第21話 風のしわざ〈魔が風〉
彪鬼がいつものようにマンションのベランダに向かうと、そこには退屈そうに手すりにもたれる叉羅鬼がいた。
「叉羅鬼」
「おー、来たか」
「どうかしたのか?」
「いや、この風だろう?気になってな」
「そうか……」
彪鬼がベランダに降り立ち、窓越しに栞那の部屋を覗くとまだ灯りはついておらず、暗い空間からは気配も感じなかった。もう日没も過ぎた。やけに胸が騒ぐ。
すると、また目の裏のえぐるような痛みに襲われ、彪鬼は思わず左目を抱える。
「痛むのか?」
「少し、な」
「ったく、この邪気さえ祓えればなあ。忌々しいぜ」
叉羅鬼は少し苛立っているようだった。
数日前からはびこる邪気にまみれた重い風のこの心地悪さは、彪鬼にとっても身に染みる。
「ああ、そうだ。この間栞那が言ってたよ。お前がなかなか会いに来てくれないと」
「そうか……」
「お前と他の子が話している所を見たらしい」
「そうなのか?」
「こんな近くにも見える子がいたとはねぇ。最近はめっきりそういう出会いも減ったからな。せっかくだから俺も挨拶してこようっと」
一瞬悪戯にニヤっと笑った顔が、そっぽを向くように空を眺める。その横顔は珍しく憂いの
影を落としていた。
「本当は、何度も会いに来てたんだろ?」
「……ああ」
「だろうな」
彪鬼は、川岸に枯れ草の揺れる景色を見ながら、季節が移り変わる様子が今までよりせわしなく、早く感じる事に焦りを覚えていた。
「遅いな、栞那」
叉羅鬼が言うと、2人は風を呼んだ。
***
その少し前、栞那は下校途中の足で土手に向かっていた。
予報で言っていた、ぐずついたはっきりしない1日、という天気がもう1週間以上も続いている。秋雨というには風情の感じない本当に嫌な空気だ。
久しぶりに登った土手は川の濁った匂いが漂い、草を湿らせツンと鼻をついてくる。
どんよりとした重い雲と、流れない風が居座ったまま、降ったりやんだりの気まぐれな雨がようやく上がった空は、不気味な色にゆらめいている。
栞那は久しぶりに熱を出して、しばらく学校を休んでいた。
彪鬼に抱えられて帰ったあの夜から、もしくは叉羅鬼と話した日の変な風に当たってからなのか、原因不明のめまいとだるさがしばらく続き、とうとう高熱まで出てしまった。
体はずいぶん強くなったと思っていたのに、気持ちの不安定さは体をも壊してしまうのかもしれないな、と栞那は思う。
でも3日ぶりに行った学校はとても居心地が良くてびっくりした。ゆかりや友達の顔がこんなにも懐かしく、周りの心配してくれる声が優しかった。
授業が遅れてしまったのは不安だったけれど、1人で抱え込まなくても良いと、誰かに頼ろうと思えた事に栞那は自分でも驚いていた。
でも、果たして自分はその恩を返せているのだろうか。
いつの間にかたくさんの優しさに触れて、安心や充実を手に入れて過ごす毎日も、自分1人だけではかなわないことを知った。受け取ったことで初めてその方法がわかる。けれど、それを実行できないのでは意味がないという事に気づかされた。
そして、休み明けでもう一つ驚いた事は、1月に行くスキー合宿の実行委員に勝手に推薦されていたことだ。
もちろん言い出したのはゆかりで、以前から一緒にやろうと誘われていたけれど、自分には到底無理な役だと何度も断っていたのに、今日の時点で男子2人はもう決まっていて、他にやりたいと言う人もおらず、断りづらい状況に良い返事をするしかなかった。
たくさんの人の前で何かをやることも、大きなことを決めるのも絶対嫌だった。きっと間違いを探される。責められる。笑われる。
それでも、ゆかりや誰かのために何かできるのならばと引き受けたものの、全く何をしてよいのかわからず本当は不安で胸が苦しかった。潰れそうなこの気持ちを誰かに、彪鬼に聞いてもらいたい。
きっと彪鬼なら、栞那なら大丈夫だ。間違っていない。出来る。と言ってくれる。彪鬼の言葉ひとつひとつは、全てが自信になっていた。
そのおかげで今の自分がいる。
もしかしたら、この会いたいと思う感情は、そんな言葉を聞きたいだけのものなのだろうか。他の子より、誰よりも独り占めしたいと思う気持ちは、そんな自分の都合の良い気持ちを彪鬼にぶつけているだけなのではないだろうか。
「やめよう、帰ろう」
一通り自分との会話を終えて、栞那は細い階段を降り始めた。すると、誰かが登ってきたので避けようと脇に立ち止まった。
「あの、すみません」
話しかけてきたのは若い男の人だった。
「あの、時間わかります?携帯忘れちゃって」
人の良さそうな素振りに、栞那は親切のつもりでそれに対応する。
「すみません、持ってないです」
「そうかぁ、バスが無理だと……。ここから駅まで歩くとどれくらいかな?」
「たぶん、20分位だと思います」
ここで話が終わるかと思って栞那が去ろうとしても、その人は会話を続けた。
「駅までどうやって行くと近いかな?ここ初めてきたからさ」
段々と男の口調が馴れ馴れしくなってくる様子を、栞那は敏感に感じ取る。
「土手沿いをあの橋に向かって、線路沿いに行けば駅です」
「そうか。ありがとう」
それくらい考えればわかるでしょう、と内心思ったのと、少し気味が悪くなったので男の顔を見ずに栞那は階段を降り始めた。
知らない人は苦手だけれど、それではいつになっても誰にも優しくなどできないし、困っている人を助ける事などできるわけないのだから、と自分の行動を肯定しながら、それでも急いで足を進めた。
すると、トン、トン、と後ろから足音が聞こえ、男が追い抜きざまに栞那の腕を掴んだ。
「じゃあ、一緒に来て教えてよ」
「えっ!」
引っ張られるように石段をかけ降りる。勢いがついて止まらない。
「ちょっ、ちょっと‼︎」
「付き合ってよ」
「やめて‼︎離して‼︎」
「すぐそこに車あるから。ドライブしよう」
凄い力でとても離れそうにない男の手を剥がそうと栞那は必死でつかむ。止まりたいのにまるでその力には敵わずに引きづられていくその男の向かう先に、来たときにはなかったシルバーの車が道路脇に停めてあったのが見えた。
もともとバスなど乗るつもりなどこの人にはなかったのだと、自分は騙されたのだという現実。そして自分の身が置かれている最悪の状況が全て頭に浮かんで理解した瞬間、体が震え足がすくんだ。
「離して‼︎痛い‼︎だっ、誰かあ‼︎」
いつもは割と人が多い夕方の土手沿いの道路をなぜか1台も車が通らない。周りを見渡しても散歩をしている人の姿も、帰宅途中の自転車の人もいない。
目の前の車のスライドドアが、自動で開く音がした。
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