第16話 証
夏休み最後の夜は、少し秋の気配がした。
栞那は網戸にしていた窓を半分閉める。今夜は熱帯夜からも解放されそうだ。
夕食とお風呂を早めに済ませた後、時折部屋まで響いてくる母親の笑い声が近所迷惑になりはしないだろうかと気にしながら、栞那は明日の準備に取り掛かる。
久しぶりの連休だという母親のやりたい事は買い物でも食事でもなく、ためていた録画を一気見する事らしい。なんだかんだやっぱり大人は自由で羨ましい。
栞那はまだ少し濡れた髪をタオルで包む。しばらくぶりに手にする教科書やプリントを整理しながら、ふとゆかりや友達の顔が浮かんできて胸の中がふわっと温かくなった。
「わっ!彪鬼⁈」
動く影を感じて窓を見ると、いつのまにか彪鬼がベランダに立っている。
まさかこんな暗い時間に来るとは思っていなかったからいつも以上にびっくりした。栞那は頭に巻いていたタオルを慌てて外す。
「どうしたの?こんな時間に珍しいね」
「すまない」
「ううん、平気」
母親に気づかれないように、小さな声で話す。と言っても大笑いしている声がここまで聞こえてくるのできっと大丈夫だろうけど。でも彪鬼はその声に気づいて帰ろうとする。
「え、帰っちゃうの?」
「ああ、栞那の顔が見れたから」
そんな事を言われたら、ますます帰したくなくなってしまう。
「お母さんには、彪鬼の事、見えないよね?」
「おそらく」
「だったら大丈夫だよ。ね、少しでいいから」
「……わかった」
栞那は彪鬼の手をきゅっとつかんで部屋に誘う。そして、部屋の明かりを消した。眠ったふりをするために。
花火大会の日から早く会いたくてずっと待っていたけれど、なぜか彪鬼はなかなか来なかった。
やっと会えたのだから、どんな状況でも構わない。なにより、薄い壁1枚隔てた暗闇で、親に内緒で2人でいる事が、栞那にはたまらなくドキドキしていた。
栞那がベッドに寄りかかるように座ると、彪鬼も隣に腰をおろす。用意していたアルバムを取り、小さいランプをつけようとしたけれど球切れのようだった。
今夜は月が出ていないのか、思った以上に部屋の中は真っ暗闇だ。
「彪鬼に見せたいと思ってたんだけど、これじゃあ暗くて見えないね」
「灯りか?」
彪鬼は左手に、ぽっと青白い炎を灯した。
「わあ、明るい」
「これでいいか?」
「うん」
栞那はアルバムを膝にのせて開いた。
「私が小さい頃の写真だよ」
「これが栞那か?」
彪鬼は、写真に顔を近づけて見ている。
父親がまめに写真を整理してくれたおかげで、生まれたばかりの頃から最近の姿まで、丁寧に貼られているアルバム。栞那の宝物だ。
「これが、写真なのか」
「そうだよ。こうやって残るんだ。小さい頃の記憶がなくても、写真があるとちゃんと生きてたんだなってなんとなく安心する」
「そうなのか」
「彪鬼は、写真に映らなかったもんね」
「ああ」
いつだかカメラで写真を撮ったけれど、彪鬼は映らなかった。記憶の中だけでなく何かに残しておきたいと思った。
彪鬼は、写真の栞那と隣の栞那を見比べながら、「変わったような、変わっていないような」とつぶやいている。
「ふふっ、面白いでしょ」
いつのまにか、母親の笑い声は聞こえなくなっていた。お風呂に入ってくれたのなら、3〜40分は出てこない。
「彪鬼は、どんな子供だったの?鬼でも子供の頃ってあった?」
「ああ。俺は未熟者だ」
「えー、そうかなぁ」
栞那はアルバムを脇に置いて、彪鬼に少し近づいた。
「この鬼火すら、なんとか使えているにすぎない」
「この炎って人の邪気を浄化してくれるんだよね?」
「ああ」
彪鬼は、左手を2人の中央に持ってきた。本物の炎のようにゆらめいている。
「触っても大丈夫?」
「平気だ」
栞那は、そうっと右手を炎の中に入れてみた。全く熱くない。ほんのり温かい。とろみのある温泉に、とぷん、と手を突っ込んだような感覚だ。手をくねくねと動かすとまとわりついてくる。
「うわぁ、気持ちいい」
同時に懐かしい感覚が蘇ってきた。
そうか、あの時、周りの景色が青く見えたのも、暖かい水の中にいるような感覚も、この炎の中に入ったからだったんだと栞那は思い出す。
「私、初めて彪鬼と出会った時の事、すごくはっきり覚えているよ」
「本当か?」
「うん。この炎に包まれた時の事も。あの時の彪鬼は、ちょっと冷たい感じだったよね」
「それは……すまなかった」
「あれから、いっぱいいろんな事あったよね」
「そうだな」
「写真とか何かに残せたらいいなって思ったんだ。なんか出会えた記念っていうか、証っていうか」
「証?」
「うん、でもちゃんと覚えているから。今までの事とか全部。それに……ずっと一緒にいたいって言ってくれたよね?」
「ああ……」
「すごく嬉しかった。彪鬼が私の事をそんな風に思ってくれてたなんて。私も同じだよ。ずっと彪鬼と一緒にいたい。だから、今までの事もこれからの事も、ずっと忘れない。ひとつひとつが大切な思い出だから」
本当は、そんな事を言いながら、彪鬼の気持ちを確かめようとしている自分がいる。どうかあの言葉が嘘であって欲しくないと願いながら、強がる自分に向けられた彪鬼の瞳は、同じようになぜか少し寂しげに揺れていた。
「栞那……」
彪鬼の右手の甲が伸びてきて、栞那の頬にそっと触れた。
「触れても、いいか……?」
「……うん」
青い炎が床にふわりと落ちると、部屋はだんだんと元の暗闇に戻ってゆく。
頬を撫でた指が、まだ少し濡れた栞那の髪をなぞる。視線を上げると彪鬼の顔が近づいてきた。
少し伏せた瞳と、思っていたよりも厚ぼったい唇をぼんやりと見つめた後、栞那は目を閉じて全てを彪鬼に預けた。
背中にまわった腕に体が押され、頬に何かが触れる。そのまま栞那の体は彪鬼の中へと包み込まれていった。
まるで磁石で引き寄せられたような強い力で体が重なる。空を飛ぶ時に片腕で持ち上げられていた時とは比べものにならないくらいにとても強く。
こんなにも暖かくて優しくて、強くて苦しい力を、知らない。
バタン、とお風呂のドアが開く音がして、2人は勢いよく離れた。同じようにひどく驚いた顔を見つめあったあと、彪鬼と一緒に笑った。
今度は優しく、そっと抱きしめてくれた。
「すまない。そろそろ行かなくては」
「……うん」
暗いベランダで、彪鬼は少し照れたように笑って手を振った。その笑顔が栞那の小さな胸を締め付ける。
そして、栞那の体を通り過ぎるように風が遠くから吹いてきて、空に戻っていった。彪鬼の去った後は、いつまでも優しい風がとどまっている。まるで、寂しさを紛らわせてくれるかのように。
しばらくその風に包まれた体は、今度は薄いタオルケットの中にうずくまり、栞那は刻まれた記憶の余韻に浸りながら眠った。
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