第15話 夏の宵〈感情〉
初めて繋いだ彪鬼の手は少し冷めたかった。
骨ばっていてそれでいて柔らかい大きな手はしっかりと自分の手を握り返してくれた。
そんな彪鬼の手に包まれたお酒の入った小さな器は、ゆっくりと口に運ばれ、少しずつその量を減らしてゆく。
その仕草がとても大人っぽく見えて、栞那はうっとりとその様子を眺めていた。
部屋に漂うお酒の香りのせいなのだろうか。頭がぼうっとして、なんだか胸が苦しい。
テーブルの向こうの叉羅鬼は、あっというまに器のお酒を飲み干し、おかわりを繰り返している。けれど不思議と小さな筒のお酒はいつまでも空にならないみたいだった。
そしてその様子を横目に、華奢な指で支える器を唇にそっと合わせている紫月鬼は、本当に美しかった。
長いまつ毛がゆっくりと瞬いて、青白い光に浮かび上がる白い肌と艶のある赤い唇。きっとこれを色気があるというのだろう。
そんな彼らの様子を見ていると、自分だけが幼く未熟な存在に思えてくる。年齢的なものなのかその振る舞いなのか、何かはよくわからないけれど、なぜか妙に焦りが湧いてくるのだ。
栞那はジュースを一気飲みすると、ふう、とため息をついた。にまっと笑った叉羅鬼と目があってさりげなくそらす。
「いい飲みっぷりだな、いつか栞那もそんな風に酒を飲むような女になるのかねぇ」
「なりません」
「いやしかし、今でも充分大人っぽいのにこれ以上増したらオレは心配だなぁ」
よく言うよ、と栞那はムッとして、意外と自分って根にもつタイプなのかな、と思う。
「あーあ、私も早く大人になりたいな」
思わず出た言葉に、紫月鬼がゆっくりと視線を上げる。
「どうしたの?急に」
「だって、大人になったら縛られないし自由だなって。こうやってみんなでお酒飲んだり、遊んだり、好きな事したい」
「急がなくても、いずれなるものでしょう?」
「そうだけど……」
大人への憧れはずっとあった。早く学校というものから解放されて、自分でお金を稼ぎ、親からも離れて好きに生きたいと思っていた。
そして、紫月鬼のような美しく強い女性に、叉羅鬼のように自由に楽しく毎日を過ごせる大人に。そして彪鬼と……、そうだ。
自分が大人になった時、彪鬼は?
彪鬼は器をテーブルに置いたまま、もうそれを飲もうとはしていなかった。その横顔はお酒のせいなのか、ぼんやりとしているように見えた。
ただ静かにみんなの会話を聞きながら、時折目が合うと彪鬼は穏やかに目を細めた。
「そういえば、そもそもみんないくつなの?」
「さあな、オレ達、人の何倍も生きてるし」
「やっぱりそうかぁ」
「だから考えた事もないな、ってあれ?オレだけ?でもまあ体は勝手に変わっていくけどな」
叉羅鬼は甘えるような目で紫月鬼を見た。
「そうね。時間の流れがあちらにはないもの。月日の流れも、季節も、昼も夜も全てこちらだけのもの。私達はそれに合わせているだけだから」
「オレらには人様みたいに、いつから大人だとか、やっていい事悪い事、ルールや決まりもないからな。お役目さえやっていれば何をしても自由さ」
「へぇいいなぁ、気楽で」
「気楽じゃないわ」
紫月鬼のするどいツッコミに栞那は恐縮する。「……ごめんなさい」
「いいえ。とても、大切なお役目なの」
紫月鬼は優しく微笑みながら言った。
「そういうこと〜」
と、言いながら、叉羅鬼は紫月鬼のひざに、ごろんと寝転んだ。
「もう……」と叉羅鬼のおでこをパチンと叩いた紫月鬼は、それを小さな子供を見守るような目で優しく見下ろしている。
そんな仲の良い2人に微笑ましくもなり、同時に羨ましくもなった。自分の両親にも、こんな時間があったのかな、なんてふとよぎったりもした。
「ねえ、ふたりは付き合っているの?」
「付き合うって恋人同士ということ?」
紫月鬼が不思議そうに聞いてきた。
「うん、お互い好きあってるのかなって。仲が凄くいいし、お似合いだなって」
「あーわかる?」
叉羅鬼が嬉しそうに言うと、少し呆れたような口調で紫月鬼が言い放った。
「何言ってるの、鬼に恋愛感情なんてないじゃない」
「……え?」
場が、しんと静まりかえる。
次に叉羅鬼が声を出すまでの時間は、ほんの一瞬だったのかもしれない。だけど永遠に解けない氷の中に閉じ込められたような、息苦しく冷たい時間に感じた。
「そんなにはっきり言わなくてもいいだろ。わかってるよ、オレに、その、恋愛感情がないことぐらい!」
と、起き上がっていつも饒舌な叉羅鬼が、なにやら下手くそにフォローをしてくれたような気がした。
そっか。
そうだったんだ──。
突然、ピカっと白い光がベランダから差し込むと、ドーン!と花火の音が響きわたり、栞那は、びくん、と体を震わせた。
「お!始まったな!よし、見に行くぞ」
叉羅鬼が栞那の側に来て、手を差し出した。
「あ、うん……」
大きな手に支えられ、栞那は腰を浮かす。こんなに浴衣って苦しかったっけな、と思うくらい立ち上がるのが、やっとだった。
ベランダに4人で並んで、花火を見上げた。
次々と打ち上がる花火が視界の中にあるのを感じるけれど、どこか遠い所を眺めているような感覚に栞那は陥った。
音も色も、もう何も入ってこない。
「どうした?」
彪鬼が、顔を覗き込んできた。
「あ、ううん、なんでもないよ」
ダメだ、うまく笑えない。
けれど彪鬼の顔からも笑顔が消えている。
そうだ。今夜、みんなを誘ったのは自分で、せっかくこうやって一緒に過ごしているのに、1人だけこんな顔をしていたら、楽しい時間を台無しにしてしまう。
今はとにかく考えるのをやめよう。
栞那は、手すりをがっ、と掴んで足を開くと大きく息を吸った。
「た〜まやぁ〜っ‼︎」
思い切り大声で叫んでみる。彪鬼が、びくっと退いた。
「お、いいねぇ。かーぎやぁ〜!」
と、叉羅鬼が続けた。
「えー、なにそれ」
「あのな、知らないで叫んでたのか?」
「だって、おばあちゃんが言ってたから」
「まぁ、いいや。よし、上がった。もう一回」
「わかった」
「ちょっと、あなたはいいけど、栞那の声は周りに聞こえてるのよ。それに、栞那もそんな格好で、浴衣が乱れてしまうわ」
「う……」たしかに。
紫月鬼の変わらぬ冷静さに現実に連れ戻される。それでも思い切り叫んだら少しすっきりした気がした。
「へへ」と彪鬼の方を見ると、笑顔が戻って栞那はホッとする。
本当は、リップを塗ったりイヤリングをつけてみたのも、少しでも大人に近づきたかったから。そうしたら、友達としてではない存在として、彪鬼が見てくれるような気がしたから。
そんな本当の大人から見たらくだらないと笑われそうな事をしてまでも、憧れるものとは、大人とは、一体なんなのだろう。
でも、もうその必要はなくなってしまったようだ。勝手に期待して、1人で盛り上がって、なんだか馬鹿みたいだな、と思いながら栞那は夜空を仰ぎ見た。
ひゅるるる……と火の玉が渦を描くように打ち上がり、ふっと消えたかと思うと、一瞬で大きく丸い火の花が開く。
キラキラと星のように輝きながら消えてゆく光。滑り落ちるように地上へと流れてゆく光。
御室川はその輝きを映し、1年に1度最も美しく流れる。体中に響く音、燃えた香り、屋台の匂いが、ようやく栞那の感覚を呼び起こしてゆく。
「わあ、すごい、綺麗……」
「そうだな」
空に大きく咲いた花火は、一瞬で散ってゆく。もう1度見たくても、もう2度と見る事はできない。
ただ、この景色をしっかりと焼きつけておくように菜那は夢中で空を見上げた。時折隣で見上げる彪鬼の横顔も。
すると、彪鬼もこちらを見た。
色とりどりの光を受けながら、優しく微笑むその笑顔をずっと近くで見ていられたらいいのに。そして、その視線の先が自分だけだったら
いいと思っていたのに。
「栞那」
「……なに?」
「……いや。いいんだ。花火が終わったら」
「栞那〜、楽しい?」
突然叉羅鬼が彪鬼との間に割り込むように入ってきた。両腕で栞那と彪鬼の肩を抱き、ぎゅっと締め付ける。
「おい!」
「苦しい〜!」
「オレはずっと見守っているからな」
叉羅鬼は頭をくしゃっと撫でてくれた。
「あ、ありがとう。でも、ちょっと近い〜」
「いいだろ」
不思議な大きな存在感。
ずっと近くにいて、これからもそんな風に言ってもらえたら、こんな風に包んでもらえたら、どんな辛い事も乗り越えていける気がしてくる。小さな自分でも何かできる、そんな風に思えてくる。
きっと、大人になるのはそれからでいい。
連続で打ち上がり、鳴り響く最後の音が消えてゆくと、しん、と真っ暗な空が戻ってきた。
辺りには火薬の匂いが立ち込め、観衆からは歓声と拍手が聞こえた。
「いや〜素晴らしい」
叉羅鬼の腕にようやく解放される。でも大きな温かい体が離れていくと、栞那はとても寂しくなった。静かな夏の終わりを告げるこの静寂も、終わらないでいて欲しいと願う。
「よし!飲み直そう!」
「そうね」
紫月鬼に寄り添うように、叉羅鬼は部屋に戻っていった。栞那は彪鬼と顔を合わせ、ふっと苦笑いをした。
「ほんと、叉羅鬼って自由だよね。でもあんな大人憧れるなあ」
「……栞那は、早く大人になりたいのか?」
「え?うん、でも、よくわかんなくなっちゃった」
「そうか」
「ただ大人になれば、今よりもっと強くてかっこいい自分になれる気がしたの。おかしいよね。今こんな風にしか生きれてないのに、そんなに変われるはずないもんね」
「栞那は、栞那のままでいいと言ったろう?」
彪鬼は栞那の手をとる。
「いや、そのままでいて欲しいんだ」
「俺は……ずっと栞那のそばにいたい」
「栞那、きれいだ」
彪鬼の微笑みを見ながら、何も言葉は出てこなかった。栞那は、体の力が全て抜けてしまったように、ゆっくりと彪鬼の腕にもたれた。
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