EP4 Daughter

 夜というのは、なんとも不思議な時間だ。こういった変な出会いが起こることもある。――とはいったって、これはあまりにも不気味な出会い方ではなかろうか。ストックは静かに息をつく。


 一方、覆面姿の少年の紫の瞳は、ランタンを突き出して自分の方を睨みつける桃髪の少女――チリエの方を見ていた。目元以外はほぼ全て、仮面なりマスクなりで隠されているせいで、彼の表情は殆ど分からない。


「……おい少年。歳はいくつだ。声の高さからして結構若そうだが」


 チリエの口を塞いだまま、ストックがやや控えめな声量で少年に問う。まだ幼さの残る、しかし少年というにはやや低めの……恐らく声変わりの最中だろう、そんな声。大体十四歳……もしかしたら十五歳くらいかと試算できたが、対する少年はうんともすんとも返さない。ただ、ストックを見上げるだけだ。


 ……黙られても困る。六年前――当時まだ幼かったチリエが起こした、あの夜間の逃走劇が発端となった例の一件以降、十五歳未満(この国の成人年齢は十五歳なので、実質未成年)の少年少女が夜中に一人で街中に出ることに対する、軍の取り締まりが強化されている。従って、今目の前にいる覆面ボーイがもし十五歳未満だった場合、ストックら軍部は彼を家に帰すか、或いは軍で一時的に保護して事情を聴かないといけなくなる。

 それに、別に口頭で言わなくとも、国から発行される身分証明書を見せてくれればこちらも一発で判断ができるのに、少年はそれすら見せるそぶりを見せない。

 延々と続く静寂に、ストックはだんだん腹が立ってきた。


「――言いたくねえってことか。なら――」


 舌打ちした彼は、思い出したようにチリエの口元から手をどけると、少年の方へ足を踏み出そうとする。

 が、しかし。


「ボクは貴女に用があるんですよ、貴方には関係ありません」


 その声と共に、どこからか取り出してきた小型ナイフの刃先がストックに向けられた。そして、少年の視線は再び、チリエの方に戻されている。


「……戻ってきてくださいよ、ボク達の家に。さすればまた、神はボク達を守護してくださる、再び楽園への道が示される――!」


 既視感のある語り口に、チリエの表情が不快に歪む。あの三年間の、空虚で薄気味悪く狂った声に支配された記憶を、無理やり思い出させられるこの感覚に、彼女は吐き気すら催したが、さすがにそれはこらえた。それでも、何とかひねり出した声から嫌悪感を排除することは出来ない。彼女の手が下り、ランタンが落ちるが、本人が気づくそぶりはない。


「…………何を言っているの、あんた――」

「今がその時なのです。壊れた籠から飛び去ってしまった、神に愛されし聖なるを、再び――」


 刹那、少年の首元に向けられる筆槍。それを男二人が視認するよりも先に、鋭利な槍先が、少年の数少ない露出部位である首の皮を掠め、浅めに横線一本、切り傷を残す。そして槍を振った遠心力で、槍先とは反対側に付けられた鉄製のキャップが少年の胴に向くように素早く持ち替えられ、間もなく鉄キャップが付いた木の棒が少年の鳩尾めがけて投げつけられ、猛スピードで直進する。

 【フレキシブルメイス】を投げつけた当人の黄色い左目には怒りと嫌悪感が濃縮され、もはや隠す気もない殺意が表情に色濃く表れていた。が、投げた筆槍はさらりと避けられてしまう。

 カランと音を立てて石畳に落ちる【フレキシブルメイス】。四つ角の向こうに消える黒いクローク。ストックの制止の声が出るよりも先にチリエの足は動き、少年を追う。

 しかし、そこまでだった。四つ角の向こう、闇に満ちたその路地に、少年はすっかり紛れてしまっていた。

 ――ストックの手が、呆然と立ち尽くす彼女の肩を掴む。


「――チリエ。戻ったら説教な」


 彼の口から出た、普段のそれよりも数段低くドスの効いた声に、チリエの肩が小さく震えた。



 翌朝。チリエは仮眠室で目を覚ました。表情はいまいち晴れず、頬には寝ている間に流れたらしい涙の跡が残っている。

 というのも昨晩、夜間巡視が終わってから、彼女は延べ一時間半にわたって上官からお叱りを受けたのだ。指示に反抗的な態度をとったこと。指示もなしに勝手に武器を出したうえ、正当な理由がつけられないような場所に傷をつけたこと。そして、相変わらず感情が高ぶると敬語が抜けること。反論する隙も与えられずにひたすらに怒られ、すっかり彼女のメンタルはやられてしまっていた。


「……うええぇぇん……」


 タオルが巻かれた枕に突っ伏し、足をバタバタさせながらぐずつくチリエ。そんな彼女のもとに、一人の兵士が近付いてきた。


「マクウォール~、ディラー大尉が探して……」


 近付いてくる兵士の正体はグレンだった。彼とチリエは所属する中隊が違う上に、彼は肩にショルダーバッグを掛けているので、どうもついさっき駐在所に来たところらしい。そんな彼の声に反応して枕から顔を上げたチリエを見て、彼はしばし固まってしまった。


「……何かあったのか?」

「何もない」

「え、でも、目――」

「何もないってば!」


 チリエは強がっているが、黄色の左目は白目部分が充血し、全体的に潤んでいる。どこからどう見てもさっきまで泣いていたようにしか見えないが、彼女の目つきは嫌にきつい。


「大尉が呼んでるんだっけ? 分かったよ、行くよ。わざわざ連絡ありがと」


 早口でまくし立てるようにそう言いながら靴を履き、ドアをやや手荒く開けると、チリエはそのままグレンの方を見ようともせずに退室してしまった。


「…………絶対何かあったな」


 ぐちゃぐちゃなまま放っておかれたベッドを見下ろしながら、グレンはため息をつくのだった。

 

 一方、チリエは仮眠室を出てすぐ、向かい側の壁にもたれかかってボーっとし始めた。――昨日の今日で、まだストックには会いたくなかった。

 頭の中で、昨晩の説教が延々と繰り返される。


『いいか? てめえはまだ入って三日やそこらしか経ってねえ。まともに仕事の仕方も覚えてねぇひよっこなんだよ、立場をわきまえろ!』


「…………何で……」


『あとなぁ――もう金輪際、私怨で攻撃すんな! その武器はてめえの私怨のために持たされてんじゃねえんだよ! その武器を向けていいのはなあ、あからさまに犯罪行為をしてる奴にだけなんだよ! あのガキは違えだろ! てめえを殺そうとしたか? 誰かを傷つけたか? してなかったろ?!」


「…………何で」


 彼が言っていたことは至極真っ当だ。それはチリエもよくわかっている。ただ――


「――の残党を、何で庇うの……?」


 それが、彼女にとっては信じられなかった。


 六年前、違法薬物の利用などを理由に、チリエの父親――オーランガム・マクウォールが教祖として運営していた新興宗教団体――【秘匿のメシア】が軍によって摘発された。その際、成人信者は全員二十年以上の懲役刑、幹部は終身刑、そして直接不正入手に関与した一部幹部と教祖は、判決から一週間以内に即死刑に処されることになった。――その刑が執行される前に、教祖と幹部達は獄中で発狂の末、自殺してしまったが。

 そして、未成年の信者たちは全員、国教会が運営する孤児院に預けられた。――半ば強制的に、改宗させるために。

 【秘匿のメシア】の危険な思想を持ったまま成長してしまえば、また新たな宗教を作ってその思想を(形は変わろうとも)広めかねない。その懸念があって、そういった処置がとられたはずなのだ。……にもかかわらず、あの晩、チリエの前に現れた少年は――


『戻ってきてくださいよ、ボク達の家に。さすればまた、神はボク達を守護してくださる、再び楽園への道が示される――!』


 国教会のそれではない教義を口走った。


『今がその時なのです。壊れた籠から飛び去ってしまった、神に愛されし聖なるを、再び――』


 チリエを、ドーター様――【メシアの娘】様と呼んだ。

 これらのことは暗に、彼が自ら「自分は今も【秘匿のメシア】を信仰しています」と宣言したようなものだ。何をしでかすか分かったものじゃない。

 それなのに、どうしてストックが彼をかばうようなことを言うのか、チリエには分からなかった。


「――会いたくない」


 チリエの力ないそのつぶやきは、同時に鳴った招集ベルに負けて、誰の耳にも入ることはなかった。

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