第20話 呼び覚ます時〈恋と憧れ〉

 叉羅鬼から、鬼は人の記憶を消す事ができるという新たな事実を聞けたおかげで、彪鬼達を忘れるくらいならどんなに辛くても悩んでも構わないと思えた。そうしたら何の根拠もない自信が湧いて、よくわからないモヤモヤが少し吹っ切れたような気がした。


「きっと私なんかが想像できないくらい辛い思いを抱えていたら、全て忘れて解放されたいと思う人もいるよね」

「ああ、そうしても時間が戻るわけではないからな。今の姿のまま、その環境のまま、記憶だけがなくなるだけだ」

「でも誰かに助けられて今があるって事も、忘れちゃうんだよね?」

「むしろ、その方が幸せだろう?忘れられるなら忘れてしまえばいい。そうやって早く笑って過ごせるようになる事でどれだけその子が救われるか。それが本来のオレ達の役目だからな」

 叉羅鬼はまるで誰かの事を話すように、珍しく遠くを見ていた。

 そうだ。長く人と関わってきて、沢山の人をその笑顔で救ってきた中で、とても大切な人に出会った事だってあるかもしれない。


「ひとつ聞いてもいい?」

「なんでもどうぞ」

「叉羅鬼は、人に恋した事ある?」

「それはないね」

「それって、やっぱり鬼に恋愛感情がないってこと……?」

「うん」

 いともあっさり言われてしまった。

「栞那は彪鬼に恋愛感情があるんだろう?そりゃそうか、栞那もずいぶん大きくなったし、さらに大人っぽくなったしなぁ」

「別に見た目は関係ないと思うけど……」

「オレもさ、好きだとか結婚したいとか人の子によく言われるんだよね。女の子はほんと積極的なんだよな〜」

 まじか。でも叉羅鬼はとてもモテそうだからありえる話だろう。

「もちろん嬉しいよ。でもね、人と鬼じゃ無理なのよ。だって恋愛感情とは、つまり子を成す事でしょ?」

「…………はい?」

 いきなり何を言っちゃってるんだろう、この人は。

「それはいくらなんでもね、残念ながら」

「いやいやいや(残念ってなに)」

「人は惚れたとか恋だとか言うけど、最終的には子孫を残す為の本能の仕業だからな」

「それだけじゃないでしょう!」

「そういう風にできているんだよ」

「……」

 なんだか話がおかしな方向へ行っている気がする。

 間違いではないだろうけれど、それだけじゃないと言ったものの、自分が何を望んでいるのか、どうしたいのか、彪鬼に何をして欲しいのかどうなりたいのか、本当は何もわかっていない。

 ただいろんな感情が日々くるくると変わって、そのたびに舞い上がったり安心したり、苦しくなったり落ち込んだり。だってこんな気持ちは全部初めてなのだから。


「あ、ほら、栞那」

 風に乗ってトンボが近くに飛んでくると、叉羅鬼はさっきまで鬼火を灯していた人差し指を差し出しその指に止まらせて見せてくれた。

 頭をくるくると動かすトンボを、とても穏やかな表情で眺めている叉羅鬼。

 彪鬼が一緒にいたいとか綺麗だって言ってくれた事は、動物や生き物に対して持つような感情だったのだろうか。綺麗だって思うのも宝石や景色を見るのと同じ感覚だったのだとしたら。

 それでも、彪鬼が自分を大切に思ってくれているのはわかる。彪鬼が勝手に記憶を消さないでいてくれるのも、好きだとか恋だとか以前に、今まで一緒に過ごして積み重ねてきた信頼関係があるからだと信じたい。

 それなら。

 この気持ちを彪鬼にちゃんと伝えよう。たとえどんな答えが返ってきたとしても、きっともう大丈夫。そんな気がする。


 栞那も指を差し出してみると、トンボがこちらにきて羽を休めた。このトンボは、自分が止まっているものが人の指だという事に気づいているのだろうか。何を考えながらそこにいるのだろう。

「ふふ、可愛い」

 思わず笑うと、叉羅鬼が栞那の方を見て頬杖をついた。

「人は、憎しみ、妬み、恨み、嫉妬……。自分の中でどうしようもなく生まれてくる感情とけなげに戦いながら生きている。だからオレはそういう姿を見てると可愛いと思うし、愛おしいと思う」

「そう、かな……」

「それに、負の感情も人なら誰でも当たり前に持つものだ。むしろ、それがあってこそ人になったのだからな。でもそれがいつか膨大な力になると、他人や自分を傷つける邪気と化す。オレ達はそれを浄化し続けているが、それは一時的なものにすぎない。なぜなら人の心にはすぐ邪気が生まれるからな」

「うん」

 いつもニコニコしている叉羅鬼から、こんな真剣な口調で話をされたのは初めてだったので、栞那は少し緊張しながら聞いていた。

「そしてなにより、オレ達は人のように自分の存在を周りに求めない。それが人の心には残酷に映るだろうが、そういうもんなのさ。でもオレは栞那に会えて良かったと思っているし、これからもずっと見守っている。ま、オレが心配しなくても栞那なら大丈夫だろうけどな」


 風が一瞬強く吹くと、トンボは飛び立ってしまった。叉羅鬼が自分の来ていた羽織を脱ぎ、肩に掛けてくれた。なんて甘い香りなんだろう。 

「……ありがとう、叉羅鬼。元気でた」

「どういたしまして」

「人の為に、誰かの為に動いてるってすごいなぁ。私はいつも自分の事ばっかり。私も叉羅鬼みたいにいつか誰かの力になれるかな」

「栞那なら何にでもなれると言っただろ?これからも沢山の出会いがあって、想像もしていなかった自分に会える。そんな世界を見れる。その為に生まれてきたんだよ、栞那。そう思うと、楽しくない?」

 そう言って首を傾げた叉羅鬼の、深い緑色の髪が楽しそうに揺れる。瞳がまたキラキラと輝きを放って、無邪気な笑顔に思わず見惚れる。


 周りを惹きつけるような魅力は、一体どこから生まれてくるものなのだろう。どうすると、そんな風になれるのだろう。

 憧れと尊敬。別に沢山の人に好かれたいわけではないのに、そうなりたいと思ってしまうのはなぜなのだろう。自分の存在を求めてしまう、人の心がそうさせるのだろうか。


「叉羅鬼」

「ん?」

「彪鬼に、忙しくて来れなくてもちゃんと待ってるから大丈夫って伝えてね」

「ああ、わかった伝えるよ。でもあいつもっとこっちに来てるはずだけどな。もしや、来たって言えなかったんじゃない?密かに栞那の寝顔を見てたりして」

「えっ……⁈」

 まさか、寝ている時に来てくれていた?想像してあたふたした様子を、隣でニヤニヤと楽しそうに叉羅鬼は見ている。その顔を見た瞬間、さぁっと熱が冷めた。

「彪鬼はね、叉羅鬼じゃないんだからそんな事しないよ」

「なんだ、それ」

「女子の部屋とかこっそり覗いてるんでしょ」

「は、オレをなんだと思ってんの?まあ、栞那の部屋もたまにはそうやって……」

 パチン、と叉羅鬼の太ももを叩いてやった。

「いってー」

「やっぱり、さっきの取り消す」

「何のことだよ?」

 叉羅鬼は叩かれた部分をさすっている。なぜか嬉しそうに。

「女の子に叩かれたのなんて初めてだよ」

「そうですか」

「あ、いや待てよ、2回?いや3回?」

「ぷっ、あははっ」

 2人の笑い声が境内に響き渡る。


 すると、急に木々がざわざわと音を出し始めた。集まっていたカラス達が一斉にけたたましく鳴いて飛び去ってゆく。

 話に夢中になっていたけれど、いつのまにか辺りは真っ暗になっていた。栞那は怖くなって叉羅鬼の羽織をぎゅっと見にまとった。

 いつもは人々を見守ってくれているように静かに鎮座している神様が、急に恐ろしい力を身にまとったように、境内の雰囲気が一変した。

 荒々しく風が吹き、木々の葉を貪るように揺らす。空からじめっとした生ぬるい風が、まったりと降りてきて栞那達の周りを舐めるように流れると、石段を下っていった。

「なに、この気持ち悪い風……」

「栞那、帰ろう。送るよ」

「うん」

 叉羅鬼の手につかまり立ち上がる。ついさっきまで輝いていた綺麗な瞳は、鋭く、風の動きをうかがうように静かに見据えていた。


 2人は足早に石段を降りる。天から落ちてくる、ぎゅううう、と何かの鳴き声のような風の音が、広がるように街に流れてゆく。空を見て叉羅鬼が言った。

「魔が風だ。人の邪気と共鳴する」


 マンションまでの道のりが、やけに遠く感じた。何か嫌な匂いが立ち込めた暗い道を栞那は叉羅鬼の後に隠れるようについて歩いた。

「叉羅鬼、今日はありがとう」

 マンションの入り口で、羽織を叉羅鬼に返す。

「栞那の笑顔が見れて良かったよ」

「たまには、叉羅鬼も来てね」

「もちろん。あ、それと、いくら彪鬼に会いたいからといって、暗い時間に1人でいるのはやめろよ」

「うん、わかった」

「じゃ」

 栞那は大きく手を振って見送る。すると、叉羅鬼の残した風を散らすようにさっきの湿った風が追いかけてきて栞那の首元を通りすぎた。

「嫌……!」

 栞那は急いでそれを振り払って、マンションの中に駆け込んだ。

 その風が漂い続けるように、重い雲が空を覆い、街には日差しのない日々が続いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る