第13話 夏の宵〈宿命〉
もうすぐ日没だ。
彪鬼は、鳥居の上に腰掛け、石の階段をせわしなく上り下りする人の流れを、じっと見下ろしていた。
じきに終わる夏の、幾度となく眺めてきた祭りの夜。朽ちる事のない自然の理と共に、受け継がれゆく営みは、織りなす景色の一部に過ぎなかったはずの風景を、やがて変えていった。
行き交う人の表情は皆穏やかで、隣り合う者と目を合わせほころぶその顔は、次第にこちらの心までも震わせてゆく。
いつのまにか、そこにある想いを汲み、浮き沈みするように揺れる感情は、一度見つけてしまった形ないものを、きっとこれからも探し続けてしまうのだろう。
すぐに見つけられるはずだと思っていた栞那の姿が見えず、彪鬼は参道の上を緩やかに低く飛ぶと、その先の本殿の脇に降り立った。
「あ!彪鬼!良かった〜」
後ろから栞那の声がして、彪鬼は振り返る。
「もう会えないかと思った〜。すごい人なんだもん」
カコン、カコン、と近づいてくる人影を、彪鬼はいぶかしげに目で追う。
祭りの灯りにぼんやりと映し出した見慣れた笑顔に、ようやく栞那本人だとわかると、また胸の中を小さな波がさざめいていった。
「栞、那?」
「どうしたの?」
「いや、それは……」
「浴衣だよ。おばあちゃんに縫ってもらったんだ〜」
深い藍色に、紫陽花の花だろうか。
薄暗い境内でひっそり花開くようなしとやかさを纏いながらも、淡い薄紅色の可憐な帯は、まだ少し残るあどけなさを映しているかのようだ。
それでも、背が彪鬼に追いつきそうなほど伸び、頬の丸みもなくなり、髪を上げた栞那は静かに大人びた雰囲気を漂わせていた。
「花火大会、4人で見たいなぁって言ったでしょ?」
「ああ」
「そしたら、紫月鬼さんが来てくれて」
「紫月鬼が?」
「うん。浴衣は、花火や月の明かりの下の方が美しく見えるから、外を少し歩いてきなさいって言われたの。神社で彪鬼が待ってるからって」
「そうか」
それで、社に栞那がいるから、と紫月鬼に言われた訳と、その姿をなかなか見つけられなかった理由が、彪鬼はようやくわかった。
「この浴衣、どうかな?紫月鬼さんみたいに着こなせてないとは思うけど……」
「よく、似合っている」
「ほんと?ありがとう〜」
こんな時、あの叉羅鬼だったらいくらでも言葉が出てくるだろう。
もう一言何かを伝えたいような、何か言い足りないようなもどかしさが、彪鬼の中にこみあげる。と同時に、言葉を知らないから声が出ないのではないのだと気づく。
「彪鬼と、おそろいみたい、でしょ?」
湿っぽい夜風が黒髪を揺らすと、頬にかかった髪を耳にかけ微笑む栞那に、彪鬼は見惚れていた。
「ほら、早く行こ」
ゆっくり近づいてきた栞那は、彪鬼の手を握った。
栞那の手にひかれゆっくりと後をついていきながら、彪鬼は栞那の後ろ姿を眺める。
境内の露店の眩しいほどの明かり。それを囲う木々の隙間を埋めてゆく黒い闇。その狭間でたくさんの人の中、2人だけが別の世界を歩いているようだ。
初めて触れた栞那の手は温かい。そして、強く握ると折れてしまいそうなほど細い。
いつもなら、大きな瞳を輝かせながら幾度とも変わる栞那の表情が、今夜はなぜかうつむいたまま、こちらを向いて話してはくれない。
いや、きっとふいに振り返られたら、思わず目をそらしてしまうだろう。それくらい、ずっと眺めていたかった。
感じる事のなかった時間の流れが、やがてゆっくりとその瞬間を記憶に刻んでゆく。
頭の高い位置に一つに結われた栞那の髪の先が、浴衣の襟のあたりでゆらゆらと揺れている。その先には白くしなやかな首。小さな耳には何かが光を放ちながら小刻みに震えている。
見つめているだけで、喉の奥が、ぎゅっと狭くなって息苦しくなるような感覚と、頭が、じんとするような圧を感じる。
それでも、ほう、とため息が出るような身を揺らすほどの鼓動を、彪鬼は心地よく感じていた。
「あっ!」
突然、栞那の手が勢いよく離れていった。
彪鬼が顔を上げると、こちらに向かって手を振りながら人影が近づいてくるのが見えた。栞那も彼らに向かって駆け寄ってゆく。
はしゃぐ姿はいつもの栞那で、彪鬼は少しほっとしながらその様子を見守っていた。
「栞那ちゃん!」
「ゆかりちゃん!」
2人は手を取り合って喜んでいる。それを横で見ている男が2人。皆、栞那の友人なのだろう。
「栞那ちゃん、浴衣すっごく可愛いね!」
「そうかな……ありがとう」
「今日は予定あるって言ってたから、来てないと思ってたよー、どうしたの?」
「あ、これから……なんだ。いとこ達がくるの」
「そうなんだ」
しばらく皆で話をしてから、栞那が手を振ると、3人は行ってしまった。少し肩を落としたように栞那は彪鬼のもとへ戻ってくる。
すると、友人達の中の1人が振り返って、栞那の後ろ姿をしばらく見てから去っていった。その姿が見えなくなるまで、彪鬼はしばらく目で追った。
「いいのか?友達、なのだろう?」
「うん、いいの。大丈夫。まぁまた嘘ついちゃったけどね……」
「嘘?」
「あ、心配しないで。約束は彪鬼達の方が先だったし、ただどうやったら気分を悪くしないで上手に断れるかなぁって悩んじゃってただけだよ。それに……」
「今日は、彪鬼と一緒にいたいから」
栞那のその言葉に、彪鬼の中で何かが生まれ、行き場を無くし、渦を巻き、漂う。
今では沢山の笑顔に囲まれ、栞那が楽しく過ごしている事を、彪鬼はよくわかっている。きっと本当は一緒に居たいに違いない。そうわかっているのに、なぜか惑う。
これは、なんという感情なのだろう。
どこか寂しそうにうつむく栞那を見つめながら、彪鬼は、あの人の言葉を思い出していた。
いいか、彪鬼──。
人と鬼は、一緒には、なれない。
それは
お前が1番わかっているのではないか?
今のような時間も、やがて終わりがくる
もうそう長くないことも、気づいているのだろう?
お前のことだ。
それでもいいと思っているのだろうが、
あの人間の子は、どうするのだ?
絶望や苦しみを、お前は救ってやれるのか?
いや、もう何も言わん。
お前の選んだように、生きればよい。
宿命を与えられた者たちには、どうする事もできないのかもしれん。
その左目のように。
「彪鬼?」
黙り込む彪鬼を、栞那が不安そうに覗き込む。
「いや、なんでもない」
「あの……、もう1度、手、いいかな?」
「ああ」
彪鬼は、強く握りたい衝動を抑え、そっと栞那の手を取った。
誰も先の事など、知る由もない。
たとえ知りえたとして、変えられぬものならば、ただ歩むしかない。
「あっ」
人を避けようとしてふらついた栞那を、彪鬼は強く引き寄せた。
「……ありがとう」
「ああ、行こう」
2人は、繰り返し襲いくる波に逆らうように、紫月鬼と叉羅鬼が待つマンションへ向かった。
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