少年のような声を漏らす。彼女は足元に転がる後輩の身体を一瞥すると、らしくなく震える右腕を左手で支えながら、手のナイフの先を怪物の胸――気体じゃなければ心臓があるはずの場所に向ける。
刹那、彼女は女性と怪物のほうへ向かって駆け出す。しかし、足音は控えめに。
「ああああああああああ!!」
「ゴゥァーーーーーーーーーー!!」
何かから逃れたいとでも言わんばかりに激しく首を振る怪物。その足元で首と胸を押さえながら泣きわめく女性。――アヴォストはそんな一人と一体の背後に回り、怪物の背中、背骨があるはずの場所を狙って一発、ハイキックをお見舞いする。
その瞬間のことだった。
「がっ――!?」
さっきまで蹲っていた女性が目を見開きながらエビぞりになり、固まったのは。……怪物の方は無反応なのにもかかわらず。
「……は?」
アヴォストにとって、今起こったことは全くもって理解不能だったが、同時にいくつかの新たな事実に気付く。
――女性の白目が黒い。加えて頬や首、手首にも赤いミミズ腫れがある。
それらを認知してすぐ、頭の中で女性――リーア精神の声がした気がしたアヴォストは、右手のナイフを怪物の背中に向けながらふっと目をつむる。
『な、何あれ……?』
「……何怖気づいてんの?」
『だ、だって……』
「はぁ……。……取り敢えずどうやってこいつをとっちめるかね。良い案ない?」
『そ、そういわれても――』
「ぐずぐずしてる暇はないんだけど」
『うぅ……』
そんな主精神と第二精神の会話は、第三者の声によって遮られる。
「おいリーア、無事か――」
目を開けて声がしたほうを見上げると、そこにはストックとジャックスの姿があった。
――が、目が合ってすぐ、二人の姿はなくなる。アヴォストの真横スレスレから怪物の前足二本が爆速で伸び、二人を外へ突き飛ばしたからだ。直後、ガシャンと何かが落ちた音も鳴る。既に日は沈んでいるので、誰かが二人にランタンでも渡したのだろう。そしてそれが二人の巻き添えを食った――といったところか。ただ、肉体が石畳にたたきつけられる音はしなかったから、二人とも何とか途中で持ちこたえたようなのは明らかだったが。
「あっっっっぶな!?」
「まったくだ…………地面にたたきつけられるかと……」
「ったく――本当に今日は散々だなぁ!」
「チリエも結局下敷きにされたしな」
「――おい、よくそんな吞気な口を叩けるなてめぇ」
「事実を言ったまでだが」
「だー、むかつくな本当!」
相変わらず会話は平常運転の上官達からは早々に興味を失くし、アヴォストは再び目の前の怪物に視線を戻した。夜の暗さに同化して位置が分かりづらいが、どうにかうなり声だけで場所を探る。――さっきと場所は変わっていない。いい加減ケリをつけないとまずい。
『アヴォスト』
頭の中で再びリーア精神が口を開き、こう続ける。
『あのミミズ腫れ、今思うとなんとなく鎖っぽくなかった?』
「は?」
『鎖というか、細めのチェーン? とにかく、普通のじゃなかったの』
「……何が言いたいわけ?」
『――ミミズ腫れをナイフで切って。首元は怖いから、手首の方のをね』
普段は相手に刃物を向けることは断固拒否するリーア精神からのその言葉に、アヴォストは思わず目を見開く。だがそれも一瞬のことで、彼女はすぐにナイフを握りなおすと、足音は控えめに女性のほうへ歩を進め、女性の左手首を掴む。
――ひゅん、と風と皮膚を切る音が小さく鳴った。
暗闇に慣れたアヴォストの目がその時捉えたのは、盲目の怪物がゆっくりと女性の身体から離れてその場で霧散する一部始終。
「……最後まで訳分かんなかったな」
そう呟いてため息をつくアヴォストだったが、俯いた弾みで前髪が元の位置に戻ってしまう。
「…………お疲れさま、アヴォスト」
次に顔を上げた時、リーアのシアンブルーの左目には疲労感がにじみ出ていた。
*
翌日昼間。チリエは軍病院で目を覚ました。
「お、起きたか」
ベッド横、窓辺で一服していたストックが彼女の目覚めに気付いて首をひねる。窓から容赦なく逆流してくるタバコの臭いに寝起き早々から顔をしかめるチリエだったが、文句を言おうと口を開けてすぐに咳き込んでしまった。それを見て、すぐに吸殻を粉砕してスツールに腰掛けるストック。彼もまた、右手のほとんどの指に包帯が巻かれていた。
「あ~、無理すんなよ。てめぇ下敷きにされてる間に無理やり息しようとしてたから、多分色々なトコ痛めてるだろうし」
図星なチリエは誤魔化すように掛け布団にくるまって顔を隠す。咳は治まったが、まだ少し息辛かった。
「昨晩のあれ、結局原因は不明なんだとさ」
ベッドの上で丸まる部下のほうを見つつ、ストックは持ってるだけの情報を言い始めた。
――謎の黒い怪物が現れる原因とされた女性は、生まれつき目が見えないという。何故あんなことになったのか……現在進行形で軍による事情聴取は進んでいるが、女性の反応からしても収穫は少なそうだとか。
そして、何故あの時路面鉄道が暴走脱線事故を起こしたのか……これもまだ原因究明中だという。
つまり、あの日チリエやストックが見た状況以外の一切が不明。
「何でこう面倒なことになるかねぇ」
窓の外の天気はいまいちパッとしない。ため息交じりの上官の声に、チリエものそのそと団子状態から脱して、同じ様に窓の外の景色に視線を向ける。
その時、チリエだけがある違和感に気付いた。
――国境線上に建つ、石造りと思しき城壁。その色が、普段と違って赤紫がかった色に変わっていることを。
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