第3話 撃つと当たるの違い
【交陣】の運用が何故ポイント&仕切り制かというと、五輪書に出て来る【撃つと当たるの違い】を表現したい部分が大きい。
『仕切り無しの連続運用が望ましい』との意見もありましたが、防具とルールでもし守られていなかったらそもそも長時間戦えませんし、観ている側としてもガチャガチャした見苦しいものになってしまいます。
ノックアウト制も私としては余り好きではありません。
グローブをしたうえでノックアウトさせるというのは何というか本末転倒な気がします。(勿論それを好きな人の気持ちを否定する意図はありません!)
想像で補完するプロレスというのは本当によく出来たものだなぁと度々思います。
グローブくらいの力積が通る表面だけ柔らかい刀で同様のノックアウト制試合があったらどうなるか想像してみてください。
『偶々当たった』のか『狙い通り攻撃が通った』のか?
その違いは修行という観点からするととても大きな違いがあります。
交陣としては一回一回双方とも反省できる時間を大切にしたいと思っています。
一本勝負(一発良いのが当たったら終わります)
というのも悪くは無いのですが、私としては交陣は修行の延長であって欲しいという思いがあります。仕切り直し無しの一本勝負では修行にはなりません。
もう少し肩肘の力を抜いた状態で楽しんで欲しいという気持ちもある一方で、己の所作を顧みて欲しいという気持ちもあります。
そういった脈絡でどっちが先に当たったかというコンマ何秒を争う事にも意味を追求しません。残心が大事です。
将来的には第三者視点での人気度もなんらかの形で見える化したいと考えています。
なのでその攻防が当てっこになっているのか、修行の一環として行われているのか大事になります。
勿論ゲームとして楽しんでいるだけであれば当てっこでもいいと思います。
ですが運用する側としてはその先を提示&用意してあげる義務があると思います。
撃つという事は力任せに攻撃を加える事ではありません。頭の中のイメージを再現して攻撃が加えられた結果の事を指します。
数うち当たるで相手に攻撃を加えられたとしても、それは偶然の結果なので撃った事にはならないのです。
修行の一貫という表現を使ったのはそういう事です。
どのような状況におかれても冷静に的確な結果を導き出せるかという事を実践する事はとても大切です。
打とあたると云事。うつと云事、あたると云事、二つ也。
うつと云こゝろハ、何れのうちにても、おもひうけて、たしかに打也。
あたるハ、行あたるほどの心にて、何と強くあたり、忽敵の死ぬるほどにても、
これハ、あたる也。(五輪書 水の巻)
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