第17話 告白〈真実〉

 外は雨が降っている。

 向かいの校舎の薄汚れた壁。勢いよく落ちる雫が、細い線を無数に描いてゆく様子が見える。

 勉学に集中しろという事なのだろうか。ここからは木々の揺れる様子や、砂埃の舞う校庭は見えない。風があるのかすらわからない。

 いま自分はどこにいるのだろう。

 教室という空間、それとも頭の中に浮かぶ想像の世界。

 目で見ていればその場面に、触れればその場所に、本を読めば物語の中に、夢ならその夢の中に。

 意識とはなんなのだろう。体を置いたままどこへでも行ける存在なのだとしたら、自分は一体どんな場所を選んで、何を望むだろうか。


「栞那ちゃん、大丈夫?」

 ゆかりの声で我に返る。

「あ、ごめん、何?」

「何ってわけじゃないけど、ぼーっとしてるからさ。最近ずっとじゃない?具合でも悪いの?」

「ううん、大丈夫……」

「じゃあ、休みボケってやつ?」

 ゆかりは口に手をあてて、くすくすと笑っている。

「んん、そうかも」


 新学期が始まって2週間。あの夜からも同じ時間が過ぎている。ぼーっとしてしまう理由は明らかだった。

「でもさぁ、栞那ちゃん。黒板消されちゃったよ」

「え、あぁ、しまった……」

 来週単元テストをやるからここは大事だぞって、さっき聞いていたはずだったのに。

 自分でもこんな調子ではいけないとわかっているけれど、どうしたって彪鬼の事を考えてしまうし、頭から離れない。というか、ずっと考えていたいのかもしれない。

「そうだ、栞那ちゃん、傘持ってきた?」

「ううん、朝降ってなかったし」

「じゃあさ、私持ってるから今日栞那ちゃん家寄ってもいい?」

「えっ」

「ほら、ノート見せてあげるし〜」

 ちょっと意地悪そうにゆかりが言う。確かにありがたいけれど、部屋に誰かが来るなんて何年ぶりかわからない。さすがに栞那は戸惑う。

「でも、うち、すごく汚いから……」

「そんなのうちも同じだから気にしないって。じゃあ、放課後ね」

 ゆかりはそう言いながら教室を出てしまった。


 相手の顔色を気にしない真っ直ぐな、そして少し強引なゆかりは、昔だったら絶対に友達にはなれなかった子だけれど、今は不思議とそこに惹かれている。自分にないものに、きっと本当は憧れていたからなのかもしれない。

 彼女の近くに居ただけで、クラスにも自然と馴染めたし友達もできた。ちょっと振り回されるのも悪くないなと思える、ゆかりはそんな初めての友達だった。


 その日の放課後、栞那とゆかりは1つの傘の下を寄り添い、いつもより沢山の話をしながら歩いた。マンションに着く頃にはもう小雨になっていた。

「お邪魔しまーす」

 ゆかりの元気な声が響く。

「あ、誰もいないんだっけ?」

「うん。うち、親遅いから」

「そっか。うちもそう」

 栞那は少し緊張して、部屋のドアを開けた。

 いくら仲が良くなったとはいえ、自分の内側を見られるような気がしてしまう。こういう所はやっぱり昔からあまり変わってないのだな、と栞那は思った。

 部屋はいつ彪鬼達が来ても平気なように、ある程度の掃除はしているつもりなので、見られて困るような物もないとは思うけれど……。

「もー、どこが汚いの?めちゃ綺麗じゃん。ていうかすごい本だね」

「うん、本が好きなんだ」

 へぇ〜と言いながら、ゆかりは棚の本をじっくりと見ている。

 天井まである大きな本棚には、漫画や小説、雑誌に図鑑、いろいろな種類が並んでいる。 「本は沢山読みなさい」という父親の方針で小さい頃からよく本屋さんに連れてってもらい、気になる本を片っ端から買ってもらったものだ。

 彪鬼もよく本を読んでいたっけ……とまた思い出しては、ゆかりに突っ込まれる前に、栞那はふるふると頭を振る。

「じゃあ、とりあえずノート出すね」

「ありがとう」

 2人は小さなテーブルを囲んで座り、栞那はゆかりのノートを写し始めた。ゆかりの字はとても綺麗だった。

「ね、これ、読んでもいい?」

「うん、いいよ。好きなの読んで」

 ゆかりは1冊の漫画を手に取ると、すぐにその世界へ入ってしまったのか、ひと言も喋らなくなった。静かな時間が寂しいので、栞那は音楽をかけようと顔をあげると、ベランダに彪鬼がいるのに気がついた。

「あっ‼︎」

「えっ⁈」

 思わず大きな声を出してしまい、それ以上にゆかりが大きな声で驚いた。

「何⁈どうしたの?」

と、ゆかりがベランダを見て栞那は息をのむ。

 そのまま、3人とも誰も何も言わず静かに固まっていた。しばらくして最初に声を出したのはゆかりだった。

「……栞那ちゃん?」

 ゆかりは少し怯えた表情で栞那を見た。

 どうやらゆかりには彪鬼の姿が見えていないようだ。ふう、と栞那はため息をつく。ほっとしたような、なんだか残念な気分でもあった。

 すると彪鬼は手を振って行ってしまった。はぁ、とまたため息がもれる。

「ねえ、栞那ちゃんってば」

「あ、ごめん。声大きかったね。雨止んだかなーって……」

 焦って適当な事を言ってしまった。ゆかりが納得していないような微妙な顔をして栞那はドキっとする。

「なんかさぁ、栞那ちゃんってよく外ばっかり見てるよね」

「そう、かな」

「ぼーっとしてるっていうか、何か見えてるのか。なんか心配になるよ。何考えてるの?悩み?」

「え……と、悩み、は特にないけど……」

「じゃあ、好きな人の事だったり?」

 ゆかりの見据えた視線に、ドクンと栞那の胸が鳴った。ゆかりはそれに気づいたのか、知らないフリをしているのか、話を続ける。

「あの花火大会の日の約束って、もしかして本当は、いとこじゃなかったりして」

 女の勘は鋭いというけれど、ここまで言われると知らん顔もできないし、とっさのうまい嘘も思い浮かばない。昔は嘘も顔も作るのが上手だったのに、とてもゆかりにはもうそんな事をしたくないと思った。本当は、誰にも言いたくなかったし言えなかった。でも。

 栞那は覚悟を決めた。

「ゆかりちゃん……、嘘ついてごめんね」

「やっぱり‼︎」

 ゆかりは急に目を輝かせて読みかけの漫画を床に置いた。漫画より興味を持ってしまったのだろうか。

「なんかそんな感じがしたんだぁ。だってあの時の栞那ちゃん、めっちゃ大人っぽかったし」

「そう、かな……」

 確かにあの夜はちょっと背伸びをしていた。少しでも大人に見えるように。彪鬼にそう見てもらえるように。なんだ、もうその時から頭の中は彪鬼の事でいっぱいだったんだな、と栞那は思った。

「もう付き合ってるって事?いつから?どっちから言ったの?」

「えー…と」

「歳は?まさか、同じ学校⁈」

 やっぱり言わない方が良かったかな……と栞那は少したじろいだ。どこまで本当の事を言っていいのか、結局嘘をつかなくてはならないのか、頭がうまく回らなくて言葉が出てこない。

「あ、ごめん、ごめん」

 ゆかりは乗り出していた体を戻して座り直した。

「栞那ちゃんの彼氏、今度紹介してね」

 か、彼氏⁈

「名前くらいは聞いてもいい?」

「え、うん。ひゅう、き」

「ゆうき?年上?」

「うん……?」

「そっか、ゆうき先輩かぁ。ああ、いいなぁ、羨ましい〜」

 ゆかりは少し残念そうにまた漫画を開いた。

 栞那は申し訳ないと思いながらホッと胸を撫で下ろす。秘密ではなくなってしまったけれど

ゆかりになら、いつかちゃんと本当の事を話したいと考えていた。

 しどろもどろな自分に気を使ってくれたのか、ゆかりはもうそれ以上何も聞かなかった。


「ゆかりちゃん、ノート写し終わったら途中まで送るね」

「いいよ、平気。親に電話して寄ってもらう」

「そっか」

「それに、私、引っ越してきたばかりで、まだこの辺よく知らないんだ」

「ええっ!そうだったの⁈」

 ゆかりにそんな過去があったとは知らなかった。同じ中学の子ともクラスの子ともほぼ全員が友達のようだったし、みんな昔からの気が知れた仲間なのかと勝手に思っていた。

「いつ、こっちに来たの?」

「6年になってすぐ位だったかな」

「じゃあ、まだ1年半くらいなんだ?」

「そう。引っ越す時は泣きまくったよ。親を恨んだ。仲が良かった子も好きだった人ともいきなりサヨナラだもん。しばらくは新しい学校にも馴染めなかったし」

「そうだったんだ……」

「だから、卒業式もピンとこなかった。なんか、しらーっとしてたっけ」

 強がっているように笑うゆかりの姿は、どこか自分と重なって栞那には見えた。きっと辛い悔しい思いをゆかりも抱えてきたのだろう。

 まるで自分まで辛い別れをしてきたような感覚に襲われ、栞那も胸がじん、とした。


「でもこうして栞那ちゃんにも会えたし、今は超楽しい」

「私も楽しいよ。ね、今度はゆかりちゃん家に行ってもいい?」

「いいよ。でもうちボロいし、冗談抜きで汚いよ」

「なおさら楽しみ〜」


 栞那もゆかりに出会えて本当によかったと思っていた。

 自分も痛い思いをしてきたからこそ、誰かの痛みを想像できるのだとしたら、辛い経験も無駄ではなかったのかもしれない、と思った。

 そして無表情や関心のない顔を沢山作ってきたけれど、無感情でこなかった自分を、少し褒めてあげたい気持ちだった。


 

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