第14話 夏の宵〈宴〉
「彪鬼は、もうここには来ない」
ちょうど1年前の花火大会の夜、ベランダに突然現れた美しい
初めて彪鬼、という名前を知れたと同時に、もう彼とは2度と会えないのだという絶望感が、静けさを取り戻してゆく闇の色を、深く濃くしていった夏の終わりだった。
秋が深まった日、その言葉に反して彪鬼は来てくれたけれど、なぜあの時、彼女はわざわざ自分に会いに来たのだろうか。その後も、彪鬼を解放してあげてと言ったり、仲間に入れてくれと笑ったり。彼女の本当の想いは、いまだつかめない。
ただ冷たくて怖かった。
それなのに、不気味で恐ろしいのに、あの美しさと残酷さを持ち合わせた存在に、どうしても惹きつけられてしまうのは確かだ。
彼女の名前は、
「素敵な、浴衣」
突然栞那の部屋に現れた紫月鬼が、壁にかけられた真新しい浴衣を見てそう言った。
なんの前触れもなしに急に話しかけられたら死ぬほどびっくりするに決まってるっていうのに、紫月鬼は涼しい顔でこちらを見ている。
栞那は冷や汗をかいて縮こまりながら、紫月鬼の気分を害さないように愛想笑いをする。
「こ、こんばんは……」
「この浴衣を、祭りの夜に?」
「あ、はい……」
「そう」
紫月鬼は、真っ白な細い手を、そっと浴衣に添えて言った。
ずいぶん前から、お祭りの日はベランダで花火を一緒に見ようと彪鬼と約束をしていた。
もちろん、彪鬼と2人きりでも良かったのだけれど、なんとなくみんなで眺めたら楽しそうと思って、叉羅鬼と紫月鬼に声をかけてみて欲しいと、彪鬼にお願いをしたばかりだった。
「私達を、誘ってくれてありがとう」
優しく微笑んでこちらを見る紫月鬼に、栞那は胸が高鳴った。
「でも本当は2人で過ごしたいのでしょう?」
「え、それは、別に……」
「浴衣はね、月や花火の光の下が1番美しく見えるの。だから少し外を歩いてくるといいわ」
「外?」
「彪鬼はその夜、神社にいるわ。よかったら連れてきてくれる?私達はこの部屋で待っているから。よろしくね」
「え?でも、彪鬼は……」
紫月鬼は、すぐに消えてしまった。
祭りの当日、祖母に着付けをしてもらった。
今日は友達が家に来るから、と祖母を追い出してしまうような形になってしまったのは本当に申し訳なかったけれど、仲の良い友人ができたのだと、ホッとしたように帰る祖母を見て、言葉にはしないけれど、今までたくさん心配をかけていたのだろうな、と改めて感じた。
いつもベランダに来てくれる彪鬼をわざわざ迎えに行く理由はわからなかったけれど、神社に向かう準備をしながらなんとなく、いつもとは違う感じがしていた。
せっかく浴衣を着るから、というのもあったけれど、初めて色のついたリップをしたり、イヤリングをつけてみたりした。
彪鬼と待ち合わせみたいになって、着物がお揃いみたいで嬉しくて、思わず勢いで手を繋いでしまったけれど、急に恥ずかしくなってまともに顔を見れなくなってしまった。
けれどこんな風に、たくさんの人の中、手を繋いでふたりだけの世界を歩いてゆく。ベランダでは味わえない、自分達だけが特別な世界の中にいるような感覚。
きっと本当は、彪鬼と親しくなる事を快く思っていなかったのであろう、紫月鬼がくれたこの時間が、とても愛おしかった。
「ただいまー」
彪鬼と一緒にマンションに戻ってくると、家の中は真っ暗だった。
「あれ?いないのかな?」
と、鼻から頭に、ふわっと抜ける甘く不思議な香りがした。どこかで嗅いだことのあるような…。
「えっ、まさか」
栞那は急いで下駄を脱ぐと、廊下を抜けて部屋のドアを勢いよく開ける。
「う、わぁ……」
見慣れた部屋には、いくつもの青白い炎があちこちに置かれていた。その小さくも強い光は、ろうそくのようにゆらゆらと辺りを照らしている。
言葉を失うほどの不気味で美しい幻想的な空間。まるで不思議な道具のドア1枚で、知らない世界に来てしまったみたいだ。
「あ、おかえり〜」
心なしか叉羅鬼がフラフラと近づいてきた。
「浴衣、いいねぇ。栞那は何着ても可愛いな」
と、ご機嫌に肩を抱こうとしてきた腕を、後ろにいた彪鬼が、ぎゅっと捕まえてくれた。
別に嫌なわけではないのだけれど……。
「あれ?なにこれ?あー、いわゆるやきもちってやつかな?」
「なんだ、それは」
「ふう〜ん?」
叉羅鬼はそのまま彪鬼の肩を抱くと、彪鬼の顔に自分の顔を近づけている。
「おい……!」と渋い顔をしながら、彪鬼は叉羅鬼の腕を担いだまま部屋のテーブルの脇まで運んで大きな体を下ろすと、やれやれといった風にその隣に座った。
「へへへ〜」
叉羅鬼はめちゃくちゃ楽しそうだ……。
「おかえりなさい」
テーブルの前に座っていた紫月鬼が、にっこりとこっちを見た。
叉羅鬼の笑顔もドキっとするくらいかっこいいけれど、紫月鬼の微笑みはそれに負けないくらいドキドキする。
でもそれより、今気になるのは。
「あの、この香りってもしかして……」
「そ、酒でーす☆」
小さな四角いテーブルの上には、本当にお酒が入っていそうな筒状の入れ物と、小さな器が3つ置かれていた。
「栞那はまだ子どもだからな、酒じゃないもの持っておいで」
と、笑顔の叉羅鬼に言われる。
ひどい。こんな時に子供扱いするなんて。
かなりショックだったけれど、確かにその通りなので、栞那は1人台所に行き、ジュースをグラスに注いで、みんなと一緒にテーブルを囲んだ。
「そろったわね」
「それでは!かんぱーい!」
やたら大きな叉羅鬼の掛け声で、4人は器を合わせた。
栞那はなにやら流されるがままにグラスを合わせてみたものの、乾杯などやった事もないし、まだこの雰囲気に動揺している。
中学生の部屋でお酒なんて飲んでいいのだろうか。もちろん自分は飲んでいないし、そもそもみんな鬼だし……。なのに、とてもドキドキする。
「やっぱり、大勢で飲むと、うまいな」
叉羅鬼はもうおかわりをしている。彪鬼をちらっと見ると、少し口にしただけのようでホッとした。栞那は落ち着かなくてジュースの味がよくわからない。
「鬼も、お酒飲むんだね」
栞那が叉羅鬼の飲みっぷりに感心して言うと、
「鬼に酒がなけりゃ鬼じゃないだろう」
と、よくわからない事を言った。
「それに、こんな夜は酒がないと始まらない」
叉羅鬼は何がそんなに楽しいんだろうというくらいニコニコしていて、それはいつもの事なのだけれど、今日はそれに加えて変な動きをしているし、顔も赤くて目が涙ぐんでいるようにも見えて、なんだか可笑しい。
「ん?栞那、何が可笑しい?」
「だって、酔っ払ったお父さんみたいなんだもん」
「はっ、オレはまだお兄さんだぞ。鬼のお兄さんってな」
「うっわ〜、笑えない、それ」
「言ってみたかっただけだよ!」
「お兄さんっていうか、もうおっさんだね」
さっき子供扱いをした仕返しだ。
「ははっ」
はっきりと聞こえたその声の主を、叉羅鬼と紫月鬼は同時に見る。
いつも溶けるような笑顔の叉羅鬼の真剣な顔。クールで静かな眼差しの紫月鬼の見開いた瞳。ふたりの視線を受けながら、何事もなかったかのようにお酒を口に運ぶ彪鬼。
「あははっ!」
栞那も思わず吹き出す。
「おっさん」
ボソっと彪鬼が言って、栞那は涙が出るほど笑った。
驚き顔の2人は言葉のないまま顔を合わせると、穏やかに微笑んだ。その様子を見て、栞那もじんわりと体が温かくなるのを感じる。
しばらくして、紫月鬼が栞那の方に体を傾けて耳もとで小さく囁いた。
「栞那の、おかげね」
叉羅鬼と紫月鬼があんなにびっくりしていたという事は、彪鬼の笑った姿をいま初めて見たという事なのだろう。
それは、今日まで彪鬼の笑顔を何度も見ていたのは、長く一緒にいる彼らではなく、自分だけだったのだという栞那の確信でもあった。
紫月鬼のひと言は、自分なんか彪鬼に何もしてあげられていないのに。ずっとそう思っていた栞那の胸の奥深くに響いて、いつまでも激しく震えていた。
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